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はてなキーワード: 科学者とは

2009-02-03

http://anond.hatelabo.jp/20090203012504

ほれみろ。科学者科学を絶対化してるじゃないか。少なくともここに一人いるらしいじゃないか。

あまりにも手垢のつきすぎている物語を信じるのは騙されやすい人間だけだ。

宗教科学は別次元って何回言ったらわかるんだ?それとも、自分自然科学を専攻していてより論理的な人間だから、騙されないって言うの?宗教よりも自然科学はそれだけ優位なものだっていうの?

君みたいな人間がいるから、科学宗教みたいだって言われるんだよ。

http://anond.hatelabo.jp/20090203010708

「神の存在」を信じるならば、実験理論で説明せよ。

「これまでの経験から考えて、神に頼っても何もしてくれない可能性の方が高い」と信じるならば、実験理論で説明せよ。

そうでないならば、保留して、汝が信じることを実験理論で説明せよ。

一代で出来なければ、論文を残して幾万世代で。

たとえ、証明できなくても、実験を積み重ねることで、この方法では証明出来ないという事の証明になり、それはそれで、科学の1ページとして、輝かしくはない物の立派な科学の1ページだと。

私は科学をそのように思っています。

まあ、科学者としてはそうなんでしょうね。

でも、神の存在って結局のところ人間の理性では説明不能だし、まして科学では説明できないわけで。そういうものに対して、実験理論で説明せよと言うほうが間違っていますよ。そもそも、この大元の命題自身が不毛すぎやしませんか。とか言っちゃいけなかったか。

http://anond.hatelabo.jp/20090203004703

天動説疑似科学として持ち出すような人というのが、私のことであれば。良く読んでとしか言いようがないです。

地動説が正しく、天動説が誤りであるってどこに書いてあるか、教えて欲しいですw。

天動説データを取っていたというのはその通りですね。私の言い過ぎでした。

そもそも、主題とは関係ない事かと思います。主題は、査読を拒否するか、否定するなら、きちんと論文の形をとって、査読者を集め、しかるべき科学の手続きを踏めという事です。その主題に置いては、天動説地動説も確かに正しいですね。しかしながら、しかるべき手続きを取った結果、現代では地動説の方を一般的理論として取り扱うのが一般的かと思います。

まぁ、こうやって、議論を重ねて、誤解を解いて、指摘があれば反論して、それでも、残る物が科学かと思います。

「神の存在」を信じていても科学者にはなれると思う

という大元のタイトルに対して、

「神の存在」を信じるならば、実験理論で説明せよ。

「これまでの経験から考えて、神に頼っても何もしてくれない可能性の方が高い」と信じるならば、実験理論で説明せよ。

そうでないならば、保留して、汝が信じることを実験理論で説明せよ。

一代で出来なければ、論文を残して幾万世代で。

たとえ、証明できなくても、実験を積み重ねることで、この方法では証明出来ないという事の証明になり、それはそれで、科学の1ページとして、輝かしくはない物の立派な科学の1ページだと。

私は科学をそのように思っています。

http://anond.hatelabo.jp/20090202223239

「水は言葉を理解する」という命題は、「過去の水に関する実験結果は、全て水にかけた言葉関係なく説明できる」ことから、間接的ではあるが、否定実験をするまでもなく容易に反証可能。

あくまでも、私見になってしまい、パブリック科学論とはずれるのかもしませんが、私はこのセリフには同意できません。

なぜならば。

昔は、天動説が証明することもなく当たり前でしょう、と言われていましたが、今では、地動説の方が一般的です。

しかしながら、何百億年という単位で見た場合、実は、地球太陽の周りを回っているというのはたかだか100億年程度の事で、あと200億年後には、別な軌道を描くもっと複雑な運動であったことが証明されないとは限りません。

ただし、現在科学で言えば。

地球太陽の周りを回っていると考えるのは十分に合理的であり、天体観測上も問題なく。十分矛盾がない理論である。という事になると思います。

こういう考え方が科学であると思いますので、十分な考察と、十分な実験が無く、肯定することも否定することも非科学的だと私は思います。

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「水は言葉を理解する」という命題は、現在科学の基本的な実験と、その命題を主張する科学者実験に不備が見られることを理由に、「水は言葉を理解する」という命題を主張するにはデータ不十分。よって検討に値しない。

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言い方を変えると、査読を拒否するのに十分な理由がある。という言い方でもいいかもしれません。

という分には問題ないと思いますが、反証可能であるとするには、やはりそれも、データ不十分である。ほとんどの人が唱えている「水は言葉を理解しない」という命題もまた、査読を拒否するのに十分な理由があると思います。(他の実験とかいわれても、他の実験は他の実験で条件が違うのに、何か言われても困りますと。もっとも、必ずしもそうでもない事も分かりますけれども。きちんと、論文としての体裁を整え、どの論文のどの実験と、どの実験の結果を基に、どういう風に考察して、けっか、どうである。という条件をそろえてくれないと、査読することが不可能という意味科学的というならば、そういうことかと。それ以外はディベートかと思います。)

既存の科学に、実験理論で、新しい1ページを追加していくのが科学かと思います。であるならば、証明可能かどうか?という事は科学に値せず、証明することが科学かと思います。反証不可能な事については、現代の科学では証明・不可能と判断を保留した方がよいと考えています。

2009-02-02

http://anond.hatelabo.jp/20090202115356

元増田。まぁ、確かにそうなんだけど、それは、否定の証明というのでは・・・否定の証明を試さないと「非科学的な態度」になるのであれば、ほとんどの疑似科学は否定できなくなってしまうよ。以下で、「神様がいないこと」を、「霊がいないこと」とか「水は言葉を理解すること」とかに置き換えてみれば分かる。

科学神様がいないことを証明し、それを査読し、論文に載り、世界中科学者が追実験し、証明が確認された。

という事実は聞いたことがない。

よって、科学神様存在を、証明も否定もしていない。未だ議論中。

科学があるから、神様はいないと考えるのは 非科学的。

科学的には、データ不十分で、証明も否定もできない。もっとみんなでデータを集めましょう。というステータス

自分の言いたかったことは、次のようなこと。

・「神の存在」はもともと反証不可能な命題で、反証不可能な命題は信じていても科学的な態度(=反証可能な命題は証明か反証をする)とは矛盾しない。

・「神頼み」は、反証可能な命題に対して証明も反証もせず、原因を神に求める態度であるため、科学的な態度とは矛盾する。

よって、非科学的なのは「神頼み」であって、「神の存在」を信じることは科学的な態度に矛盾するものではない、ということ。要するに、反証可能なことだけに注目して、そこは白黒つけましょう、というのが科学だ、と言いたい。

「神の存在」は、神が見つからなかったとしても、「神は全知全能だから人間には分からないように隠れられる」と言い逃れられるので、もともと反証不可能。

「霊の存在」の反証不可能性は微妙。霊の定義に「霊は人間には分からないように隠れられる」という命題が含まれていれば、もともと反証不可能になる。そうでなければ、「既存の光や音に関する科学実験結果は、全て霊の存在関係なく説明可能」ということから、間接的に、物理的な霊の存在を否定できる。これが、「人間は霊を感じる」という認知科学命題であれば、話は全く別で、これは真になると思う。実際に一人「私は霊を感じます」みたいな人を連れてくればいいだけだし、幻覚作用のある物質を投与したときに霊を感じたりする場合の記録などがあるはずなので、正しいはず。

「水は言葉を理解する」という命題は、「過去の水に関する実験結果は、全て水にかけた言葉関係なく説明できる」ことから、間接的ではあるが、否定実験をするまでもなく容易に反証可能。

うーん、自分で書いていて、なんか考えがまとまっていない気がする。科学哲学に詳しい人、よろしくお願いします・・・

http://anond.hatelabo.jp/20090202142602

後だしじゃんけんはもういいから、そこで科学者様である君が原理とやらをここで説明してみれくれよ。

http://anond.hatelabo.jp/20090202064637

科学神様がいないことを証明し、それを査読し、論文に載り、世界中科学者が追実験し、証明が確認された。

という事実は聞いたことがない。

よって、科学神様存在を、証明も否定もしていない。未だ議論中。

科学があるから、神様はいないと考えるのは 非科学的。

科学的には、データ不十分で、証明も否定もできない。もっとみんなでデータを集めましょう。というステータス

http://anond.hatelabo.jp/20090202101223

願望が実現したことならあるんじゃないの?

dreams come true ってやつだ。

ダメだ、こいつとは話はできない。と思うだろうけど、その考え方自体がすでに宗教的なんだけどわからないだろうな。科学者様には。

「神の存在」を信じていても科学者にはなれると思う

「神の存在」を信じていても、科学者にはなれると思う。科学的な態度の否定に繋がるのは「神に頼れば問題が解決する」という「神頼み」を信じているかどうかであって、「神の存在」を信じていても、「これまでの経験から考えて、神に頼っても何もしてくれない可能性の方が高い」ということを同時に信じていれば、科学的な態度を堅持できると思う。

2009-01-26

ニセ科学は無くならないけど、それでもニセ科学批判者は正しいよ

http://d.hatena.ne.jp/michiaki/20090124#1232802027

「あなたたちの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」とイエスは言いました。

「あなただってもし知り合いが亡くなったら葬式に行くんじゃないですか? それって、科学的な行為なんですか?」

ホメオパシー実践者に問われたら、ニセ科学批判者はどう申し開きをするのだろう?

科学者は胸を張って「科学的ではありません」と答えるよ。

なぜなら科学者が批判してるのは非科学的な物それ自体じゃなくて非科学的なものを科学と言い張る態度だからだよ。

ホメオパシー論者がもし「ホメオパシーキリスト教と同じく私の信仰です。科学的根拠なんて一切ありません」

と主張してたなら、それを叩くのはよっぽどマッド科学者かいないと思うよ。

だから初詣に行く科学者は少なくともニセ科学批判に関しては矛盾しないよ。

2009-01-24

http://anond.hatelabo.jp/20090124083553

修論は「努力賞」みたいなもんだから、内容がしょぼくても、

君が頑張ったってことを示せれば通すことはできる。

ただ科学者としての基本的な素養はちゃんと身についてることが条件だが。

2009-01-22

http://anond.hatelabo.jp/20090122133244

ここまで低脳を晒して、tittonは一体何が楽しいのだろうか。

tittonの中では『正しい自分がこれだけ批判されるのだから自分が絶対に正しい』という確信が膨らんでいるのだろうと想像はつくが。

>何故ならそれは科学者の態度ではないから。何故ならそれは科学者の態度ではないから。


titton『疑似科学社会的有害なものとして排除すべきだという主張は「科学の問題」ではない。「社会的な問題」であり、科学者の態度に束縛されない。宗教が「宗教者の態度」に基づいて科学を排除しようとしたのが中世だよね。一方が他方を社会から排除しようとするならば、一方の価値観内で正当性を主張するだけではダメだということ。』

上記のtittonの反論(?)が対象としている文:

『今までの経験から2をやる人間は大体無知である可能性が高いよなあという話はすれども、2の段階で相手を切り捨てるニセ科学批判者は今後も出てこないだろう。何故ならそれは科学者の態度ではないから』


対応が分かりやすいように「A:ニセ科学」、「B=科学者(ニセ科学批判者)」、「C=ニセ科学批判批判者」とした場合、


tittonの反論(?)対象文『Aを批判するBを批判するCは経験無知である事ばかりでCと話をしても時間無駄だとAが愚痴ったとしも、話をする前からCを無視する事をAしていないし今後もしないだろう』

tittonの反論(?)『BがAを社会から排除しようとするならば、科学価値観内で正当性を主張するだけではダメ


もう『反論(?)』と書かれている理由に、賢明な読者の方はお気づきだろう。

そう、tittonが何に向かって話をしているのかがさっぱり分からないのである。


titton『3)については、それが社会から排除されるに見合うほどの大罪なのか?という量刑が常に疑似科学批判者の一方的な判断で行われているのが問題。』


>法的にも犯罪だという判断が行われてるが、犯罪社会から排除されるべきではないとでも?


titton『そういう判断はそれなりの慎重さで行われるものだ。むやみに他人の思想や言動を制限することにつながらないように必要最小限に。そもそもそれが不十分だと感じるからあなたは警察に任せずに自分疑似科学批判をしてるのではないのか。なぜ不十分だと感じるかといえば物事の一面しか重視していないからだろう。』

やはり対応が分かり易いように「A:ニセ科学」、「B=科学者(ニセ科学批判者)」、「D=科学」、とおくと


titton『Bの一方的な判断で、Aが社会的に排除されるのは問題だ。Aはそれほどの罪ではない』

論文『Aは(裁判という場で疑似科学批判者とは異なる)裁判官の判断で犯罪(=罪)だとされている物もある(からAの一方的なではない)し、犯罪社会から排除されるべきではないの?』

tittonの再反論(?)『そういう判断(犯罪社会から排除されるべきかどうか)はそれなりの慎重さで行われる。むやみに他人の思想や言動を制限することにつならがないように必要最小限に。警察司法による犯罪抑制が不十分だと感じるからあなたは警察に任せずに自分ニセ科学批判をしているのではないのか。なぜ不十分だと感じるかと言えばニセ科学犯罪的側面しか重視していないからだろう』


ニセ科学は人を騙している故に犯罪だと判断されたのだから、人を騙しているという犯罪的側面を重視するのは当然。

というか人を騙しているという実態があるからこそ批判されてるのがtittonには分からないらしい。

tittonの理屈採用すると幸福の科学とかオウム真理教なども批判できなくなる。


>実証されていないものを実証されたとするニセ科学は、その意図が有ろうと無かろうと科学を否定するものだ。


titton『それは科学側の言い分。そんなことを認めたら、宗教にも「科学宗教を否定するものだ」という言い分を認めなければならなくなる。このような判断は慎重かつ控えめに行われるべき物であって、あなたのように「そんなの決まってる!」みたいな単純かつ安直な判断で行われるべき物ではない。』

元文『実証されていないものを実証されたとするのは、科学ではない』

tittonの反論を読み解くと『それ(=実証されていないものを実証されたとする行為が科学ではないという事)は科学側の言い分。そんな事を認めたら宗教にも「科学宗教を否定するものだ」という言い分を認めなければならなくなる。そんな判断は慎重に行え。あなたのように『実証されていないものを実証されたとする行為は科学ではない』みたいな単純かつ安直な判断で(科学かどうかの判定は)行われるべき物ではない』


1.どうやら実証されていないものを実証されたとする行為が科学となる世界がtittonの中には存在するらしいが、そんな世界は少なくとも現実には存在しない。あるとしたらtittonやtittonに類するニセ科学ビリーバーor擁護者or批判批判者の中ぐらいだろう。

2.実証されていないものを実証されたとする行為が科学を否定する行為だと認めるならば、科学宗教を否定する物になるらしいがどういう理屈だろうか? tittonがそれを説明できるとは思えないが。

3.もしかしたら単にtittonの読解力と日本語表現力がないから話が伝じないだけで、tittonは何か別の意味の事を言っているのかもしれない。だがそれをtittonが主張しても日本語表現力がないので第三者どころか対話者にさえ分かって貰える可能性は低い。


titton『どんなに価値のある思想であっても、ちょっとでも抵触すれば断罪され社会から排除されなければならないのかどうかという点について、説得力のある説明を用意していない点が疑似科学批判の問題。その説明をしないと疑似科学批判批判が世間から信頼を失う』


>色々な場所で、幾度も、ニセ科学批判の批判対象に『将来科学になり得る物は入らない』と説明されている。


titton『それは「疑似科学批判が科学進歩を妨げない」という主張だよね。それはそれで疑問があるが、今はそういう話をしているのではなく、思想宗教を排除しようというのに「科学進歩を妨げない」だけしか考慮しない点が、科学の面だけしか見ていないと批判される。つまりすべて「科学の一方的な都合」でしか物事を判断していないのが問題だと言っている。』

ここはtittonにしては珍しくまともに読めている。上段の反論文だけを読んで行った、反論文だけに対する再反論としては間違っていない。

だが、『ニセ科学批判の批判対象科学を装う物だ。思想宗教を排除しようとしている例など存在しない』という、他所でなされた事実の指摘はtittonの脳には残っていない。

詭弁を用いて為にする反論に終始し、何も学んでいない証である。


たとえば終末医療医学とは基本的には人の命を助けることが目的だ。しかしそれだけが目的ではない。だから様々な側面から終末医療はどうあるべきかが論じられるわけだ。「一日でも長く生き延びさせることこそ正しい」という価値観だけで終末医療を論じて、世間が納得するのか。人の感情や心理、その時代の価値観、様々なものを勘案して判断すべきものだ。それを疑似科学批判は「科学にとって○○だ」という一面だけで正当化しているから批判される。

1.終末医療ニセ科学ではない事はtitton以外には自明な事である。

2.「一日でも長く生き延びさせることこそ正しい」という価値観だけで終末医療を論じる事とニセ科学批判が何故対応するのか不明。だがtittonからの説明は期待していない。破綻した説明が出てくるだけだからである。

3.ニセ科学批判は「科学にとって○○だ」という一面だけで行われているものではないという事実はtittonには見えない。

4.ニセ科学批判はニセ科学批判の正当化目的としていないという事実もtittonには見えない。

5.「一日でも長く生き延びさせる事が正しいかどうか」は科学の範疇では無いので、それに対して科学が何かを判断する事がそもそもない。科学が何か判断しているように見えるのは、人による科学以外の側面の判断であるが、科学を理解していないtittonはそれを区別できない。

6.『関係がありそうで関係が無い事を話し始める』という詭弁の典型である。



読解と日本語表現と論理破綻しており、さらに自覚がしているかは知らないが詭弁を用いる。

終始、一顧だに値しないゴミ主張の典型例だと言って良い。

本人はユニークだと思っているらしいことが可笑しさを通り越して涙を誘う。

http://anond.hatelabo.jp/20090122023102

http://anond.hatelabo.jp/20090122023102

何故ならそれは科学者の態度ではないから。何故ならそれは科学者の態度ではないから。

疑似科学社会的有害なものとして排除すべきだという主張は「科学の問題」ではない。「社会的な問題」であり、科学者の態度に束縛されない。宗教が「宗教者の態度」に基づいて科学を排除しようとしたのが中世だよね。一方が他方を社会から排除しようとするならば、一方の価値観内で正当性を主張するだけではダメだということ。

法的にも犯罪だという判断が行われてるが、犯罪社会から排除されるべきではないとでも?

そういう判断はそれなりの慎重さで行われるものだ。むやみに他人の思想や言動を制限することにつながらないように必要最小限に。そもそもそれが不十分だと感じるからあなたは警察に任せずに自分疑似科学批判をしてるのではないのか。なぜ不十分だと感じるかといえば物事の一面しか重視していないからだろう。

実証されていないものを実証されたとするニセ科学は、その意図が有ろうと無かろうと科学を否定するものだ。

それは科学側の言い分。そんなことを認めたら、宗教にも「科学宗教を否定するものだ」という言い分を認めなければならなくなる。このような判断は慎重かつ控えめに行われるべき物であって、あなたのように「そんなの決まってる!」みたいな単純かつ安直な判断で行われるべき物ではない。

色々な場所で、幾度も、ニセ科学批判の批判対象に『将来科学になり得る物は入らない』と説明されている。

それは「疑似科学批判が科学進歩を妨げない」という主張だよね。それはそれで疑問があるが、今はそういう話をしているのではなく、思想宗教を排除しようというのに「科学進歩を妨げない」だけしか考慮しない点が、科学の面だけしか見ていないと批判される。つまりすべて「科学の一方的な都合」でしか物事を判断していないのが問題だと言っている。

たとえば終末医療医学とは基本的には人の命を助けることが目的だ。しかしそれだけが目的ではない。だから様々な側面から終末医療はどうあるべきかが論じられるわけだ。「一日でも長く生き延びさせることこそ正しい」という価値観だけで終末医療を論じて、世間が納得するのか。人の感情や心理、その時代の価値観、様々なものを勘案して判断すべきものだ。それを疑似科学批判は「科学にとって○○だ」という一面だけで正当化しているから批判される。

投稿ミスったら変な事になった(汗

http://anond.hatelabo.jp/20090121235603

に対して。


疑似科学批判者が二言目には「疑似科学擁護者や疑似科学批判批判者はおそらく無知」というのはどうなんだろうね。確かに確率的にはその方が多数だろうから、そう思うのも無理はない(実は俺も内心そう思ってるし)。しかしそれを公然とおおっぴらに認めてしまったら、「こいつらとは話し合う価値もない」で終わってしまうわけで、それならその通りなにも話す必要はない。

そもそもニセ科学批判批判者がニセ科学批判を批判しなければ話し合いが発生する余地は無い。

なぜならニセ科学批判の目的ニセ科学批判であってニセ科学批判批判への応答では無いから。


1.ニセ科学を批判したら

2.擁護or批判批判をして来たので

3.話し合ってみたら

4.無知な上に無知改善する気配も見えないので

5.話を終える


最終的に無知と判断されるニセ科学擁護者やニセ科学批判批判者と、ニセ科学批判者とのやりとりって大体こんな順番。

で、tittonさんが言ってるのは『4、5をやるならなら、そもそも3をやるなよ』って事なんだが、3をやってみないと相手が無知かどうか何て判断出来る訳が無い。

今までの経験から2をやる人間は大体無知である可能性が高いよなあという話はすれども、2の段階で相手を切り捨てるニセ科学批判者は今後も出てこないだろう。

何故ならそれは科学者の態度ではないから。


疑似科学批判はある意味馬鹿を相手にする作業」だ(学校の教師とか新米社員を指導する上司とかも同じ)。逆に言えばそれに耐えきれず「こんな馬鹿とはまともに話したくない」とサジを投げてしまうような人には疑似科学批判は向かないと思うよ。

ここで突然に疑似科学批判者が相手にしている物が『疑似科学擁護者・擬似科学批判批判者』から『疑似科学』と入れ替わった話になっているのは何故だろうか。


また「科学を根拠に水伝ダメだとは批判していない」については、「適切な根拠を用意できていないまま批判している」から問題だと言っている。

馬鹿は騙されるぐらいが良い』って詐欺を容認するような事を言ってのける人間が判断する『適切』は、一体誰が許容する『適切』なんだろうか。


疑似科学批判のパターンはだいたい次のようなものが多い。○○が批判される立場の疑似科学だとすると、

1)○○の科学的な誤りを列挙。それゆえ○○は科学的に誤っていると結論。

2)にもかかわらず○○は科学と自称していると主張。

3)科学でないものを科学と喧伝する○○はけしからん。そんなものは社会から排除しよう!

2)で『にもかかわらず』を使いたいならば、1)に『○○は科学を自称していない』が必須。日本語論理的に言って。

つまりは日本語破綻しているか、論理破綻しているかのどちらか。すなわち『駄目』って事。


疑似科学批判の中にはほとんど言いがかりこじつけのような安易なものが少なくない。これはいわば魔女裁判と同じで「魔女だ!」と言われてしまえば、疑似科学側から反証することは難しい。またそのような「暴走」に疑似科学批判者側が自主的に歯止めをもうけようという動きもない。

破綻した物を前提に話を進めているので、それだけでも意味が無い話だと結論できる部分。

ついでに現実存在する疑似科学批判は『実証されていないものを実証されたと強弁している物』を対象にしている物ばかり(水伝とかゲーム脳とか血液型性格判断とか)なので、

言いがかりこじつけのような安易なものが少なくない。

というのは事実に反する言いがかりこじつけに類する物だと言える。

破綻言いがかりを重ねた上で発せられる『暴走の懸念』は、徴候さえ存在しない事実も踏まえれば、ほとんど考慮に値しない。


3)については、それが社会から排除されるに見合うほどの大罪なのか?という量刑が常に疑似科学批判者の一方的な判断で行われているのが問題。

法的にも犯罪だという判断が行われてるが、犯罪社会から排除されるべきではないとでも?

現実被害者が出ているというのに『一方的な判断』とは、無知もここに極まれり。


かつて科学が神を冒涜する気などないのに神への冒涜だと一方的に断罪されたことの裏返し。どんなに価値のある思想であっても、ちょっとでも抵触すれば断罪され社会から排除されなければならないのか。

実証されていないものを実証されたとするニセ科学は、その意図が有ろうと無かろうと科学を否定するものだ。

かつて、神の存在を確かめようとしていたのに神への冒涜だとされた科学とは明確に違う。


それについて疑似科学批判側は説得力のある説明を用意していない。そういう点が問題であり、疑似科学批判側が何らかの自浄作用を見せないと、疑似科学批判そのものが世間から信頼を失うだろう、と警鐘を鳴らしている。

色々な場所で、幾度も、ニセ科学批判の批判対象に『将来科学になり得る物は入らない』と説明されている。

これに説得力を認めないのは『科学が何を対象としているかを理解できない人間』の個人的資質に帰結する問題だ。

警鐘を鳴らすのは勝手だが、それが考慮に値する者として受け入れられないのは、疑似科学批判批判の場合は往々にして警鐘を鳴らされた側の問題ではない。

それは、詭弁無知破綻だらけの警鐘を鳴らす側にこそ存在する。

2009-01-20

テキトー(re:科学が一種の宗教に思えてならない

http://anond.hatelabo.jp/20090120003918

宗教を毛嫌いする人って、多分「神の存在には根拠が無い、科学的でない」と言うところで否定していると思うのだけど、

神の存在以外にも根拠や説得力の無い身勝手な放言がよく見られるしなあ。

ここで私がちょっと引っかかったのは、「科学進歩人類利益になる」と言うのが、当然のこととして考えられているという点。

私にとっては先の前提が既に宗教のように感じられる。それって本当なの?根拠あるの?

科学進歩というのはつまるところ蓋然性調査の進捗であって、それが人類の可能性を広げる。もちろん自分の首を締めるのにより安易にできるロープをも提供するから、それを検出したり防止したりする方法も開発していかねばならないが。

人間の多数派が、効率よく生産し出来るだけ肉体的に楽をするために「科学」と言う価値を選択してしまったと言うだけの話だ。

効率よく生産する可能性を手に入れた。肉体的に楽をする可能性を手に入れた。

極端なことを言えば、交通機関が発達したために人は歩くことを忘れたし、

別に歩けなくさせたわけじゃない。今も散歩を嗜む人は多い。

医学進歩したために死に方を忘れ、ネットが普及したために人との関わり方を忘れた。

始皇帝も竹林賢者も昔からいますよ。

科学は無から有を作り出した訳ではない。何かを変質させただけだ。利益を生み出したように見えるだけだ。

変質の一部は利益であり、利益を生むために科学は多用される。

こういった問いは、これから先も中二病として処理され続ける。人によっては、こんなこと馬鹿馬鹿しくて考える気にもならないだろう。

重要な問いだし恐らく社会は「科学者なら答えを見つけておくべき」と期待しているだろう。

技術者倫理は自らを省みる機構としてはもう全く機能していない。

技術倫理破綻しているとみるならばそういう結論になるけど、私はそうはみていない。

講義で話されたのは、環境や人命に対する責任だけだった気がする。少なくともこのような問いは無かった。

講義って増田が受けてきた講義

根本的に「科学で何とかする」と言う方向性はもう絶対だ。

「(可能な限り)蓋然性研究結果で何とかする」というのは当たり前ではなかろうか。

こんなことを書いたところで、もう後戻りできないところまできているのは分かっている。

つぎはぎにつぎはぎを重ねて、この国の道路のように人間歴史をつむいでいくしかない。

敢えて蓋然性がわかってない事で以って各種問題の解決に当たれと?それが許されるほど呑気な問題だけじゃないような。

ああ、タイトルは「科学が一種の宗教に思えてならない」だった。なんか支離滅裂な内容になってるな。

科学哲学そのものに宗教的な要素があるとすれば、斉一原理因果律とかかな…。

確かちょっと前、「人類の敵は宗教だ」ってのがあったけど、なら「人類の敵は科学」ってもいえるんじゃないかなーなんて。

さすがに斉一原理因果律人類の敵だったら…どうなっちゃうんかねえ。

2009-01-11

今年も変わらず思いっきりアホなはてな村(と自分

サンデー時評:今年は思いきりアホになるか

 とにかく、私は懸命にメモをとった。一昨年夏、船旅をしていて、船中で村上和雄筑波大名教授の講演を聴いた時である。話に意外性があって面白いということもあったが、メモをとらずにはおれなかった。

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岩見 隆夫(いわみ・たかお)

 毎日新聞東京本社編集局顧問(政治担当)1935年旧満州大連に生まれる。58年京都大学法学部卒業後、毎日新聞社に入社。論説委員サンデー毎日編集長編集局次長を歴任。

http://mainichi.jp/select/seiji/iwami/news/20090105org00m010013000c.html

村上和雄ってそんなんだったのか。「サムシング・グレート」なあ。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://mainichi.jp/select/seiji/iwami/news/20090105org00m010013000c.html


上の記事にトンデモとか疑似科学とかタグつけられてるのに驚いた。

どうやらはてな民の一部の皆様にとっては、科学非科学が同じ文章で語られているとなんでもトンデモ科学らしい。

脊髄反射も甚だしいね。

村上氏は決して科学宗教を混在している訳じゃない。

科学実験の証明に宗教を持ち込むことはないし、宗教の教えを科学で証明しようとしているわけでもない。

ただ研究の成果に神の姿を見ているだけであって、科学者無宗教でないといけない理由もあるかね。

それが伝わらなかったとしたら、まぁ確かに記者が悪いといえばそうだが。

いくつか読んだ事はあるけど、もっと氏の本を読んでみようと思う。

http://anond.hatelabo.jp/20090111180425

オッサン、偉大な科学者なんてだいたい貧乏だったんだぜ

オッサン、東大にみんながみんな金儲けしに行くわけじゃないんだぜ

2009-01-06

諸君、私はニセ科学が好きだ

諸君、私はニセ科学が好きだ

諸君、私はニセ科学が好きだ

諸君、私はニセ科学が大好きだ

水からの伝言が好きだ

ホメオパシーが好きだ

ゲーム脳が好きだ

インテリジェント・デザインが好きだ

血液型による性格判断が好きだ

教室で

テレビ

新聞

物理学会

家庭で

この地上に存在するありとあらゆるニセ科学が大好きだ

ゴールデンタイムに「オーラの泉」を見るのが好きだ

剥きになって否定する人間に「たかがテレビだ」と冷たく言う時など心がおどる

数字とグラフ機械が好きだ

パナソニックマイナスイオンをさらに進化させ、「ナノイー」を売り出した時など胸がすくような気持ちだった

極端な相対主義が好きだ

「信じるという意味なら科学医学宗教」と言い捨てる時など感動すらおぼえる

ベストセラーの10冊中3冊を血液型本が占めた時などもうたまらない

根拠もないのに「愛の存在は証明済み」と言い切るのは最高だ

偏狭な科学者がウェゲナーを否定し続けたのを

数十年のときを経て真実で捻じ伏せた時など絶頂すら覚える

AIDSを否定する美しい人妻が好きだ

毅然と抗ウイルス薬を拒み死んでいく姿はとてもとても悲しいものだ

広告を埋め尽くす使用者の感動の声が好きだ

公正取引委員会排除命令を出されるのは屈辱の極みだ

諸君 私はニセ科学を 不実で厚顔無知独裁者様なニセ科学を望んでいる

諸君 私に付き従うニセ科学好きの諸君 君たちは一体何を望んでいる?

更なるニセ科学を望むか 

糞の様なニセ科学を望むか?

高潔で人の心を大切にし、祈るだけで地球上すべての問題を解決できる絶対者のようなニセ科学を望むか?

ニセ科学!! ニセ科学!! ニセ科学!!

よろしい ならばニセ科学

だが、2ちゃんねるのようなひどいインターネット科学教信者の猛烈な批判に耐え続けて来た我々には

ただのニセ科学ではもはや足りない!!

ニセ科学を!! 一心不乱の大ニセ科学を!!

我々はわずかに小数

納豆ダイエットがやらせだっただけで「騙された」などと手のひらを返す連中に比べれば物の数ではない

だが諸君は一騎当千の真のビリーバーだと私は信じている

ならば我らは諸君と私で総兵力100万と1人の善意のMLM集団となる

我らを忘却の彼方へと追いやり、他者の価値観を口うるさく非難する科学狂信者を叩きのめそう

髪の毛をつかんで引きずり下ろし 眼(まなこ)をあけて思い出させよう

連中子供いじめられるのは奴らが父親を嫌いなせいであることを思い出させてやる

連中ランドリーリングを使えば洗剤は必要なく地球に優しいことを思い出させてやる

ニセ科学には奴らの哲学では思いもよらない現代科学では説明のできない力がある事を思い出させてやる

1000人の真のビリーバーの集団で 世界フォトンベルトゼロ磁場で埋め尽くしてやる

目標 ユニットバス

マコモ風呂 featuring EM菌」作戦 状況を開始せよ

征くぞ 諸君



http://anond.hatelabo.jp/20081228112256

http://wids.net/lab/HELLSING/

2009-01-04

普通であり続けることは大変

普通っていう事は偉くもすごくもなく、かと言って悪いわけでもない。

だけど、普通であり続ける事は大変だと思う。

例えば、子供普通に育てる。

別に天才科学者にする必要も無いし、オリンピック選手にする必要もない。

普通子供を、普通に育てるとする。

普通の割合を9割、普通じゃない割合を1割とする。

20年間ずっと子供普通に育てられるのは、0.9^20 = 0.121576655 で 12%だ。

・・・というのは詭弁だという気はするけど、普通であり続けるのはそれほど難しい。

子供普通に育つ喜び、いつでも牛丼の並盛りを食べられる幸せ普通免許を継続していける安全運転。

普通にはなかなか味がある。

普通に取り囲まれていることをもっと感謝してもいいと思う。

そこには、普通であり続けるための誰かの努力があると思う。

日本普通に満たされている。

いや、満たされていた。

これまではごく当たり前に存在していた「普通」が、これからは維持するのが難しくなるかもしれない。

2008-12-29

http://anond.hatelabo.jp/20081229034913

http://anond.hatelabo.jp/20081229132249

http://anond.hatelabo.jp/20081229131935

元増田エウレカセブン見ながら、てきとーに思ったことをかいただけなのに、割と反応があって驚いた。元の記事ではちょっと表現がぶっ飛んでいたので申し訳ないが、自分の言いたかったことは別に大したことじゃなくて、一言で言うなら「夢とか希望とかうぜー。そんなもの下手に与えないほうがいいよ。与える方が残酷だ。」ってことになるんだと思う。

2008年12月29日langu 主人公の気持ちで世界が変わるのはセカイ系であってSFではないでしょう

うん、これは、とてもいい指摘だと思う。エウレカセブンって、まぁ、一応広義にはSFに含まれるのかもしれないけど、少なくとも絶対ハードSFではないわなぁ。なんか、エウレカセブンってなんて表現したらいいのかわかんなかったけど、やっぱり「セカイ系」でいいのか。一応、少しはハードSFも読んでるよ。2001年宇宙の旅も3001年終局への旅も読んでるし、映画コンタクトは5回以上は見ていると思う。

もうちょっと正確に書いたら、以下のようになった。

「一見SFのように見える作品の中には登場人物の気持ちで問題が解決するような話があるが、『気持ちで問題が解決する/世界が変わる』というのは科学とは全く相反するものだ」

「実際には、いくら問題に対して熱い気持ちを持っていようが、才能と金と環境がないとどうしようもないことが多い」

「結局、才能や金や環境に恵まれた人間だけが、科学で食っていける」

「しかし、いくら才能や金や環境が羨ましくて嫉妬しても、実証的(論理的)に正しいものは正しいと認めなければならないのが、科学だ」

(他の競争、例えばスポーツとか芸術作品の良し悪しだったら、審査基準を作っているのは人間だから、嫉妬した時は審査基準そのものを疑って新しい審査基準を作ってしまえばいい。科学というか、実証的な学問は、最終的な判断基準が人間の外にある。人の羨望や嫉妬など関係なく、実証性でかっ飛ばしていくのが科学だ。)

「これから進路を決める子供たちに、『気持ちで世界が変わる』と誤解させるかのような話を見せる/聞かせるのは酷だ。

科学が好きだとか、科学者になりたいとか、科学に対する熱意とか、そんなものは、科学には全く関係がない。

何も科学に限ったことじゃないが、熱意があっても、才能や金や環境に恵まれなければ、成果が出ないのが普通だ。

下手に夢なんか与えない方がいい。夢を与えるほうが残酷だ。」

「だいたい、そうめったにない成功例を多数の視聴者に見せるということ自体が、宝くじに当たるような確率の成功例を『普通に起こりえる』ように描いていてリアルでない。実証的でない。主人公が流れ弾に当たって死亡して終わりとか、時間内に修理しようと思ったけど納期に間に合いませんでしたとか、長期にわたる戦闘で精神的に不安定になって戦闘後に自殺するとか、味方の誤爆で死んじゃいましたとか、同じ舞台設定であるにしても、もっと『起こりそうなこと』を描いてほしいと思うのが、リアルさや実証性を重視する心だと思う」

理系大学院修士エウレカセブンを見ているが、どうも、こういうSFを見ていると、無性に腹が立つ。最初、何で腹が立つのかわからなかったけど、ようやくわかったわ。

SF世界では、主人公の「気持ち」で世界が変わる。実際の科学では、自分の気持ちなんて関係ない。科学にあこがれようが、科学世界を変えたかろうが、いい論文を書きたかろうが、いい実験結果を得たかろうが、自分の「気持ち」とは関係ない。

関係あるのは、論理的に正しいかどうかだけだ。それを支えるのは、才能と金と環境だ。

SFを見ていると、「いい加減、こういう幻想子供に見せて、科学に夢を持たせるのはやめろ!」といいたくなる。結局、科学っていうのは一部の優秀な人間だけのものなのだ。優秀な人間頭が悪い人間あざ笑うための道具に過ぎないんだ。頭の悪い無能な人間は、優秀な人間を恨み、羨みながらも、彼らが論理的には正しいことを言っていることを認めなければならない。嫉妬と憎悪というのは、科学に最も似合う言葉だと思う。憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い

それでも、論理的に正しいものは認めなくちゃいけない。その恨みと嫉妬とやりきれなさが科学の美しさだと思う。SFでは、年端もいかない少年が、世界を救ったりするけれど、そんなヒーロー科学には、ごく一部しか存在しない。ヒーローになりたい人間は、科学者以外のものを好きになるべきだ。科学者ヒーローではない。

まぁ、嫌だったらSF見なきゃいいんだけどさ。こういう幻想を見ていると、憎悪がふつふつと湧き上がる。

追記:

なんだか、まとまりなく、てきとーに書いてしまって申し訳ない。

要するに言いたかったことは、「子供に下手に夢とか希望とか熱意とか見せんじゃねぇよ。世の中挫折する人が大半で、夢とか希望とか強固に持っていると挫折するのが辛くなったり挫折を認められずに時間ばっかりたっちゃったりするぜ」ってことなんだが・・・それってSF関係ないよね、うん。エウレカセブンにも直接関係ないのだから、言及すべきでなかった。申し訳ないなぁ。

作品としてみると、エウレカセブンは洗練されていていい作品だと思うよ。

エウレカセブン見ながら、あ、この部分的に似ていると思った作品

エヴァンゲリオン

 まぁ、比較しちゃうよねぇ。人とロボット精神的につながらないとうまく動かないという発想とか、いざとなったらロボットの方が意志をもって助けてくれるところとか、後は一部のグロいシーンが似ているな、と思った。が、似ているなと思っただけで伝えようとしているものは全然違うと思う。

風の谷のナウシカ

 最初のトラパーの波を読むエウレカ風を読むナウシカレントン技術者)→アスベル工房の街ペジテの王子)、対応そのままやん、と最初に思った。

映画ファイナルファンタジー

 惑星が意志を持っている点とか、抗体コーラリアンファントムとか、似ているなぁ、と思った。

惑星ソラリス

 星に知性があって、死んだはずの姉さんや父さんが表れるというのは、惑星ソラリスだろ。エウレカセブンは、一言で言うなら「スカブコーラルによって地球惑星ソラリス化する話」なんじゃないかなぁ。

七夕の国

 この作品は知っている人、すごい少ないんじゃなかろうか・・・マンガ寄生獣」の岩明均マンガ作品抗体コーラリアンが出た時に、建物や人が材質に関係なく球状に穴が開くシーンがいくつかあるけど、これ見たとき、「七夕の国」だ!!と思った。いや、似てるってだけで、参考にしているとは思えないが。

http://tod.cocolog-nifty.com/diary/2006/04/post_6919.html

この感想、すごい。俺も、理系ならこういう簡潔な感想が書きたかった。

まだまだ、誤解しているところが多かったなぁ。

ちょっと理解がおかしかったところがあったし、変にエウレカセブンに言及して申し訳ないなぁ、と思っている。

2008-12-22

http://anond.hatelabo.jp/20081222160509

ダンゴムシ増田です。

私の主張をまとめるとこうかな。

 

1.その内容が「本当に正しい」と分かるには、個人で考えた内容だけでは足りない。

本当に正しいのであれば「誰に確認しても同じ答えが出る」はずである。

他の人が「本当に正しい」かどうかを調べる行為をここでは「確認」と言う。

 

2.「自分で考えた内容は正しい」と最初から決め付けてしまうのは早すぎる。

その内容は「自分の知識に基づいて出た答えの一つ」でしかなく、その考えで押し切る行為は「違う視点から矛盾が出る可能性」を捨てている。これでは論理的思考をしているとは言えない。

 

3.議論のほとんどが「結果が出ないと分からない事」で議論する。

誰しも分かりきっている内容なら、確かに個人の判断で済ませても正しいと言えるだろう。

だが、最初から内容が分かっているのなら議論はしない。 答えが分からないから自分以外を巻き込んで議論する。

その議論で「相手を屈服させ勝利することが議論の目的であって、適切な答などどうでもいい。」というのはやっぱり論理的思考とは言えず「誰が考えても同じ結果」が出るであろう答えを見つけようとするのが「論理的思考」だ。

 

4.「落しどころをお互いに考える」のを「政治的理由・妥協」で決めてしまうと確かにそれは論理的思考ではないが、「お互い考えた内容が本当に正しいのかを確認し、より正しい方に精度を上げる」という形であれば、それは立派な「論理的思考」だ。

例を取ると、科学研究者がある法則発表して、その内容が正しくないと思った世界中研究者たちはそれを同じ手順で「確認」してみる。

結果、ほとんどの科学者の結果が同じであれば、初めて「それが正しい」と分かる。

「落しどころをお互いに考える」という行為に、確認と政治的な意味以外のものを提示してくれれば、話が変ってくる。

の答えがこれに当たる。

 

x.実際の所、ほとんどの人が「相手を屈服させ勝利することが議論の目的であって、適切な答などどうでもいい。」という方法が論理的思考だと思って行動する。

だがしかし、それはただの言い争いで論理的思考とはかけ離れている。

論理的思考に「自分が絶対」などという「私情」は含めてはいけないのだ。

自分の考えを疑うぐらいが論理的思考には重要、それは矛盾を排除し正しい答えを導き出す唯一の方法。

 

ふぅ・・・とりあえずこんな感じ。

先にいっておくが、これは論理的に正しいものではない。

まぁ、私のまとめも論理的に正しいものではないんだよね。

どちらが本当に正しいかは、行動した結果次第という事になるんで、下手するとどっちも正解とかどっちも不正解とかもありえる。

 

ってシメとくけとこんな感じでいい?

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