はてなキーワード: 殺人犯とは
20年前に発生した殺人事件に、当時未成年だった当人が関わっていたという話が流れたのが原因で、殺人犯がタレントをやっているとは何事かという義憤に駆られた市民の苦情が殺到したという話である。
この話の問題点は、20年前に発生した殺人事件の加害者である少年と、タレントの名前の読みが一致し、同じ年齢で出身地も同じという事から、本人に違いないとなったという事である。
まぎらわしいのであるが、加害者である少年については、未成年であることから写真等も公表されず、氏名にしても非公式情報として出てきているだけである。これは、少年の犯罪者は更生する可能性が高く、情報を公開しないという事になっている為であるが、名前が同じで年齢も出身地も同じという他人に対して、このような形で被害が発生するという結果を招いてしまった。
そして、この問題の根本的に解決不能な点は、タレントが殺人犯ではないという事を証明することが、事実上不可能であるということである。
処分を受けていないことを証明しようとしても、そもそも、未成年の処分の履歴は、処分を受けた人が成人してから刑事被告にでもならない限り出てこない、タレントのブログに対し、不穏当な発言を書き込んだからという理由で逮捕されたり書類送検をされた、義憤に駆られた市民にしても、その罪状は不穏当な発言を書き込んだからというだけで、タレントが無実である事を証明していないのである。事実無根だからという理由で逮捕したのであれば、更生の為に情報を公開しないとしている少年法の建前とは違い、捜査機関は情報を握り、今も監視をしているから、タレントが無関係である事を知っていたという事になるからである。
義憤に駆られた市民が、処分を不服として裁判になった時において、検察側はたとえ殺人犯であっても不穏当な発言を浴びせるのは不適切であるという主張しか行えず、事実無根の誹謗中傷である事を主張できない。
書き込みをした側の、同姓同名、同年齢、同地域出身という共通点から、同一人物であると判断し、殺人犯がタレント活動をしている事は不適切であるから行ったとする主張とは噛み合わないし、この主張に白黒をつける事は、少年法の建前上、できない。つまり、法廷に持ち込まれても、困る話となってしまっているのである。
タレント側が損害賠償を求めるのであれば、少年法の規定から別人である事を証明できず、少年法を訴える事ができない以上、同姓同名で同年齢で同地域出身の殺人犯と当時の親権者に、被害を被ったと主張しなければならない。
たとえ少年といえども、計画的に殺人を行ったのであれば、それは更生の対象とはしないという殺人罪の厳罰化が必要であろう。移民や特永の排斥や帰化の原則廃止、官報の脱紙完全インターネット化(cf.[2008.3.16])と並んで、やっていて当然の事である。飲酒運転の厳罰化よりも、はるかに重要なことなのだが、必要性を感じていないのであろう。国民の皮膚感覚と、永田町・霞ヶ関とでは、ズレがあるのだ。
http://s03.megalodon.jp/2009-0205-0338-39/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090205-00000004-yom-soci
著名人などのブログに悪意の書き込みが集中して閉鎖に追い込まれたりする問題で、警視庁は、男性タレント(37)のブログを攻撃した17~45歳の男女18人について、名誉棄損容疑で刑事責任を追及することを決めた。
「殺人犯」などと事実無根の書き込みが繰り返されたという。警察庁によると、「炎上」と呼ばれる現象を引き起こす集団攻撃の一斉摘発は初めて。匿名を背景にエスカレートするネット世界の“暴力”に歯止めをかける狙いがある。
興味深い。
一つには「炎上」がきちんと問題視されたこと、そしてもう一つは
ネットイナゴの顔がほの見えたこと。住む場所も年齢も違う彼らが、同時間にPCに向かって特に恨みもない相手に罵倒の快楽だけを求めて群がっていた状況を少し想像した。
彼らはその瞬間ある想いを共有していた。そして逮捕の瞬間、もう一度だけ同じ思いを共有したのだ。
それが驚きと後悔と慚愧と…どれほど錯綜した想いであっても。
けっこうどうでもいいけど
日本人はそうなんだ。普通に生きて、頑張っている人は褒めない。ずっと、悪いことをしていた人が、ちょっと良い事をすると、「君は本当は良い人だ」と褒める。
これって日本人がそうなんじゃなくて、どっちかというとキリスト教的価値観だと思うよ。
さて(放蕩した弟が再び家に戻ったとき),年上の息子は畑にいた。家のそばに来ると,音楽や踊りの音が聞こえた。召使いたちの一人を呼び寄せ,どうしたのかと尋ねた。召使いは彼に言った,『あなたの弟さんが来られたのです。それで,あなたのお父様は,弟さんを無事に健康な姿で迎えたというので,肥えた子牛をほふられたのです』。ところが,彼は腹を立て,中に入ろうとしなかった。そのため,彼の父親が出て来て,彼に懇願した。だが,彼は父親に答えた,『ご覧なさい,わたしはこれほど長い年月あなたに仕えてきて,一度もあなたのおきてに背いたことはありません。それでも,わたしには,わたしの友人たちと一緒に祝うために,ヤギ一匹さえ下さったことがありません。それなのに,あなたの財産を売春婦たちと一緒に食いつぶした,このあなたの息子がやって来ると,あなたは彼のために肥えた子牛をほふられました』。(新約聖書「ルカによる福音書」15:25??http://www.cozoh.org/denmo/Luke.htm#C15V1)
殺人犯と、まったく犯罪ではないAV出演の過去を持つ女性を等しく並べる里中さんの感覚は、つまり「不浄・ケガレ」観という奴で、そちらの方がいわゆる典型的な日本人発想。「キヨメ・ハラエ」をしない限り「ケガレ」が消えないという感覚。
逆ね。逆。
「女子高生のあの子。パンツはいつも丸見えだし、カバンの中にコンドームは入ってるし、言葉遣いは最悪。だけど、話すと意外といい子なんだよ」
「あの子は、お金がなくて、ソープとかAVとかやってるし、援交もしていたけど、話すと意外といい子なんだよ」
「おい。里中、差別したらだめだよ。本当は、皆、いい子なんだから。話せば分かるよ」
こんなに能天気な話はもう聞きたくない。それを「いい子」とは言わないんだよ。
では、本物のいい子の立場は?
お金がなくても、地味に働いていて、売春もしなくて、きちんとした恋愛をしていて、言葉遣いも挨拶も丁寧で、女らしく羞恥心がある。そういう女の子たちの立場は? じゃあ、そういう普通の女の子の事は、「女神」と呼んで欲しい。
真面目に生きている人間を褒めず、なぜか、ずっとモラルに反する事をしている人間がたまに良いことをしたり、たまにまともなことを喋っただけで、「彼女はいい子なんだよ」、と言う男たち。本当に、言葉が軽すぎる。
そういう事を言う男たちは、ハンドバッグにコンドームを入れている女子高生のセックスが目当てなんでしょう。セックスしたいから、「いい子」なんだよ。
本物の、「いい子」を知らないんだ。
私は知っているよ。
頭がよくて、上品で、言葉遣いが丁寧で、挨拶もきちんと出来る女の子。
親を大切にしていて、男の仕事がなんたるかを分かっている女の子。
そんな彼女たちと、セックスとお金のことしか頭にないバカ女と同じ、「いい子」にされたら、本当に腹がたつよ。
と言う人。
人間は平等じゃないんだ。
強者と弱者。善人と悪人。知恵のある者と無知な者。そして、男と女。
それらを平等にしたら、進歩しなくなる。進歩の対象となる人間の方がやる気をなくすんだ。そして、助け合いもなくなる。助け合っているように見えて、企み、打算が生じる。一部のバカ女が、「男女平等。手助け無用」と叫んでいるから、男たちが、オフィスで女の子を助けなくなった。違いますか。
生まれた時から、ずっと優しい女の子で、悪い事もしたことがなく、男遊びもせず、お金で遊んだりもしない。なのに、地味だからかまったく褒められない。ところが、同級生の男子に罵声を浴びせ、お金欲しさに援交している女の子が、たまに、かわいいことを言っただけで、「君は、本当はいい子だ」と褒められる。
日本人はそうなんだ。普通に生きて、頑張っている人は褒めない。ずっと、悪いことをしていた人が、ちょっと良い事をすると、「君は本当は良い人だ」と褒める。
すぐに、更生させろとか救済しろと言うんだ。
殺人犯でも、若ければ更生させようと頑張るくらいだから、売春や言葉遣いが悪いくらい、大した問題じゃないのだろう。もちろん、更生は大事だが、他人の言葉や力ではなく、自力じゃないと、意味がない。
私の知り合いには、ソープ嬢もいれば、元AV女優もいる。まったく逆に、貧乏でも地味に働き、贅沢はせず、男遊びもしない女の子もいる。
その両者を、『同じ女の子』には私には出来ない。両方を良く知っているからだ。
殺人犯と川で溺れている人を助ける人間と、同じ人間には出来ない。
だけど、同じ人間にしようとする。それが諸悪だ。淘汰させるのを避けてきた人間たちは、集団生活の中で、馴れ合いになってしまった。皆を同じにしようとする。そこそこ、出来のいい人間の集団にしようとする。だから、優秀な人間が生まれない世の中になってしまった。
女の子の男狂いとお金狂いをやめさせたければ、「おまえ、本当にバカだ。女として終わっているよ。幸せになれないから、これからもずっと売春してるんだな」と言えばいい。それから、その女の子が、自力で這い上がってくるかどうかでしょう。褒めたら反省しないじゃないか。「許す」という行為がどれだけ人間を甘やかすのか知ってる?
ニート、オタク、教育者気取りの偽善者。そして、女にもてない奴と相場が決まっている。
援助交際をしている女の子に、「君は本当はいい子だね。とってもかわいいよ」と言う男は、更生、救済が美徳だと勘違いしているのか、その女の子の体が目的。
本当に、その子のためを思うんだったら、
「皆、真面目に生きているんだ。君はどうしようもなく堕落している。女のクズだよ」
と言わなければならない。それで、その女の子がだめになって、自殺しても、もっと汚れて行っても、それは淘汰されたということ。もし、その女の子が、本当に、「いい子」だったら、叱られた事によって、更生するはず。
「おまえなんか抱く気になれないよ。俺はもっと美しい体をした女の子を知ってるし、女に困ってないからな」
改めて書くけど、確かにブルーカラー系の派遣社員の中には自業自得で悲惨な生活を送ることになった人も大勢居る。個人的な感覚だが、それが大多数を占めていると思ってる。だけど「同情に値する、不可抗力でそうなった人たち」の割合も看過できないほど大きくなってきたのは事実だ。こういう人たちが居る以上は自業自得派も不可抗力派もまとめて救済した方がいい。
そいつが自業自得でそうなったのかどうかを審査することは現実的ではない。生活に困っている人は、今すぐ助けを必要としているのだ。ふるいにかける時間とコストを考えると、まとめて面倒見た方がまだマシだ。10代の頃から怠惰な生活を送ってきて必然的に失業した人間でも、この際救ってやろう。その中からわずかでも立ち直ってくれる人間が出てくればそれだけ税収が増えるし、そいつを救済するために費やした額はすぐにペイできるはず。だから、タバコや酒ぐらいはこの際飲ませてやれ。映画ぐらい見させてやれ。これは一種の育てゲーなの。ここのコストをケチって、彼らがよりグレてしまい、治安が悪くなってしまうことの方が怖い。
言いたいことはわかる。「努力している人が報われない」っていう言い分が出てくることもよーくわかってる。だけど、それでも助けてやれ。努力している人だからこそ、これからって時にある日突然後ろからブスッって刺されたくないだろ。
お前らは、老人や身障者の人を見たら親切にするだろ?無条件に席を譲るだろ? その老人が、若い頃極悪非道の限りを尽くした殺人犯かどうかを確認した上で、親切にするかどうかを決めているか? 爆弾魔が犯行時に失敗して自分の足を吹っ飛ばして車椅子に乗っていたとしても、そんなことは詮索せずに困っていたら手を貸すだろ。それは身障者や年配の人が居たら手を貸してあげようぜというコンセンサスが出来上がっているからだ。だから、同じ理由で、路上で生活せざるを得ない人が居たら、無条件に手を貸してやれ。それが福祉国家である日本の矜持であり、最後の砦だと思う。ただし、珍獣を見るかのような愉悦と引き換えに力を貸しますよ、なんて魂胆は捨てろよ。日比谷にもボランティアを装った野次馬が居たが、ああいう行為にホームレスは意外と敏感だし、彼らの尊厳を踏みにじるぐらいなら何もするな。逆効果だから黙っててくれ。
http://anond.hatelabo.jp/20081228014905 の続きです。
<インタビュー>
シェーンヘル(以下シ):どうしてカンパニー松尾と称するようになったのですか?
松尾(以下松):中学時代にさかのぼるんですが、自分の「会社」を始めたんです。社員はぼくひとり、ジュースや手作り弁当をクラスメイトや友人に売ってました。毎朝、20個の弁当をかかえて登校したものです。で、みんなが僕をカンパニーと呼ぶようになったと。これがぼくのペンネームになり、映像のキャリアを通して使ってます。
シ:まず最初に、ハメ撮りの歴史について少々語ってもらえますか?
松:ハメ撮りスタイルの作品は、80年代初期からありました。ハメ撮りということば自体が使われるようになったのは、88年か89年だと思います。昔はAVの小さな一角を占めるだけでしたが、それから大きくなりました。
松:はい、そうです。働きだしたのが1988年、22才の時です。
シ:そのとき、V&Rプランニングはすでに大きな会社だったのですか?
松:いや、とても小さかったです。ぼくは4人目の社員で、会社自体もまだ2年目でした。
松:はい、そうです。
シ:V&Rは最初からドキュメンタリースタイルのAVに力をいれていたのですか?
松:はい。安達はテレビ出身で海外映像の輸入エージェントとして働いていました。モンティ・パイソンとかそうですね。でも彼はおもに死体ものとかのキワモノにもっぱら興味があったようです。それが彼の嗜好だったんですね。
彼は撮影については知りませんでした。自分で会社を始めて、自分でこうあるべきだと思うやり方で彼はドキュメンタリーを作ったのです。会社自体はキワモノですが、安達は非常に真剣な作品を作ろうとしました。
シ:V&Rの意味は?
松:ビジュアルアンドリテイルです。バイオレンスアンドレイプじゃないですよ、皆さんの思うところとは違って(笑)。
シ:V&Rでは最初は助手、そして1989年に自分の作品を制作し始めます。最初の作品はどんなでした?すでにハメ撮りでしたか?
松:いえ、ハメ撮りは1991年からです。その前はドラマ仕立てでした。
シ:後期の林由美香があなたをハメ撮りに導いたという記事を読んだのですが…
松:いや、直接ではないです。林由美香とは1989年からやってました。正直にいうと、ぼくは彼女が好きだったのです。一緒にパリ・ロンドンに旅行して、ビデオを撮ったこともあります。僕の作品である、「硬式ペナス(1990年)」は彼女への愛を宣言したものです。その作品で、彼女はスターになりました(原注:林はその後すぐに松尾と別れ、他の出演作品の監督と関係を深めることになる)。彼女との作品では、自分で男優はしませんでした。でもそれは非常に不自然に思えました。彼女のおかげで、ハメ撮りが一番自然な撮影方法だと感じられるようになったのです。つまり、そのやり方だといい作品をじかに作れるし、ハメ撮りだと女の子に近づく、彼女自身がオープンになれる、本当の気持ちを見せられるといったことや僕自身の女の子に対する気持ちを表現できるのがあります。僕にとって重要なのは、女の子と緊密な関係をきずく、女の子が好ましく思えるってことです。でなきゃ、いい作品は作れません。
松:ええ。彼女は素人としてこの仕事を始めました。彼女のデビュー作はぼくが撮りました。1991年のことで、ハメ撮りが僕の撮り方の主流になってました。「私を女優にして下さい」ですね。次のシリーズものが「熟れたボイン」です。ぼくの作品で素人から有名女優になった最初の女の子です(原注:松尾自身もこの共同作業により今日知られるようになった有名監督になった)。
シ:V&Rで活躍する一方、マンガ「職業・AV監督」の原作も手がけられています。
松:はい、これ実話です。井浦秀夫が絵をかいてます。1997年から98年の作品で、全5巻で秋田書店から出ています。ぼくの仕事、ぼくの作品に関わる女の子たち、V&Rの人々、安達かおる…まあそのころのこと、すべてですね。
松:中堅どころといった感じです。AV市場では大きな会社はいっぱいあります。でもV&Rはその中には入らないですね。大会社のビデオはあんまり興味ないです。その点、小さいところの方がいい作品をだすかな。V&Rは間違いなく、変態を極めた会社のひとつです。
シ:V&Rが制作した「ジャンク」シリーズにも関わってますよね?こうしたデス・ドキュメンタリーは南米で撮影されたものですか?
(原注:「ジャンク」の原題は「faces of death」。もともとコナン・ド・シレールが1979年から90年にかけて制作した4本のアメリカ作品。V&Rが引き継ぎ、ジャンクのタイトルでデス・ドキュメンタリーを制作し続けた。同様のケースはドイツでも見られる)
(訳注: http://www5b.biglobe.ne.jp/~madison/worst/mondo/junk.html が興味深い)"
松:1989年頃のものですね。V&RはAVだけでなく、デスビデオを海外で撮影してました。カメラマンのイシカワ・タケシが両性具有者にただならぬ関心を抱いていたのです。そのためにブラジルのタブロイド新聞と連絡をとっていて、ブラジルに詳しくなりました。向こうが言うには「デスビデオを撮るならブラジルにこなきゃ」と。で、安達、イシカワ、そしてぼくがブラジルに行って、2週間ほど彼らと行動を共にしました。
新聞のカメラマンは、警察無線を傍受していて、事件が起こるや、すぐに現場に直行しました。ブラジルの警察は動きが遅く、たいていカメラマンが先に到着しました。日本だと死の現場はいつも警察が人目につかないよう隠しますが、ブラジルだとそんなことはないです。ぜんぶオープンですね。
松:両方です。何もかも。殺人はとても多かったです。撮影には何の支障もきたしませんでした。愉快なもんじゃないけど、ぼくができるのはそれしかなかったし、使命感みたいなものも…たぶん、ふつうはそういうのって撮れないと思うんですよ。たまたま機会にめぐまれて、現場に行ったと。でもぼくはだんぜん、AVがいいです。デスビデオとセックスビデオには共通点があります。どちらもひどく当たり前のことで人間の根源にかかわるのに誰もが隠そうとする。ぼくらは封を開けて、それが見えるようにしてるんです。
シ:ジャンクはシリーズものです。どのエピソードを担当しましたか?
松:6番です。
シ:どこで撮影しましたか?
松:リオデジャネイロです。リオはぼくの好きな街ですけど、別に死体を撮ったからってわけじゃないです。リオは美しいところで、ほんとうに輝かしいものから暗い側面まで、すべてがあります。丘の上のキリスト像からファベーラと呼ばれるスラム、美しい町並み、そして白い砂浜まで。美しい娘からギャング、ホームレス、麻薬の売人、そして殺人犯。すべてがそこにあって、生きている、街に存在するのです。パワフルな場所です。美しく、そして同時に恐ろしくもあります。一回しか行きませんでしたが、今でも魅力的です。
シ:リオでハメ撮りは?
松:いや、まったく。アメリカやヨーロッパでは何本か撮りましたが、ほんとうにしたいようにはできませんでした。もちろん、言葉が大きな理由です。ハメ撮りの現場に通訳は連れて行けませんから(笑)。でも言葉の違いより文化の違いの方が大きかったと思います。ハメ撮りでは、女の子の内側に行ってみたいのです。何を考え、どう生活し、夢、そして現実はどうなのかと。生命の中に隠されている汚れた、感情的なものを取り出したい。外国でできるのはセックスを撮ることだけ。それじゃ十分じゃないし、ぼくは満足できない。セックスシーンを撮るだけなら、俳優を呼んで女の子とやらせればいい。ぼくなんてお呼びじゃないです。ハメ撮りだったら、なぜ彼女はこれしてあれするのか、動機、考え、そうしたことを詳しく理解できます。ぼくは女の子の個性を描写したい。欧米の娘とだと、ちょっと無理です。セックスが好きかもしれない、オープンかもしれない、でも日本の娘たちとのようには近づけない。ほんとうの性格がわからない。つまり、ぼくは彼女たちとビデオを撮れない、ってことです。
シ:他のアジア諸国だと?
松:アメリカやヨーロッパはポルノに関して長い歴史があります。スクリーンにセックスが映しだされることについてオープンです。でもアジアはかなり遅れています。厳しい規範があり、ポルノ産業において多くを語ることが難しいです。日本はずっと先を行ってますね。
シ:V&Rにはいつまでいましたか?
松:2004年までです。それからハマジム、現在の会社を仲間と始めました。
松:浜田写真事務所、略してハマジムです。みんなそう言うし、領収書も短い名前の方が便利です。今ではもっと短くなって、「HMJM」です。もともとカメラマンの浜田さんが由来です。彼はぼくらのなかで最年長、みんな尊敬しています。彼がボスです。
シ:現在、何人が働いていますか?
松:7人です。
松:たとえば、「広瀬舞、海老原しのぶ」(2004年)、あ、ふたりの女優の名前から題名つけたんですけど(訳注:ハメドリズム01?)、200万円前後ですね、DVDジャケ込みで。「アテネマラトン」(2004年)はオリンピックのときにギリシャで撮影しました。300万円ほどでした。基本的には一本、200から300万円です。
シ:「オークション01」「オークション02」(2004年)のような純ハメ撮り作品だと、旅費がばかにならないと思いますが?全国を旅して撮りましたね。
松:実際、そっちの方が安いんです。スタジオ撮影は高い。スタジオ代だけでも100万かかります。それだけあれば、ほんといろんなところに行けますからね。
シ:基本的に、彼女たちの住んでいる町、実際の生活環境で会ってますね?
松:ええ、基本的にそうしたくて。
シ:あなたは常に、親密で個人的な彼女たちの肖像を切り取っています。彼女たちの本当のやり方をつかんでます。ビデオの中で彼女たちは、ビデオ出演の動機も含めて大いに語っています。ところで、彼女たちが作品に出演する動機、これはどうお考えですか?
松:女の子それぞれというのはもちろんですが、お金が主な理由だと思います。でもハメ撮り一編に登場しても大した金にはなりません。一回会うのが5万円、つまり彼女たちがぼくに電話するのは他の理由があるにちがいない。好奇心だったり、非日常に惹かれたり、もしくは日常のストレスから抜け出したかったのかも。そして単純にセックスに興味があったというのもあります。でもほとんどの場合、彼女たちはほんとうにくつろいで、作品に出ることを楽しんでいます。ところで、あなたはドイツ人だとおっしゃられましたよね。笑い話なんですけど、実際にAVをドイツで撮ろうとしたことがあったんです。2年前に女の子ひとり連れてベルリンに行きました。ぼくのプランは、アウトバーンを時速300キロで飛ばしながら女の子にしゃぶらせるというものでした。日本は速度制限が厳しいというのもあってこの計画には非常に興奮しました。これは全男子の夢だぞ、車をかっ飛ばしながらセックスをするなんて。女の子はいるし、おしゃぶりしてくれると。ポルシェを借りてアウトバーンに出ました。最初の誤算は300キロ出なかったことです。260キロくらいまででした。で、女の子が車酔いしちゃったんです。なんにもできませんでした。ドライブだけで終わりました。
シ:でも撮ったんですよね?
松:ええ、全部収めました。衛星放送向けAVの一編になりました。
シ:これからの予定は?
松:ぼくはAVが好きで、今やっていることをこれからも続けたい。テレビや映画には興味がないし、AVを作りたい。大会社に所属したくもないし、ハマジムを大会社にする気もない。ビジネスのことは考えたくない。ただ自分の好きなことをやっていたいです。
みんな一緒になんとか仲良く暮らしていきましょう
ぁぅぁぅの身近にいる奴の負担は凄いことになっているよ
「みんな」でなんとかするってのが施設に預けるってことだろ
愛する大事な人を殺された復讐のために殺人をするとかそういう犯人に対して
「そんな事して、キミの愛する、死んだ○○が喜ぶと思うのか!」みたいに言ったりするけど
あの言い方が卑怯に感じる。
あの台詞を正義側、つーか主人公側が言うとその時点でなんか白ける。
なんで白けるかっていうと、
24時間テレビとかを批判するときによく言われる、『「障害者は天使、障害者は心優しい」みたいなことにしてるけど、それこそ逆に差別的じゃないのか、障害者は心優しくないといけないのか、普通の人と同じく性格悪い奴だっているだろ』っていうアレと、多分同じ原理。
「死んだ○○が喜ぶと思うのか!」っていうけど、喜ぶかもしれないじゃんw
まあそりゃさあ、死者の悪口とか言うのはよっぽどの事が無い限りよくないだろうけど、かといって必要以上に美化するのも結局上の障害者云々と同じなんじゃないかと思えてならない。自分を殺した相手を許せる死者ばかりじゃないだろ(って変な言い方だが)。自分を殺したんだからそりゃ殺し返してくれ!って思ってるかもしれないじゃん。というか、思うような人だったかもしれないじゃん。そんでもって、そういう人だとしても、別にいいじゃないの。
「死んだ○○が喜ぶと思うのか」って言い方はなんかセコい。犯人の、大事な人への思いを利用してるのがセコい。まあ殺人者にセコいも何もないかもしれないけど、物語の正義側がそれをやって、いや、それをやること自体はいいんだけど、セコいことをやっているのにそれが「セコいこと」と物語中では描かれていない、寧ろ「正義オブ正義」みたいな真っ当なやり方的に描かれているのが嫌だ。
主人公側が、「犯人の大事な人への想いを利用して殺しを止めさせるぜ」とか最初から言ってるようなある種偽悪的な人なら、納得だけど、たいていピュア主人公がピュアなこと言った、みたいな描かれ方だから嫌悪感やセコさを感じる。
「死んだ○○が喜ぶと思うのか」ってのは疑問文の皮を被ってるけど、要するに「まさか、喜ぶわけないよね?だからもうやめようや」ってことなわけで、もうその時点で「死んだ○○が喜ぶかもしれない」って可能性は潰されてる。「死んだ○○が喜ぶと思うのか」に「結構喜ぶんじゃね?」って答えられない犯人の心境を思いっきり利用している。なぜ犯人が「喜ぶ」と言えないかといえば、(「死んだ○○が喜ぶと思うのか(まさか、キミの愛する○○は、そんな酷い人間じゃないだろう?)」には()内の前提が微妙に隠されているので、)ここで「喜ぶんじゃね」というと「○○はそんな人である」と認めてしまうことになるから。ただでさえ殺されてしまった愛する○○を、その敵討ちをするほどに愛していた犯人が自ら「うん、○○って結構そんな奴よ?マジな話」とか肯定できるわけがない、という心境を利用しているから嫌だ。なんか、救われねえ。さっきも言ったように、敵討ちと言ってもやはり所詮殺人犯なので、セコくてもこれ以上の殺人を止められるのなら現実的にはいいのだけど(まあないだろうが)、物語の中でそれをやって、その上それが「ピュアな主人公によるピュアな説得」みたいに描かれるのが嫌だ。
だから寧ろここは「死んだ○○が喜ぶと思うのか!」「喜ぶとも!」「何だと!お前は○○のことをそんな人だと思っているのか!死者を侮辱する気か!」「ただの警官であるお前に○○の事が分かるのか?あいつは実に恨みがましい奴だった。あいつが買ってきたプリンを俺が食ってしまっただけで、1年間もそのことをひきずり、俺に何度もプリンを買わせたほど恨みがましい奴だった。俺はそんなところも含めて全部愛していたんだ!そんなアイツが、殺された今、俺はあいつの代わりに復讐を遂げてやらなくちゃいけないんだ!あいつはきっと俺が奴を殺すまでずっと恨んでいたはずだ。プリンですら1年も引き摺ったのだから、俺が殺してやらないとあいつはいつまでも成仏できないかもしれない。だから俺が殺すしかなかった。そこまで考えて俺は殺したんだ、お前はそこまで○○の事を考えた上の発言なのか?何も知らないくせに首つっこんでくるんじゃねーよ!警官ならさっさと俺を捕まえるだけにしろ!変な理想主義であいつを侮辱しているのはどっちだ。死刑なら死刑でいいからさっさと連行しろ」とか言いだす犯人が欲しいところ。
とかいう事を風呂の中で考えてオカンに言ったら、「あんたはそんなどーーでもいいことを考えてるからお嫁に行けないんよ…」って言われて、全てがどうでもよくなった。
ん??、所詮はテレビって娯楽のための媒体だからね。むこうさんは視聴率とれる内容だけが必要でそこに意味なんてなくてもいいんだよ。まぁ、うそつくと叩かれるから積極的に嘘ついたりは(特に最近は)あんまりしないけどさ。
逆に言うと需要はあるってこと。
「必要か?」って質問には「必要じゃないかもしれないけど、少なくとも需要はある」としか答えられない。(少なくとも自分には)
あなたが「自分にとってこんな情報は意味がない」と思うのは、「自分にとってこの芸人の芸は笑えない」と思うのと一緒。それでも芸人は芸をするし、ワイドショーは殺人犯の性格分析をする。
NHKとかだと
http://anond.hatelabo.jp/20081102220509
の人が言うみたいに
的なニュアンスがあるかな。あそこは客観的事実だけしか報道しないようにしてるみたいだし。
ちなみにこのエントリの
は勘違い。殺人の発生件数は年に1200件程度(平成19年)。日に3件前後。たぶん、かなり大部分の殺人が報道されてると思う。
それって殺人犯が「あなたたちだってたまたま殺人したかもしれない。その辺想像力足りてないよね」とか言うようなもんだろ。いやだから普通は殺人しねえよっていう。
あのね、ニコチン依存はタバコ4本程度であっさり形成されてしまうの。そういう研究がある。何かのきっかけで一箱も吸ってしまえば、それで喫煙者になるんだ。きっかけはさまざまだ。親にタバコをもらったり、友人や同僚や上司に勧められて断れなかったり、中二病に罹患したり、「タバコは二十歳になってから」と宣伝されているので二十歳になったから素直に手を出してみたりな。そういう危うい瞬間が自分にはまったくなかったの? 自分は意識的に非喫煙者でいられたのか? たまたま家庭環境や学校環境に恵まれただけだったりしないか?
仮に自分はそうでないとしても、たまたま喫煙者になった人間、たまたま非喫煙者になった人間が大勢いることは分からない? タバコに手を出すというのは、殺人ほどハードルの高いことなのか? 実際の殺人事件の件数と新規喫煙者の数を比べるまでもなくそんなことはありえないわな。
そもそも、タバコに「健康のため吸いすぎに注意しましょう」(吸いすぎなければ大丈夫と言っているのがポイントね)の注意書きが入ったのが1972年。いわゆる嫌煙運動が起こったのもこの辺。で、数年前にやっとタバコを規制する条約が成立して、警告が今のように強化されて。今でこそタバコは総バッシングされているが、5年前、10年前、20年昔にタバコを吸いはじめた人たちは、タバコの有害性や依存性についてきちんと知らされていないんだよ。規制もぬるかったし、タバコも吸えないなんて要は勇気がないんでしょみたいな馬鹿げた風潮もあった。男性喫煙率が80%を超えていたのはたった40年前だ。大学生の喫煙率だってこの10年で半減している。社会環境がまったくちがうの。新聞がタバコについてまっとうな報道をするようになったのもついこの10年ほどだと認識している(テレビはいまだに全然報道しないよね。どの局もJTのCMだらけ。週刊誌も)。
ある程度の禁煙教育や十分な警告を受けてきたはずの、そうだな、今の20代半ばより下あたりの喫煙者は、いったい何を考えていたのかと俺も思わないでもない(かといって見捨てもしないが)。が、それより上の世代の喫煙者については情状酌量の余地がありすぎるんだよ。
それとも、今の中高年男性の8割に向かって「想像力がない」と言うつもりか。無茶な。喫煙者に瑕疵があったのではなく、原因は別にあるんだ。国とか企業とかな。矛先を間違えるなというの。
念のため言っておくが、自分は生まれてこのかた非喫煙者。ヘビースモーカーだった知人を若くして失ったのが動機で、ささやかながら禁煙運動に参加している(なお、禁煙運動というのは、タバコを撲滅しようという運動だ。WHOなどが展開しているのがこれ。単にタバコの煙を吸わせるな、自分さえよければ誰が死のうが構わないという嫌煙運動ではない)。
問題の背景を学びもしないまま、ただ喫煙者叩きをするような手合いは、禁煙運動、反タバコ運動的にはむしろ逆効果なので自重してもらえないかと思っている。繰り返し言うよ。喫煙者は悪くない。たまたま最初の何本かを不幸にも吸ってしまっただけだ。
歴史的経緯を知るには、とりあえずこのあたりの本からいかがですか。
非喫煙者も、人生のどっかでたまたまタバコに手を出していれば、あっさりニコチン依存になってタバコをやめられなくなってたかもしれない。その辺想像力足りん非喫煙者が多いなとは思うよ。
「ひとたび喫煙したら、あっさりニコチン依存になって煙草をやめられなくなってたかもしれない」そう、そりゃそうだ、それを分かってるから非喫煙者は喫煙しないの。そんなことも想像できずに安易に吸ってしまうところが「想像力がない」んだよ。だからバカにされるんだ。
それって殺人犯が「あなたたちだってたまたま殺人したかもしれない。その辺想像力足りてないよね」とか言うようなもんだろ。いやだから普通は殺人しねえよっていう。
ってこんな風になるの分かってて、安易に手を出すその想像力の無さ。
それを非喫煙者はバカだなあって思って見てんだよ。
バカだけならまだしもそのバカさで迷惑かけるから、煙たがってるの(二重の意味で)。
・文体が駄目。
文体が駄目だという。
演出とは考えられないのだろうか。
もしくは、携帯で見るのに適したフォーマットになっているとは思わないのだろうか。
・登場人物がいい加減で軽いから駄目。
名作にも、結構いい加減な人物がたくさん出てくるんだけど、それについてはどう思うんだろう。
芥川賞とか有名な賞を取っている作品にも、そんな登場人物が出てくる作品が案外あります。
・そんな人物には共感できないから駄目。
いい加減で軽い人物には共感できないから駄目だという。
・ケータイ小説大賞なんてこの程度、世の中がおかしい。
自分が、読者として想定されていない事くらい理解した方がいい。
本当に、ただ見た目だけでdisりたいだけの人が多くて、真っ当な批判をしている人は少ない。
現代訳と称したあらすじだけ読んで、理解した気になっている人も多すぎる。
自分は死刑廃止には賛同できないなー。
結局なんで普通人が人を殺さないかって言うと、自分が殺されたくないからなんじゃないかなー。
いくら殺しても自分が殺されまではしない、というならすぐにでも包丁持って飛び出せるぜ、って奴はいると思うよ。
年に何人って死刑囚を殺すかどうかでウニウニしてたせいで殺人犯が増えるのは勘弁だ。
法の後ろ盾があるからとは言っても死刑も殺人だし…って気持ちもまあわからなくもないけど、自分は殺人が絶対悪だとは思わない。
死刑を執行することで再犯で奪われるはずだった命を救えるのならそうするべき。まあ状況に応じてだけど。
ただ、廃止論者の人たちの「いやいやちょっと待ってよ」って言うのにも頷ける部分はある。
やたら死刑死刑言ってる人間は、なんの筋道も立てずにただ「遺族の気持ち」だけをブンブン振りかざして
固定観念でガチガチの勧善懲悪をとにもかくにも貫き通そうとする嫌いがあるしなー。
勢いだけで結局何も考えてないんじゃないか?とか思うよー。
そういう中身のない気持ちだけで暴走すると、例えさしあたっての問題はクリアできても実質的には何の生産性もないことになる気が。