はてなキーワード: 接続詞とは
夏に発生するアレを吸着するエントリです。なんとか取り紙みたいなもんです。
・トラバを張らない(張り先がわからない?)
・ののしるの大好き☆
E判定だったのか…それは辛い。
本当、そう思います。
男女差別は良くないと思います。
「変わる」に掛かる対象を取り違えてますよ。
風紀委員とのコラボw
でも文体は一緒w
同じ人にしか見えない位、会話レベルが同じと言う事でどうでしょう(提案)
エントリ自身が風紀が乱れるきっかけを作っている事は公然の秘密
あんまアレじゃないかも…
プレゼントは気持ちが大切と言う意味を、根本的な部分で理解できてない夏。
仰るとおりスルーが一番良いのかもしれないですが、件の高学歴増田とは違ってみんなは常に増田に張り付いている訳にいかないのです。
増田は基本的に優しいので、事情が判らないと「どうしたのさ?」みたいに相手してあげちゃうので、これは「夏」エントリなんですよーと言うお知らせの意味でまとめている訳です。
で、このエントリの利用方法ですが、「痛い」と見下すのではなく、
「あぁ、今年も夏が来たなー」みたいなちょっとした清涼感を得るための一服として利用してもらう感じが想定している利用方法です。
でもまぁ、ご自由にご利用ください(汗
なるほど。
腰すえて話をすると論破されるのが怖いからかと思ってました。
それ以前という説、なるほどなるほど。
時間が空いた時だけなんですけどね。
と言うかちょうど時間が空くと暴れてるので、近い生活時間帯なのではと思ってたりします。
お褒め頂き、ありがたき幸せw
http://anond.hatelabo.jp/20070529105309#
http://anond.hatelabo.jp/20070702220146#
■やっぱりさ、温情なんかやめて
悪は徹底的に叩くべきだ。中途半端な叩きかたするから癌細胞みたいに悪は増殖するんじゃん。遠慮もなにもしないで断固粉砕でいいじゃん。
「善も悪もそんなのは主観なんだからそんなのはない」っていう人は自らが悪に荷担している事を知れ。こういう偽善者こそ大嫌いだ。分かったフりなんてするんじゃねーよ。
http://anond.hatelabo.jp/20070719111334#
■転売がイケナイのって
今回のアニヤのバッグの場合、全然欲しくない人が転売の為にアニヤのバッグを買い占めて、他の欲しい人が買えなくなる事例が出ているのだけど。
その欲しくない人が転売の為に買って、高く売りつける行為は経済的な付加価値を生み出さないからイケナイんじゃないの?
けーざいがく的に転売がイケナイのってそういうことじゃないの?
http://anond.hatelabo.jp/20070731115229#
■
更生できなかったら無期懲役。
更生の見込みがなければ無期懲役。
本当に更生できるかは刑務所の中の人の頑張り次第。
人のやることに完璧はない、という問題であって、
http://anond.hatelabo.jp/20070724093345#
■http://anond.hatelabo.jp/20070723224418#
技術革新はユーザーに驚きをもたらさなくなった、ある一定以上の複雑さはユーザーの限界を超えた、ある一定以上の高画質はモニターと動体視力の限界を超えた。
この頃のユーザーは0から共に育ったユーザーとは打って変わってもう大分進んだ先からゲームに触れた世代だというのもある、もともと高画質の世界を見てきた世代だ、いまさらMOVEの華麗さに声を上げることは無い。
360やPS3をHD対応のTVやモニタに繋いでプレイしてみろ。
戻れないだろ…。
http://anond.hatelabo.jp/20070811131813#
表に出てきていない。
実際に、この機械を使って初期癌を消した人もおり
末期癌患者はこの機械を使っているときに痛みが取れる、と話していた。
何故その機械を知っているのかというと、私もその機械を実際に使ったことも、治療に当たったことのある人間の一人だからだ。
特許も取れているし、量産して全国配備すればどれだけの人が救えるのだろうか。
7並べのカードのように、出さずに手元に持っている人たちが居るという事態が、私は許せない。
自己利益を求めるのではなく、多くの人が救われるようになってもらいたいと心から望む。
http://anond.hatelabo.jp/20070814113827#
■「どんだけー」を使う人間はIQ80以下、SS40以下と言う定説。
http://anond.hatelabo.jp/20070814102023#
ひたすら勉強だ。
学生時代もそうだが、大人も勉強しなくてものらりくらり適当に生きることは出来る。お前みたいに。だけど少しでもよりよい生活を、よりよい仕事をしようと思ったら、ひたすら勉強。学生時代と違って、受動的な勉強じゃなく能動的な勉強をしなければいけないから、出来ない奴は落ちこぼれる。
http://anond.hatelabo.jp/20070820171302#
■http://anond.hatelabo.jp/20070820161916#
「サラリーマン」って、給与所得者が自分の処遇を愚痴るときに使われる決り文句のような気がする。
夕刊フジや夕刊ゲンダイの記事に、いかにもありそうなんだけど、
とか。
http://anond.hatelabo.jp/20070822082933#
■アルコール抜き
昨日はアルコールなし
一昨日は氷結350ml
だんだん普通の生活?にもっていけるのかな
http://anond.hatelabo.jp/20070822003934#
■http://anond.hatelabo.jp/20070821215228#
http://anond.hatelabo.jp/20070823005253#
■職種と生産性
職種と生産性に関する素朴な考え。
最初に自分の考えを言うと、現在の社会では、作業量に応じて線型に利益が上がる職種、作業量に応じてステップ関数的に利益が上がる職種、作業量に応じて指数関数的に利益が上がる職種の3種類があると思う。
作業量に応じて線型に利益が上がる職種としては、美容師、料理人、介護士、小売店員、工員、医師等がある。
これらは、人間の命に関わる職種(医師)意外は、人材が買い叩かれる傾向がある。平均レベルの従事者では他の人と取替え可能であり、それゆえ低い給料に甘んじることになる。しかし、取替え不可能な非常に高度な人材、つまり高級料理の料理人、有名建築家、有名華道家などは概して高給である。
作業量に応じてステップ関数的に利益が上がる職種としては、メーカーの技術職、システムエンジニア、営業職等がある。これらの職種の多くは、大卒を最低保証とする程度の一定の知的技能を必要とするが、特定の組織の中での部分的な利益を出し合うにすぎず、利益の幅は限定的である。
最後に、作業量に応じて指数関数的に利益が上がる職種として、金融、マーケティング、広告、商社、コンサル、経営者等がある。これらの職種は個人の決定が他業界にも波及し、結果的に指数関数的な影響を与えうる。たとえば、金融はグローバル化が進み、非常に流動的である。トレーディングを最適化すれば(実際には不可能だが)、作業にかかった時間の何乗ものレートで利益が生まれることになる。また、商社は日本を中心とした二国間での物の流れ決定する。その決定はさらに、最終製品から原料にいたるまでの複数の国間の物や金の流れにも影響し、それがさらに日本にも波及することになる。したがって、周辺ノード(国)への波及という点で指数関数的な利益を生み出す構図がある。
今後、経済はよりグローバル化し、市場におけるひとつひとつの判断が大きな影響を及ぼすことになる。このような中で、定型の仕事や、組織の中での限定的な影響しか持たない仕事ではなく、不確実性に対処し指数関数的な利益を生み出す代えのきかない人材が求められることになると思う。
http://anond.hatelabo.jp/20070823233243#
■何でも楽しいという友人
「数学と現代文はパズルだし、物理や化学や生物や地学なんてさ、物体や宇宙や、物体の動きとか、そんな宇宙の根本的なところの話で普通に知ることが楽しいし、倫理なんかも人間の根本的なことだから楽しいし役立つし、しかも過去の超天才、超有名人たちのエッセンスだけピックアップして体系化して知れるんだから倫理なんてマジで超お得じゃん!現代社会とか政経なんて普通に新聞読む時とか実生活に即役立つし、歴史なんて、俺らと同じ人間の今までのビッグニュースを集めたもんだし、しかもなんせ歴史はマジで起こった事なんだぜ、楽しいよ。理科も、架空の事じゃなくてマジで今のここにある物体の仕組みの事で、リアルありまくり。全部即役に立つじゃん。楽しいじゃん。古文も、日本に文字とか文章とかの文化が生まれてから今までの超有名作がピックアップされててマジ便利。楽しい。漢文もそうだよ。だから勉強って超楽しいよ。ついつい夜までやっちゃうんだ。やめようと思ってもなかなか「あとちょっと」とかいってやめらんなくてさー」
大体奴はそんなようなことを言っていて、周りの皆は「理解できねえ」と苦笑いしていた。俺も含めてだ。
そして奴は、東大へ行った。
知ることが楽しいのだという。
他人の、自分の知らない趣味の話なんかされても、たいていの人は「へー」「ふーん」で流すばかり、気付けば一人で盛り上がってて周りは苦笑、てなのが常だが、奴はどんなことでも目を輝かせて聞く。
たくさん聞きまくるから、話してるほうは愉快で、もっと話す。奴はもっと聞く。困った事がただ一つだけある。奴がその後、その分野について、初めに話した奴より詳しくなってしまうことだ。そうなると相手はちょっと、面白くないようだ。
「どんな事でも楽しいよ。そりゃ最初から全部楽しいわけじゃないけど、どんな事でも、世界に一人はそれを楽しいと感じてる人がいるわけじゃん。どんなマイナースポーツでも、どんなマイナーな趣味でもさ。それだったら俺も楽しめるなって思うんだよ。楽しんでるその人がどういうところで楽しんでるのかって思いながら楽しいんだって軽く思いこみながらやってるとそのうちマジで楽しくなってくるし、楽しさがわかってくる。どういう所を楽しいと感じているのかってのが。基礎知識をある程度詰め込めば、それなりになんでも楽しくなるよ」
「でもその基礎知識を詰め込む時点では面白くないわけだろ?」
「まぁ、その時点ではその事に対して面白くて仕方がないってわけじゃないよ。でも、未知のものを知っていくっていうのは、楽しいことだよ。例えばサッカーを全然知らなくて、サッカーについて知ろうとしてるとき、そのときはサッカー自体について楽しくて仕方がないってわけじゃないけど、全然知らなかった未知のものについて、おおまかでも概要を掴むっていう動作が楽しいんだよ」
「それ楽しいか?」
「楽しいよ。概要を掴むとか、体系化するとか、そういうことが俺大好きなんだよ。段々世界を把握できていく気がして、すっきりする。怖いのは、そういう事をしていって、ついに知ることがなくなったらどうしようって事だけど、でも今の時代そんな怖さは全くないから。無限にある。いつまでもある」
「そういうもんかなあ」
「うん。そんで、大体概要が分かると、細かい事も知りたくなってくるんだよ。あと、日常でも、今まで見えなかったことが見えてくる。これは比喩じゃなくて、さっきのサッカーのことでいえば、今まではネットでサッカー関連のニュースがあっても、たとえ目がそこに向いても実質見えていない状態だったりするわけなんだけど、それが、目に付くようになる。「あれ?サッカーの事ってこんなにやってたっけ?」って気付き始める。そうすると、また知るだろ。そんで、知ると、また知りたくなる」
言うまでも無く奴は非常に博識である。
だが奴自身はそんな風には思っていないようだ。
小学校の時、嫌な場所の掃除当番になったときも、奴は面白がっていた。
「どうとでも楽しみ方はあるよ」
「どこがだよ。つまんねーよこんなん」
「めっちゃがんばって綺麗にすれば、楽しいじゃん。今まで汚かったのに、俺らがめっちゃ綺麗にできたら、楽しいし、すごいじゃん。先生も褒めてくれるし、優等生気分じゃん」
「うーん」
「それか、時間でもいい。めっちゃ綺麗にしなくても、いかに早く、大体を終わらせるかってのを目標にしてもいい。早くする方法を考えるの、楽しいだろ?それに、早く終わると、楽しい」
「まあそれはそうだけど」
「一番楽しくないのは、楽しくないって思って、ダラダラやることだよ。それは全然面白くなんない。つまんないとか嫌なことは、つまんないとか嫌だって思って嫌そうにやると嫌なままだけど、開き直って、おっしゃ、やってやるって、目標立ててやると、結構面白いよ」
俺らはかつてないほどその場所を掃除した。ただし時間内には必ず終わるように。だからすっげー必死になってやんないと終わらないから、チャイムがなったら急いでその場所にいって、嫌だとか考える暇もなく、ただおりゃーって頑張ってやってた。手が汚れるから嫌だとか前は考えてたけど、やるって決めてからはんなこと考える暇もなくてただやりまくってた。そして気付いた。手が汚れたら洗えばいいんだと。めっちゃ綺麗になって、俺らは先生から帰りの会で褒められた。
http://anond.hatelabo.jp/20070824125319#
■http://anond.hatelabo.jp/20070823233243#
知的好奇心つながりで一つ自分の話を。
自分は東京の街並を眺めるのが好きです。
特に新宿の高層ビル群とか、東京タワーとかレインボーブリッジとかの巨大な建造物が。
ちょっと近づいて地上数十メートルの巨大な建造物、
その部品に使われる小さなネジ・・・
と、だんだん小さな部分に注意を向けていきます。
で、はたと気がつく。
今、自分の視界に入っている、凄く巨大なものから凄く小さなものまで、すべてどこかの誰かが作ったものなんですよ!
普通に考えると当たり前の事なんだけど、よくよく考えるとこれってもの凄い事だと思いません?
こういう視点で街やいろんなものを見てると、素直に「人間て凄いなぁ??」と感動してしまいます。
こんな風に街を見てる人って少ないのかなぁ。
http://anond.hatelabo.jp/20070829100649#
■格差と想像力
こういうことを書くと「偉そうに」と怒られるのかもしれないけど、ある意味TB先と同じ話だと思うので書いてみる。
http://anond.hatelabo.jp/20070826235204#
私は親には相当程度恵まれていたクチで、別に裕福ではなかったけれども教育費に事欠くようなことはなかったし、親の勧めで進学校に進み、世間的には一流と呼ばれる大学に進んだ。自分自身その当時の境遇には満足していたし、親も喜んでくれたし、ささやかな優越感を楽しむことも出来た。
大学は楽しかったが、私は特に大学の成績には興味が無かった。先輩の話を聞いていても、大学の成績が良かったからといって、それこそ総代にでもならない限りは大したメリットは無さそうだったし、なにより自分が興味をもてない科目をちゃんと勉強するほどの忍耐力は子供の頃から全く無い。自分の好きな科目だけはすべて優でそろえてそれで満足していた。
卒業して就職し、何年か経つと、周囲の友人たちの一部が留学を始めた。それまで自分が海外で暮らすとか、海外で勉強するなどということは想像の遥か外側にあったので、そういうことが可能なのかということ自体に結構驚いた。その当時はそれ以上考えが進むことは無かったのだが、仕事をしていくとその分野で日本が決定的に立ち遅れていることが見えてくる。これはちゃんと勉強しておかないと10年後に必ず行き詰るなと思ってアメリカ留学の準備を始めたのだが、ここで壁にぶち当たった。
アメリカの大学院はどこも学部時代の(場合によっては高校も含めて)成績を重視する。GPAで3.3(優と良が半々で少し良が多いくらい)は足切ラインであって、それ以下だと申込書を送ることすら出来ない場合もある。もちろん、実際に一流校で合格を決めるにはそれよりも遥かに高い、例えば3.9(ほとんど全部優)とかが求められる。GPAなんてものは存在も知らなかった私の成績は3.3を割り込んでいた。
もうひとつ重要なのが推薦状。アメリカの大学で博士号を取り、出来れば本人も世界的な業績をあげている人に推薦状を書いてもらうことが望ましい。残念ながらそんな人はほとんどうちの大学にはいなかった。というか、そういう先生がごろごろしているのは東大他数えるほどしかない。しかも推薦状は3通必要。私は推薦状のネームバリューを考えるどころか、3人の推薦人を揃えるだけでも精一杯だった。
それでもなんとかアプリケーションを書き上げ、会社に隠れてTOEFLの勉強をし(この時期の平均睡眠時間はちょっとやばいことになっていた)、会社に迷惑はかけられないので合否の結果が出る前に辞める宣言をして代わりの人材を自力で調達し、やることはやって合否の結果を待った。結果はほぼ全滅に近かった。中堅大にぎりぎり引っかかっていたのは運が良かったとしか言いようが無いが、その当時はその幸運に感謝する気にはなれなかった。
その後アメリカに行ってから、自分がアプリケーションを出した大学のうち結構な数が「世間的には難易度がそこまで高くないと思われているが、募集人数が少なかったりして実は非常に入りにくい大学」であったことを知った。比較的まともな大学で日本人を積極的に受け入れるところがあったこともその後知った。東大からハーバードみたいなところに進む連中は、学部生のうちから留学準備をしている先輩を毎年見ているわけで、この辺りの情報は常識であったらしい。まぁ、ハーバードだMITだのに進む学生はそもそも私などとは比べ物にならないほど優秀だったので、特に腹も立たなかったのだが。それでも、うちの大学でもGPA3.8位あれば学部によっては超一流大を狙えた事を知ったときは少し堪えた。
中堅大のハンディキャップは就職活動に現れる。ハーバード、MIT、スタンフォード、イェール、そしてプリンストン(分野によってトップ5の大学は変わってくるが)。これらの大学にやってくる求人広告とうちの大学に来るそれとはかなり明確に差が出てくる。イェールの友人にそれを愚痴ったら、「ハーバードとMITは特別扱いなんだ」と愚痴られた。
もし日本の大学に入った直後にこの辺りの事情を知っていたら、そして自分にもそういった「とんでもなくエリートっぽい」キャリアパスがあり得るのだと想像できていたら、自分の人生はもう少し楽になっていたと思う。情報なら幾らでもあった。世の中には留学ガイドがあふれていたし、掲示板にだって色々なことが書いてあった(その頃はまだインターネットは無かったわけだが)。本屋でちょっと手に取っていれば必要な情報の半分くらいは入手できただろう。でもそうしなかった。そんなこと想像も出来なかったのだからしょうがない。親も友人も、海外にまで出て行く人間などいなかった。就職先で留学する人間に出会わなければ、今でも想像できないだろう。
結局、人間は社会に縛られる。それはしょうがない。誰かが悪意を持って情報を隠しているわけでもない。多分こちらから聞きに行けば喜んで教えてくれただろう。でも私はそうしなかった。想像力が足りなかった。想像力が足りない自分が「悪い」わけじゃない。ただ運が悪かっただけだ。それでも、そういう運の良し悪しも含めて自分の人生なわけで、それを嘆いても始まらない。架空の「すべてをコントロールするエリート」をでっち上げて彼らのせいにしたって虚しいだけだ。
結局私は海外で就職して必死に働いている。多分また無意識のうちに別の「社会」に縛られているのだと思う。もう少し世の中が見える人からは遠回りしているように見えるのかもしれない。でも自分に出来るのは手持ちの知識と能力と時間のなかでベストな選択をすることだけ。今の自分に満足できないからって「格差社会が悪い」と大上段の議論をするより、自分の手持ちの駒の使い方を考えたほうがいい。
http://anond.hatelabo.jp/20070904222327#
■http://anond.hatelabo.jp/20070904214759#
増田とか2chとかうろうろしてるとやたらにクズな奴の話とかが出てきて、ついこの世はクズばかりかと錯覚してしまうのだが、これと同じで、単に「普通の人」とか「いい人」の話はあんまり皆書き込まないだけなんだよな。「え?なんでこの人たちこんなに類稀なクズばかりが周りにいんの?有り得ないだろ。ネタ?」(実際ネタもあるんだろーが)とか思っちゃうんだけど、そういう類稀なクズに出会ったからこそ書いてるわけで。リアルにいるときはそんな事忘れてるんだけど、ネット上ではついそうやって勘違いしてしまう。こんなクズたちに会ったことのない自分はめっちゃ幸せもんなのか?とか思ったりするけどそうじゃないんだよな。
http://anond.hatelabo.jp/20070904225227#
■そうね
クズに会う確率は誰でもそんなに変わらなくて、
書き込もうと思うかどうかのほうが人による気がする。
俺もうちの社長のこと何回書き込もうと思ったことか。
http://anond.hatelabo.jp/20070905094121#
■http://anond.hatelabo.jp/20070905015711#
自分、5桁代前半(1xxxx)だけど、その頃の事を言いたかった。当時は知らない人の所見て回って、ついた足跡から仲良しになるなんて日常茶飯事だった。
そんな雰囲気の事を言いたかったんだ。
http://anond.hatelabo.jp/20070906151611#
■1000から2000字ていどの文章書いてと言われたら
俺がいつも念頭に置いている基本形(だが変形することの方が多い)
http://anond.hatelabo.jp/20070906150600#
- 思いつくネタを箇条書きにする→マインドマップでもよい
- オーソドックスな三段構成(はじめ・なか・おわり)で配列してみる→おそよの筋を見つける
- 筋に必要な話題を追加し、入れると構成が取りにくい話題を削除
- 箇条書きのネタを膨らませていく→実際の文章を書く
- 構成の再整理
追記:
もっと長い文章を書く場合、小見出しをつける癖をつけると良い。構成のとき、最初からおおざっぱな小見出しを書いていくというのも変形の一つ。話題のグルーピングがしやすい。
http://anond.hatelabo.jp/20070906153931#
■Re: 1000から2000字ていどの文章書いてと言われたら
http://anond.hatelabo.jp/20070906151611#
私が苦手なのは接続詞。「しかし」「したがって」「そして」「さらに」などなど。
これらがワンパターンになりがちで困る。気が付くと、重ねて使ってることが多々。そして、どうつなげるのか悩む。
なので、最近は、まず接続詞はなしで書く。どんどん切る。その後、つなげていく。すると、そもそも書くべき順番を間違えていることに気が付く。
でも、やっぱり苦手。
はてな匿名ダイアリー「返信します」に関連して。(http://anond.hatelabo.jp/20070225013332)
私は、上に掲げた文章の作成者は経験が豊富で博識であると信じる。
「もちろんあります。いや、違うかもしれません。本当の意味で考えたことはなかったのかもしれません。」というような、議論の中で、レトリックに隠しながらの相手を慮った譲歩を行うことによって議論を紛糾させないように配慮している。
他にも、「ある意味では正しいのかもしれません。でも、当時わかっていなかったことがあります。」という表現や、「私見ですが…」「…は二つあります。…の双方です」「このうち、whatは…。一方で、howの方は…。しかし、…。そして…、…するためには、…がどうしても必要です。」「私には、…。確かに、…かもしれません。…からです。しかし、…と思います。」といった論理接続詞の丁寧な付加、論理的事実と自分の思想との書き分けには、よい意味でのアカデミックな知性を感じる。
このような文体の癖は、中立的に物を語ろうとしている意識を感じさせる。もしくは、もう体にしみついて無意識のうちに出ているものかもしれない。自分の主張、相手の主張、どちらの根拠にも触れることで議論に出てくる論理をきちんとなぞっていく。相手の主張の根拠を無視して自分の論理を展開することはない。
彼はこのあと持論を展開しているが、その中でも「自分の思い込み」を「客観的な事実」であると誤読させないような言葉遣いを心がけているように見える。様々な立場の論理を検証しているからこそ、「単純な話ではない」ということができる。
ただ、彼の主張(…だと思う、だとか、…ではないでしょうか、などの表現が用いられている部分)と、トラックバックによる反論群を見比べてみると、、、以下は印象論や私見にしかならないのでここに書くことは避けておく。
http://anond.hatelabo.jp/20070225170702という文章も発見した。
「持つべきプライドと不合理なこだわりを区別すべき、というようなことが主題のつもりです。」なるほど、主張の根幹がここにあったわけか。どうりで。…以下は、ここに書くことは避けよう。わかりやすい言い切りが一概に良いものだとは言い切れないと、私は思うので。
私の書いた風刺の枝葉末節に見当違いなツッコミを入れて、「疑似科学ハンター」と悦に入っている人がいる。
こんな輩には別に何の興味もないが、前回の記事が「ネタ逃げ」だと思われている節もないではないので、敢えて補足しておく。「傲慢だ」という見当違いな非難を受けたくないし、無内容な長文を書きたくもなかったので、本当は気が進まないのだが。
まず、私のIQが152だと書いたこと、実はこれは完全な嘘というわけでもない。ネット上のIQテストで152という数値を出したことはある。もちろん、ネット上のIQテストの信頼性が高いなどと思っているわけではない。だが、130とか140あたりが上限になっているテストでは必ず上限に達していた。それともう一つ、平均的な人が知的障害者を差別する発言を見聞きすると、「お前らの頭の中身も五十歩百歩だろうが」というのが実感で、正直内心片腹痛いのは事実である。以前、障害者の介護のボランティアをしていたことがあるが、軽度の知的障害者と「健常者」の違いはほとんど認識できなかった。紙一重の差で社会に受容されているかいないかというだけの差にしか思えない。あるいは、例えば「ニート」の名の下に社会から爪弾きされている者の中には、知的障害者か否かの境界的な位置にいる者もいるのかもしれない。
もちろん、こうした見解をひとたび口に出せば暴言としか受け止められない。だから本当は書きたくなかった。しかしながら、「障害者とは相容れない、隔離せよ」といった類の暴論が一定の支持を集めてしまう現状に対しては、「天に唾でしかないこんな暴論を支持する者は、自分自身が『頭の不自由な人』だ」ということを喝破することも必要であった。だが、そういったことを直接的に書けば「煽り乙ww」、前もって断り書きをした上で丁寧に書けば「どこを縦に(ry」と言われるだけだ。所詮、「平均的な人」は「わかりやすい話」でなければ理解できないのだ。そこで苦肉の策として、わざと人目を引くような形で、一人称体の風刺小話を書いてみただけのことだ。要するに形式はネタでも意図は真面目だったわけだ。そもそも風刺とはそういうものだ。IQという数値だって本当は出したくなかったのだが、十分賢い人を連れてこれば「健常者」も障害者同然という状況をわかって頂くには、何らかのわかりやすい基準がなければならなかったのだ。だから、多少の暴論を承知でIQを持ち出したまでだ。「健常者」が「障害者」を暴論で切り捨てていることを告発するのが目的なのだから、レトリックとして敢えて暴論を用いたのは事実である。
ただし、それにもかかわらず、
彼のIQに対する主張は100%トンデモの疑似科学。また、はてぶコメントに「認知心理学では正しい」と書かれているが、そんなコミットメント(原文のママ。「コンセンサス」の誤りか?)は認知心理学会(原文のママ。正しくは「学界」か)には存在しない*1のであしからず。
このようなことを言われるのは心外であるし、正しくすらないと反駁せざるを得ない。
第一に、「知的障害者」がIQを基準に決定されていること、そしてIQを生活年齢と知能年齢の比のパーセント表示で決定する方式があることは事実である。Wikipediaの「知能指数」の記述のうち、「算出法」と「障害者認定」の両箇所を見ればよい。その程度は調べてから書いている。見損なわないでいただきたい。「100%トンデモ」と侮辱的な言葉をぶつけられたが、撤回していただきたいものである。
第二に、
「知能が2倍」ということには自明な定義があるわけではないのだ。だとすれば、知能年齢が2倍であることをもって「知能が2倍」と呼ぶことにして、なんの問題があるか。
と書いたことを「俺様定義」と批判を受けた件。これについては理解できなくもない。しかし、私はこの定義はそれなりに妥当性のあるものだと考えるし、頭ごなしに「俺様定義」と批判されることには異を唱えたい。私の生活実感からすると、未成年者同士での知能の比は年齢の比と近似的に(「近似的」である。くれぐれも「0歳児はどうした」などと下らぬことを言わぬように)一致するように思える。たとえば、18歳のときに12歳の少年と話をする感覚は、12歳のときに8歳の子供と話をする感覚とほぼ同様だった。もちろんこれは主観に過ぎず、検証もできないしできるものだとも思わない。厳密さに欠けるのは当然だ。しかし、そもそも私は学問的に厳密な話をしようとしていたのではなく、感覚的な話をしようとしていたのだ。そのことは文体からでも明らかであろう。「知能」「知能が2倍」という言葉にカギカッコを付けていたことからせめてそのあたりを感じ取って欲しかったのだが、というと望みすぎであろうか。
だいたい以上のごとしである。もはやこれ以上私は下らぬ文章を書きたくないので、これ以降、自称「疑似科学ハンター」の下らない功名心に付き合わされることのないよう望むものである。
蛇足
厳密に書く意図がもとよりないことが文中に明示されているような文章に対して
ま、拙い接続詞の使い方や、こういう詭弁を見れば、まともな論述、論理の訓練を受けてないことは明らかで、騙される事もないと思いますが一応言っとかないとね。これで大学生だったらマジどうしよう。
だとか優越感を露わにしておられるが、私は旧帝大院卒なのだが?
これに対して「学力崩壊」だと嘆くか「ハッタリ」だと憤るか、それとも逆に尻尾を巻いて逃げ出すかはあなたの判断にお任せすることとする。
http://anond.hatelabo.jp/20070209131658
かぶっている気もするけど気にしない。
私は、必ずと,言っていいほど,同じような,時間帯に,散歩する。
その文節が掛かる文節(私は→散歩する)が、3文節以上離れている場合には読点を打つ。
文節をカンマで区切りました。離れすぎると、修飾語・被修飾語の関係が曖昧になるからだと思われます。
これはなんかの文法書で読んで、そのまま自然に心がけています。
これが原則。
私は毎朝、歩いている人と/私は、毎朝歩いている人と挨拶します。
複数の述語候補がある場合の例外。
副詞(句)の掛かる文節を明示するために、副詞(句)の前で読点を打つ。
連用形で止める中止法や、並列の関係にある場合は読点を打つ。
文中に主語が出てくるときは、主語明示のため、主語の前で読点。
接続詞や接続助詞の後で読点を打ち、論理関係をはっきりさせる。
カギ括弧前に打つ。
私は、ここで、はきものを/ここでは、きものを脱ぐ。
誤読防止のために読点を打つ。
「わ」と読む「は」の後にひらがなが続くときは、いつも打っていいくらい。
ネットでの言葉遣いだと、漢字使わないでひらがな使うことも多いですし。
ネット上では、これが念頭にない人が多いので、みなさんも注意されたし。
↑ココ