はてなキーワード: ファシリテーションとは
唯一、新卒で就職活動してた会社から希望してた職種で内定もらえた。
とりあえず就職活動が終わったことになるので思ったことを偉そうに書いてみる。
就活のマニュアル本とかいろいろあるじゃないですか?SPI対策本とかも含めて。
あれって社会に悪い影響を与えてるんじゃない?
SPI対策本を例に挙げると、SPIはたぶんその人の思考能力みたいな知力を見るもんなんでしょ?
「知力が高い人」と「知力の低い人」をそれぞれの企業の基準で見るためのテストであるはずが、対策本によって
「対策をした知力の低い人、知力が高い人」と「対策してない知力が低い人」になるわけですよね。
「対策をした知力の低い人」を量産して世の中に送り込んで世の中良くなると思ってるの?印税さえ入ってくれば良いの?
■就活について
就活情報サイト主催の就活セミナーに参加したけど、一部の人間が新興宗教の熱心な信者みたいで気持ち悪かった。
GDはやたら主導権を握り、自分の意見を通そうとする人が面倒だった。しかも頭いい大学。うまい具合にいなしてたら女の子が俺のアホな意見に賛同し始めた。あの娘たち絶対俺に気があった。
今回のセミナーの感想をいう場は、お前絶対にそんな事思ってないだろ!って突っ込みたくなるような事をいういう人や、棒読みで模範解答を読むような感想を述べる人ばかり。しかも頭いい大学。
あんなんが大手にいっちゃうのかなーってそのときは思った。
主催者側の司会進行も学生を就活モードにするには完璧なファシリテーションだった。けど、なんか違和感があった。
志望する企業のプレセミナーには結局その就活モードでいってみた。つまらなかったし、就活って大変だと思った。
その2ヵ月後に受けた1次選考の最初に「リラックスして下さい、一緒に働く仲間を見つけましょう」みたいな事を司会の人が言っててハッとした。
やっぱそうだよなと思って、誘われた合コンに行く程度の緊張感と期待感を持って集団面接に望んだ。名物社長のムチャぶりをユーモア混じりに返したりして楽しめた。
結果は1次通過。あの会場ではダントツでしたと言われた。
2次もそのままの調子でいった。むしろダントツと言われたことによって少々調子にノっていった。あたりまえだけど敬語は普段程度には使ったけど態度が少々デカかった。
でも、エントリーシートと履歴書に書いてあることは自分からは言わないというルールは作った。
こんな資格あります!とかこんな賞とりました!とか初対面で言ったら嫌なヤツだし。しゃべるのが好きっていってそこから話を広げた。
自信満々に振舞ったり、謙虚になったりと初対面の人に対する普通の対応。
ちなみに資格はその職種に必須の車の免許すらないし、賞も部活のが少々とリーダー経験あるぐらい。
筆記試験はその会社オリジナルの教養試験とIQテスト。教養試験はその場でトップだったらしい。
選考会後に懇親会もあったりで楽しかった。最初にとなりだった娘と途中で俺のとなりに来た娘は絶対俺に惚れてた。
俺は運良くほとんど苦しまずに内定がもらえたからいいけど、就活という言葉に乗せられてわざわざ苦しい思いをしてる人が多い気がする。一年以上苦しみ続けていまだに内定が無い後輩もいる。
もしかしたら就活なんて事をあまり意識せずに普通に、もしくは楽しんで望めば就活モードよりいい印象を与えられるかもしれないので、いま就職活動中や今後就職活動に望む学生の人はそんなやり方もあって、うまいこといった人間もいるんだと頭の片隅にでも入れといて下さい。
メンバーがそれぞれの得意分野を発揮できるよう
ファシリテーションをがんばろうと思って必死にやった。
おかげで演習ではいいチームができたし、
システムも「初心者チームだけど、なかなかいいじゃん!」てのができた。
でも、次第にいくら寝ても疲れがとれなくなって、
休日に何をしたいか考えられなくなって、
家に帰ると薄暗い部屋で呆然として数時間座り込むようになって、
化粧して出社することができなくなって、
周りのみんなに自分の無能さを疎まれてるような気がしてきて、
何が食べたいのかわからない(そもそも食欲がわかない)ようになって、
ちょっとしたきっかけで涙がぼろぼろ出てくるようになった。
実行はしないけど、リストカットしたい気持ちになる時もあった。
7月頭までは自分が弱くて、いくらJavaを勉強してもよくわからない
頭の悪い子だからダメなんだと思ってたけど、
性欲が全く起きない&性的なニュアンスで触れられるのに応えられないことで
もしかしたら自分ちょっと病んでるのではと気づいた。
先週から病院に行って薬を服用し始めて、ちょっと楽になりはじめた。
抗不安薬をもらうようになって、自分の眠りが浅かったことに初めて気がついた。
来週は上長に体調が悪いことをオブラートに包みつつ面談することになった。
コーディングは今もよくわからないけど、ファシリテーター・調整役としての自分は
そんなに悪くないみたいだから、そういう仕事に本配属されるといいな。
元増田です。
論点が明確なエントリーには有用な意見が沢山集まるんだなと実感しました。
これまでの意見を見て、一番の問題は本筋の定義・コントロールであると感じた。
本筋のコントロールに関しては、「本筋を自ら引き寄せる」という考えに同意。
そして、個人的にはそれを不特定多数によって行えればと思っている。
個人だけではどうしてもid:fromdusktildawn氏のようなビッグネームによる流れを断ち切ることは難しいのではないかというのが大きな理由。
必ずしも同期・同調して行われる必要は無く「はてブやダイアリーや増田での発言によって本筋のコントロールが可能である」という認識が広まればいいのではないかと思う。
不特定多数が自らの定義によって本筋を引き寄せようとするようになれば、そこから先はブクマやスターによって本筋が淘汰・選択されるのではないだろうか。
本筋の定義はそのような形で決まっていくのがいいように思う。
本筋の定義をめぐって議論が収束することは難しいだろうから。
もちろん、当事者がそれを明確にしていれば、そもそも本筋を再定義する必要は無い。
こうやって振り返ってみると、必要なことは「はてブやダイアリーや増田での発言によって本筋のコントロールが可能である」という認識を持つというだけのような気がする。
しかもここには少しも新しいアイディアは無い。当たり前のことを再認識しようというようなことだ。
でもこの認識が広まれば、皆がそれを意識するようになれば、ソーシャル・ファシリテーションは実現するんじゃないかという気がしてきた。(「皆が」というのが難しいのだけれど)
●追伸
確かに「本筋はマッチョでは?」と考えても全くおかしくはない。
「マッチョ」というあまりにキャッチーなフレーズが持ち出された結果、以降の議論は「マッチョ論」と言ったほうが全然しっくりくる。
●追々伸
もしかしたら私は、今まさに私の定義した本筋を引き寄せようとしているのかもしれないとふと思った。
収束した議論を呼び戻すことが可能かどうかはわからないけど。
>id:n-e氏
仰るとおり。追々伸自体がノイズとなっていたため、消します。
id:dankogai氏とid:repon氏を中心とした一連の流れ。
一番残念だったのはロスジェネというキーワードがいつの間にかどっかいっちゃったこと。
その時代を苦労して生きた人と著名な経営者というこれまでに無い素材が用意されていたというのに。
もったいないったらありゃしない。
もっとロスジェネというキーワードに沿った議論を聞いていたかった。
こんな形で収束した理由としては、当事者の不用意な発言とか、周囲から本筋からそれた内容のエントリー(ノイズ)が沢山出てきたせいとか、色々あるとは思う。
そしてそれを殊更に増幅しちゃったのはやっぱりはてブだったなと思ってる。
正直、id:fromdusktildawn氏の南京の件とか、品性の件とか、年収賭ける件とか、そういうのは増幅されて欲しくなかった。
結果、本筋は増幅されたノイズに完全にかき消されてしまった。本当に残念に思う。
はてブにそういった一面があるということはもちろん承知している。
ノイズを増幅するのは辞めようよなんて言っても無駄だと思ってるし、第一そういうのってやっぱり気持ちが悪い。
だからそれとは逆の方を提示してみる。
即ち「本筋を増幅しようよ」という考え方。
本筋から外れそうになったときに、はてブでそれを指摘するとか。
はてブじゃなくってダイアリーにそういったエントリーを立ててもいいと思う。
そういうファシリテーター的な役割をはてブやダイアリーが担う。
可能性としてはありだと思うんだけど、どう思う?
ITアーキテクト、コンサルタント、投資銀行ストラテジスト、アルファブロガーから成る我々MBAホルダー探検隊一行は、東南アジアはミャンマーの魔境「チョイワル」へと向かった。その魔の密林に住むという未知の生物「ライフハック」を捕獲するためである。
ライフハックの身長は15m、太古に生息した恐竜を思わせる、武器にもなる長い尾「ロングテール」を持ち、モテる男の恋愛術を使いこなす、現地ではまさに「エバンジェリスト」と恐れられているのだ。
我々一行は、紛争地域モヒカンの真ん中をコンティンジェンシー・プランを施した男の隠れ家であるハマーH3で進んだ。クルマから降りればたちまち反体制勢力ネットイナゴの攻撃を受け、炎上させられる。
やがて道が途絶えたところで我々はハマーを止め、そこから徒歩でチョイワルに向かうこととした。何かがブロゴスフィアの密林の中から常に我々を監視している、そういう気配がした…そのとき!何者かが我々に突如毒矢を放ち、アラートを上げながら我々を制止したのだ。
それは、成功するイメージを身にまとった未開の自由人アーリーアダプターだった。
アーリーアダプターは、デキる男の武器を手に手に我々を威嚇していた。我々は現地ガイドをアサインした上で、なんとかネゴシエーションを試みた。
現地ガイドの説得によって誤解が解けた我々は、彼らの村にインビテーションされることとなった。
そこでは今まさに彼らは戦略会議の真っ最中であった。我々もその席に参加した。この席でアグリーメントが結ばれ、やがてWin-Winの関係に至るとファシリテーションに夢中の長老CTOは語った。
我々は、長老にチョイワルとライフハックについて聞いてみた。長老によると、チョイワルはこの村から一つ山を越えた先にあるという。しかも、長老はチョイワルで仲間と週末フットサルの最中にライフハックを目撃したと言うではないか。
しかしながら、長老はこれ以上語りたがらなかった。それが長老の他に対する差別化戦略2.0なのだろうか。いずれにしても、我々は礼を述べ眠りにつくことにした。
「明日はいよいよチョイワルだ。それじゃあみんな、タイムマネジメントはしっかりな」twitterにメッセージが流れた。
翌朝、我々は日の出とともに目を覚ましてすぐ、チョイワルへ向かう準備を開始した。
チョイワルは、特殊な地形と強力なシナジー効果のため、方位磁石はおろかNAVITIMEすら効かない。さらに危険な動植物が我々の行く手を阻む。まさに文字通りのクリティカル・パスなのだ。我々はメンズエステを施すのみならず、男の戦闘服であるスーツを装着した上で、念には念を入れた。
ちょうどそのころ、アーリーアダプターの集落では、GTDメソッドに話の花を咲かせながら男の手料理による朝食の準備を始めていた。我々も朝食に呼ばれ、村の中心部にある男の隠れ家的ワインセラーにお忍びで集合した。
彼らの主食はユビキタスと呼ばれ、家庭のみならず収穫や狩猟の場でも食べられるという、まさにCGM社会に生きる我々にとってはうってつけの食べ物であった。
朝食後、長老が我々の成功を願い祈祷を捧げてくれると言うではないか。長老は奇声を上げ、コーチングのポーズを取りながら呪文を唱えた。
「迷わず行けよ、行けば分かるさ!ダーー!!」
長老によると、この呪文は男の美学をアップさせ、誰にも真似出来ない自分を演出させてくれるという。万全を期した我々一行は、村人に丁重に礼を述べ、チョイワルへ向かうため村を出た。
険しい山道とジャングルを進み続けること数時間、それらしき場所に到達した。そう、若い男性に人気の萌えショップが立ち並ぶ、この新レイヤーが魔境チョイワルである。我々は恐怖と興奮のあまり少年の心が甦るのを感じた…まさにそのときである!隊員のコンサルタントが怒号のような悲鳴を上げたのだ。
「ぐああああぁっ!!ロジカルシンキングがなっとらん!!」
なんと、獰猛ながら本格派の粋Z(ジー)に会議で刺されたと言うではないか。すぐさま我々に同行していたITアーキテクトがトラブルシューティングを開始した。アーキテクト曰く、この場で引き返すか、複数のサービスをインプリメントしたマッシュアップによるソリューションの提案しか方法は無いと言う。
我々はマッシュアップを選択するというディシジョンメーキングを行い、隊員のアントレプレナーシップが回復するのを待つため、ここでブートキャンプを設営することにした。スキルに秀でた隊員達は、手際よく必要なコモディティを配置、行きつけのジムと同じ設備をアレンジメントすることに成功した。そして、負傷した隊員をリラグゼーション・スペースに運び、ここで治療を続けることにした。
と同時に我々は、ライフハックを捕獲すべくキャンプの近くにdel.icio.usアカウントを設置、繁殖期でフォークソノミー体質のライフハックをアルファギークに大人気のソーシャルメディアで誘い出すという作戦だ。
それとは別に、夜間撮影対策を施したXactiを数台設置。捕獲できなくても、せめてその姿を夢を諦めないことの証明のために撮った上で、FlickrとYouTubeでシェアしたいとの思いである。
やがて夜を迎え、隊長は危険な生物が我々を襲わないよう見張り役にシフト勤務を伝えた。
次の朝、我々はdel.icio.usアカウントがなくなっているのに気づいた。ついにライフハックが現れたのか?「すごいディールだ!」隊員達は全てのソーシャルメディアを確認した。しかし、del.icio.usアカウントがスプーフィングされただけで、ライフハックの姿はどこにもなかった。ビデオに映っているかもしれない。我々はビデオをすぐさま再生。もちろん、行きつけのジムで。しかしながら、ビデオに映っていたのは、いかにもニートで喪男風な野生の貧相なキツネだけだった。
とはいえ、負傷者が出てしまった以上、ここに長居をすることはできない。我々はプライベートは大切にしたい自分を悔やみつつも、チョイワルを後にした。
この魔境に絶対ライフハックは存在する。今も、ライフハックの、そんな彼の普段の顔は勝ち組風でパートナーの気を引いているのだから…。我々がアウトローである以上、会社の歯車にはならないぜと、隊員達は各々胸にポジティブな思いを秘めながらジャングルを眺めていた。
http://anond.hatelabo.jp/20070818135658
http://anond.hatelabo.jp/20070818141853
旧来型の貧乏
・自分が住んでいる地域とか、血縁とか、性別なんかで貧乏かどうかが決まっちゃう貧乏。
生まれたときから親兄弟親戚近所一同皆負けてます、みたいなもの。
部落とか、母子家庭とか、田舎に住んでいるかとか。生来的なもので決まっちゃう。
あとインフラ格差の解消とか。下水道ありません、とか、電車通ってません、近所に病院ありません、とか。
その解決の道具がお金(土木系公共事業・ばら撒き行政)と教育。
田舎や貧乏人の子供は家の手伝いで小学校までしか行かせてもらえなかった分、就ける職業も限られてた。そのために夜間中学なんてあったし。女が学問するなんて!って驚かれた時代。
でも、昔は学歴小学校卒非モテニートでも親の家業や農業を継げばよかったし、自分の家のクラスや住んでいる地域に合わせて勝手に決められた見合いで結婚できた。後天的なコミュニケーション能力不足なんて関係ない。とにかく家の面子を守ることと嫁という労働者が欲しいということ。離婚なんてタブー。嫁が子供が産めないという理由で離縁されることはあった。そこに職業選択の自由と結婚の自由はないけど。
それと長男は親との同居が当たり前。女は姑と同居が当たり前。介護に嫌気が差して座敷老人なんて問題もあった。
『ALWAYS三丁目の夕日』みたいな貧乏があっても皆幸せだったのは、『皆いっしょ』に貧乏で皆一緒に豊かになろうとがんばっていたから。
新しい貧乏
・『中流家庭』に育ったはずなのに、ある日突然貧乏。またはいつのまにか貧乏。
生まれたときは一応中流(中の上、中の中、中の下)だったけど、いつの間にか自分ひとり負けてましたもう這い上がれません、みたいなもの。
雇用の流動化、核家族化、少子高齢化、消費社会化による行き過ぎた個人主義、グローバリゼーションと自己責任。
ばら撒きしようにも、今の家族の単位が小さくなりすぎた結果(中年独身男女も含む)、ばら撒く家族が増えてしまったことと、独居老人が多すぎることで、ばら撒けるお金に限界が見えた。
だから、国に頼る前にもっと皆繋がってください、支えあってください、自分の人生自己責任でということになる。
繋がれないと、老人孤独死。中年はへたすりゃ自殺。自殺率最悪。職のコネがないローン抱えた中年の親父が自殺。息子勉強して大学行ってサラリーマンになっても、同じサラリーマンの親自殺。自分の職業、労働単価の安い海外に外注で自分の職がなくなっちゃうかも。自分の職がいつ職業ごとなくなるかわからない。学問よりもコミュ能力。英語だのファシリテーションだのコーチングだの。
ニートの親はサラリーマン。自分が継げる先代から脈々と続く家業なんてない。地域社会の商店は大型ショッピングモールが出来てからボロボロ。工場は単価の安い中国に出ちゃった。農業は、海外から輸入作物の価格に影響されて、国内農作物の価格が安くなりすぎるもんで、補助金に頼らないと生活できない。でも国は地方にばら撒ける金もうないよ。
それと、昔は正社員の職しかなかったけど、今は契約社員とか、派遣とか、バイトとか、いつ首切られて孤立するかわからない立場の職ばっか。フリータになりやすい。雇用が流動化して職場すぐ変るから人間関係も不安定。山谷とか釜が崎とかに集っていた日雇い労働者も高齢化。若い日雇い労働者はネカフェの個室に一人きり。
こういうときに必要なのは、お金ばら撒きや職業教育よりも、人とのゆるい繋がり(コネ)と根拠なき自信。一旦繋がりが切れると対人関係の自信もなくなって二度と繋がれない。皆問題抱えためんどくさい他人と付き合いたくない。昔は地縁や血縁で面倒くさくても嫌々人と繋がってたけど。それで、格差っていうのは世間にある幸せコミュニティには自分は二度と入れないんだっていう絶望みたいなもの。ちがう?うーん、どうなろう?
http://www.mhlw.go.jp/houdou/2007/06/h0628-1a.html
で、家族っていうのは相互扶助社会の最小単位。昔は伝統や世間体を理由にして嫌でも家族と付き合う、っていう前提があった(その代わり家族の中でどんなドロドロが起こっているかわからない。嫁姑問題とか親から子への体罰とか当たり前。貧乏な家の子供は小さな大人であり労働力なので、ひっぱたいてでも働かせる。中流以上の家庭の子供は、親の面子そのものであり大事な家を支える跡取りだから、親の敷いたレールからちょっとでも外れたら親とドロドロの喧嘩)。
そういう前提が日本が消費社会化するにつれて変った。まず、日本の住宅に団地というものが登場して、核家族が爆発的に増えた。核家族っていうのは1970年代のアメリカンホームドラマを模倣したもの。家電製品に囲まれた消費社会的な家族の始まり。そこから消費社会的な自由が進行して、お父さん仕事とオタク趣味、お母さんも仕事と女友達とお買い物、子供はモバゲーで皆バラバラな家族の出来上がり。一人に一台携帯電話持ってるから話したい人と話せる一方で、話したくない人とは絶対に話さないということも出来る。最近の家族はLDKの持ち家やマンションに一人一室の個室を割り振られて住んでるし。昔ながらの障子や襖で仕切られているだけのプライバシーの無い部屋なんてありえない。だから皆付き合いたくない人とは絶対に付き合わない。付き合っても嫌なものは見ない。というか無関心。でも、おばあちゃん、おじいちゃんはどこ行った?親に事情のある子供だって、昔は親戚に養子に出されたのに今は施設直行。
そんな人付き合いの伝統や義務が無くなって人間関係が流動化した時代に、一旦自信の無さの塊になって、人付き合いに自信がなくなるとあっという間に孤立。行政はお金が無く、制度は家族の相互扶助の前提を崩そうとしないのに、「家族が嫌いでも、それでもやっぱり家族なのだから支えあうのは当たり前」という大義名分を主張することが、消費社会的な自由を阻害しているということを皆直感的にわかっているから中々主張できない。そして地縁、血縁、義理や情などで、面倒くさいんだけど義務的に構ってくれる人はどんどん少なくなり、他人の無関心に囲まれて消えるように自殺する。
これから日本人は、縁に縛られて毎日同じ他人といがみ合う苦しみと、生まれたときから将来が見えてしまっている不条理と共に生きることを選ぶのか。それとも、縁から自由になりすぎて高速で自分の前を通り過ぎる周りに無関心になるむなしさと、不安定な将来への漠然とした不安と共に生きることを選ぶのか。今の時代はそれらの選択の分岐点なのか、それとも折衷の機会なのか。国が行うシスティマティックなばら撒き福祉が大事なのは当たり前。けれどもそれだけじゃなくて、自分が嫌いな人や嫌いな世代に対しても、関心を持って扶助しあうような相互扶助社会も必要なはずなのにね。皆自分のことだけを大事にして生きてきたわけでは必ずしもなく、お互いに面倒くさいことを求めない、嫌なことはしなくていい、貴方は自由に生きていい、という優しさと気遣いを持って生きてきただけなのに。
だから格差社会っていうのは、世代間や地縁血縁の相互扶助と承認が機能しなくなった、今の核家族・孤立家族といった家族社会の拡大版だと思う。
例えば道徳教育においては「罪を憎んで人を憎まず」って習いますよね。
社会に出てからだって、失敗の原因を追究するときや、ふりかえりとかケプトするときだって、人を責めないってのがグラウンドルールだったりしますよね。これだって「罪を憎んで人を憎まず」ですよね。
ところがマスコミの報道って、思いっきり当事者への憎悪を煽る演出をしてきますよね。
ワイドショー的な番組ならわかりますけど、全部がそうなってきているように思うんですよ。
右寄りの局も左寄りの局も、お互いにその攻撃対象を“憎んで”いて、それを剥き出しにしているみたい。
悲劇的な事件が起これば当事者をこれでもかと言うほど憎み罵倒していますよね。
そういうネガティブな感情を押し付けてくるような感じがそのまま違和感になっているように思うんですよ。
ファシリテーション的にもあり得ない、やっちゃいけないとされていることを、思いっきりテレビでやっちゃってる。
昔(と言ってもそんなに昔のことは知らないけど)は、どちらかと言うと世間は比較的無知で無邪気で感情的で、マスコミがそれを諌める、みたいなところがあったのかもしれない。
でも今は、世間は知識を得て比較的冷静さを持つようになって、それゆえにマスコミが世間の激情を駆り立てようとやっきになっているみたい。
でもそれって破滅的な方向ですよね。
イエロージャーナリズムって言うんですか?
そういうの良くわからないんですけど、それがエスカレートしちゃってるんでしょうか。
そこまでマスコミは冷静さを失っちゃってるんですか?
それとも本当はマスコミがそれをしているんじゃなくって影の黒幕がいるんでしょうか。
本当にそんな単純な話なのかな。
散々既出な話題な上に結論はおろか言いたいことは何?って感じで申し訳ないです。けど、
何かが起ころうとしているんじゃないか?
誰かが何かをしようとしているんじゃないか?
っていう漠然とした思いがなんか引っかかってくるんですよ。