はてなキーワード: 混沌とは
色々妄想したのでかいとく
実は盗聴機付きで先生達が厳重に監視しているのだ。それに気づいたギークたちがハックして混沌をきわめていく・・・
全国的にはやりほとんどの学校で導入される、おまえドコ中だ的なものがなくなり、「あ、あのバッチは○○中やつらだやべぇみたいになる。
各校一個の特別バッチが番長用に作られ市内、県内、全国と争奪バトルロイヤルが勃発する。
「俺は全部賭ける」、「ば、ばかなバッチがゼロになると言うことはいじめられしゃ隔離別室行きだぞ!」
「おまえの持っているバッチは2個、俺の4個にはつりあわないなぁ」「ふふ、俺はさらに命を賭ける」ドン☆
みたいになる
「××××」この能力は無敵だ
「××××!!(洋楽的なものや暗黒・炎・闇・氷などが入った造語が好ましい)」「ぐばしゃー、その能力は○○君の!貴様もしやぁ」
そうそう。
物事や言動を評して、論理的であれば理系、感情的であれば文系、と、直観的に分けつつも、話題が理系文系に移ると、理工学と文学を評し、さらに、それと先の評価や直観的評価との矛盾を抱えたまま評し、単なる偏りを二分的両極端的に評し……と、どんどんズレてくる。
理学文学っていっても、結局語っているのは、論理というか、理性と感情のどちらをより重視するか、しがちなのか、と言うことだったりする。
なので、それぞれ理性主義、感情主義と脳内変換することにしている。
○学でいうと、理学は自然相手で理性重視だし、文学は人が関わるので感情重視だし、工学は人が扱う事も含みがちなので理から若干文より、農学は工に似るんだけれど生き物を扱うと更に文より、そして食べ物とかは更に文より、法学は人相手なので文的だけれどもそれよりは理的、医歯薬学も人相手なので文的な部分がありつつも今や理的、そして音楽は文よりもさらに感情重視で数学は理より理性へ向かったら文側に出てきた感じ。
・キーワード検索のやり方も知らず、リンクアンカーで彷徨った末に胡散臭い情報商材に引っかかる初心者。
・自サイトのスペースをドット単位で販売して100万ドルを手に入れた男。
・スネオの髪型を洒落でニセ立体化してみたらニュースに載るほどの騒ぎに。
・その人を個人情報保護なんて糞喰らえな勢いで「祭る」匿名の人たち。
・例え裁判所から命令されてもお金を出す気は全くないどっかの管理人さん。
・ウイルスを作ってもそれを罰する規則が存在しないので別件逮捕。
・リミックスされまくって、もはや元ネタの追跡すら難しいMAD動画。
・無断リンク禁止サイトに押しかけて正義を気取るモヒカンさん。
・新しいwebサービスには恐ろしいスピードで飛びつくが、意外と普通の人がよく使うページを知らなかったりするGeekたち。
これらの全てを許容する、今のこのWorld Wide Webが大好きだ。
多様性の結果として混沌と大量のゴミが生まれたとしても、その中から進化が1個でも生まれればそれは進化としては正しい。
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技術屋ができるのはあくまで情報の生成から整理までであって、管理はできない気がする。
Googleがやっているのは整理。ティム・バーナーズ・リーがやろうとしたのは管理に近い。(ただし強制力はない。webの情報に機械的意味を持たせて整理しようとしたXHTML(XML)規格は、BlogをはじめとしたCMSのおかげである程度普及したが、Webを席巻する程には至らなかった)
※しかも、Geekから見ると整理されているように見えるものでも、同じものが初心者からは複雑怪奇(というか超難解)に見えたりもするので、事態がますますややこしくなっているように見える。
>無意味な混沌である現実に耐えつつ、自らが現実の新しい意味であろうとする真に自由にして批判的な精神へと昇華していかないのかと
諸君、私は小島よしおが嫌いである。
放送コードギリギリの挙動不審さで蠢く彼を見ていると、その無駄についてる筋肉を本物の熱湯で湯通しして、丁寧にむしり取ってどこぞの犬にでもあげたい衝動にかられる。
しかしながら、そんな私の思いとは別に、テレビで彼を見ない日はなく、「そんなの関係ねぇ」はついに流行語大賞を受賞してしまった。
世を構成する様々な「関係=リレーションシップ」を一刀両断で全否定するこの言葉は、一見切れ味が鋭く心地よい錯覚を覚えるものであるが、
その反面「神は死んだ」と高らかにニヒリズムを宣言することで19世紀という繁栄と安定の時代の終焉の到来を告げたニーチェの混乱を、
この21世紀に繰返す恐れのあるものである。
私は、この言葉の蔓延がもたらす未曾有のカタルシスに恐怖を覚え、小島本人への接触を試みた。
私「どうも。」
小島「ういー。」
私「彼方は、物事と物事の間の関係をことごとく否定して回っています。」
小「そんなの関係ねぇ。」
私「よろしい。例えば彼方が履いているその海パンですが、その海パンのメーカーとあなたに関係があるのは流石に認めるところでしょう。」
小「そんなの関係ねぇ。」
私「その海パンメーカーには沢山の人が働いていて、糸一本紡ぐのに石油の精製から海パンへの縫製まで、数多の人が関わり、
そして誰かが店舗に運んで、誰かが店舗に陳列したものを彼方が手にとって履いてる訳です。」
小「そんなの関係ねぇ」
私「私は、寧ろこの世の全ての物事には何らかの関係があるのではないか、とすら思っています。」
小「そんなの関係ねぇ。」
私「そして、其れが関係のないものと思えるのなら、そう思うほうが無知なのだととも。」
小「はい、おっぱっぴー。」
私「その『おっぱっぴー』ですら、私は彼方と何らかの関係がある言葉だと思っているのです。
例えば、何故『おっぱっぺー』ではなかったのか、『おっぱっぷー』ではいけないのか。
もっとも、彼方は此れを「オーシャン・パシフィック・ピース」の略だ、としています。
小「はい、おっぱっぴー。(白目を剥きながら)」
私「此れが英語として完全に間違いだということは今更指摘をすることもないと思うのですが、
小「はい、おっぱっぴー。」
私「私は残念でならない。何故、其処で『おっぱい』だと云わないのか、と。
森羅万象を『そんなの関係ねぇ』と言い切るのであれば、何故其れを無意味な混沌である現実に耐えつつ、
自らが現実の新しい意味であろうとする真に自由にして批判的な精神へと昇華していかないのかと。」
小「うぇーい」
私「うぇーい」
と云うことで、小島本人との接触を試みたが全く接点を持たないまま物別れに終わってしまった。
結局、関係という糸で繋いだ服は、裸の王様には見えないのであろう。
私は「イ」の字になって踊り狂う小島を残し、静かに冬の街を後にした。
ミニブログがとうとう産声をあげ始めた今のこの状況を見て、インターネットの創始者は「これこそインターネットだ!」と言うに違いない。今までのインターネットは、どこか現実と離れすぎていたからだ。
匿名で情報を発信できる構造を作れるが故に、接続している人間全員が平等に情報を受信できるが故に、ネットに存在できる情報が多様であるが故に、あたかも別の世界を形成しそこには“様々な情報と文化が無秩序に飛び交う混沌とした秩序”があった。
これは現実とは違う。情報の仕入先にこそ目は現実に向けられているが、一部の愛好家っぽい人でしか接点を持っておらずインターネットの中でのスタイルは本来互換性を持っているべきである現実とはほとんど剥離していた。
しかし今は違う。PCや携帯電話を『ブラックボックス』『魔法の箱』『ボタンがいっぱいついてる玩具』と見なす機械音痴の方が少数派になってきている。どの様に動くか、その超高速の演算能力をどの様に使うかを理解し、現実と結びつけて有効活用する人が増えた。
もう勘の良い人は分かっているかもしれない。インターネットは高性能なコンピューターと大規模なネットワークだけでは役に立たない、現実と結びつける力を持った人間が居て始めて威力を発揮するのだと言う事を。
http://anond.hatelabo.jp/20071012045754
だが、優秀なハスラーである君には自分の撃った玉の影響で盤上の玉がどのように変化するか正確に思い描くことができるだろう。
しかし現実はそうではない。
我々は盲いているのだ。盤上を知るためには玉をつくしかない。
玉をついた結果、何に触れることもなく反対側に玉が届いたらそこに玉がなかったということを君は知ることができる。
しかし、観測は常に影響を与える。
観測者である君がそこに玉があるということを知った場合、既にそこに玉はない。
混沌とした盤上で、観測した結果どのように状態が変わったかということ知ることは不可能だ。十分な情報が不足している故に。
このような状況では盤上の状況を確率でしか語ることができなくなる。
また、盤上にある玉が静止しているのか、はたまた気紛れに飛び回っているのか推測するのすら困難になる。
私は決定論を否定しない。
だが、我々が決定論に必要な正確な初期値を手に入れることは決してない。
なぜなら、我々もまた盤上の存在なのだから。
偏見のある標準語圏の人間には危険な街であることに間違いないので「恐怖と混沌」は別に間違いではない。現地人は普通に暮らしているが『冷やかし半分のお高くとまった観光客には危険』な街は世界中にあることだし。
→ 全員「心の中にお笑い芸人を飼っている」が正解。あと「理想の人格」はお笑い芸人。
2.会話は全て漫才
→会話は全て漫才「の考え方をベースにしている」が正解。「ボケ/ツッコミ」はコミュニケーションモデルであり哲学である。
3.「なんでやねん」が口ぐせ
→「なんでやねん」を口癖にするには「覚悟が伴う」が正解。ツッコミとして生きるには高いコミュニケーション能力や幅広い視野、高潔な人格が必要であり、何より自己犠牲の精神が求められる。
4.よしもとは大阪で人気のお笑い(TVが祭り上げたから調子に乗ってるだけ)
→大阪では「お笑い」が人気なのであって、「よしもとはその一つに過ぎない」が俺も正解だと思う。
5.ガラが悪い
→標準語圏の人間には「ガラの良い」関西弁と「ガラの悪い」関西弁の区別がつかないので、意味がない。他者との距離や乗車マナーのことを言っているとすれば、それは「ところ変わればマナーも変わる」としか言いようがない。
6.お金にがめつい(あくどく稼いできれいに使うのは美学(例:中央公会堂))
→「宵越しの銭を持たない」東京の方が、普通に考えてグローバルスタンダードではない。
7.おばちゃんパワーは絶大(どこも大体同じ)
→5.と併せて、俺も誤解だと思う。
8.具をぐちゃぐちゃに混ぜて焼くのが大阪風お好み焼き(それは大阪のお店で売っているお好み焼きのこと。一般家庭のそれとは違う。)
→大阪の「安い」店はそうかもしれないが、お好み焼きの標準を論議し出すと長いので省略。だが、お好み焼きは別に関西のソウルフードというわけではないと思う。どちらかと言えばたこ焼きがそう。
9.恐怖と混沌のはびこる町、大阪(東京だって危ない通りの一つや二つはあるんじゃないか?)
→偏見のある標準語圏の人間には危険な街であることに間違いないので「恐怖と混沌」は別に間違いではない。現地人は普通に暮らしているが『冷やかし半分のお高くとまった観光客には危険』な街は世界中にあることだし。
http://anond.hatelabo.jp/20070904095818
最後に10個目を追加
→関西人は「東京人は巨人ファンだ」と思っているのでお互い様。個人的には関西人は阪神ファンに対して社会的に許容度が高いだけだと思う。たとえば、上司が「私はオリックスファンでね」と言ったとしても「仕事場で趣味の話すんな親父」という空気になるのがオチだが、「私は阪神ファンだ」と言ったとしたら、何か急に上司が親しみやすい人格の持ち主であるかのようにみなされ「じゃあ今度みんなで甲子園行きましょっか!」という空気になる(その場合別に課員が阪神ファンであるとは限らない)というような。
http://anond.hatelabo.jp/20070904095818
1はさすがに違うと思ってた(お笑い芸人比率5割ぐらい?w)けど、他はほとんどそう思ってた。いや、8については知らないっていうか気にしたことなかったけどね。
2. 会話は全て漫才
3. 「なんでやねん」が口ぐせ
4. よしもとは大阪で人気のお笑い(TVが祭り上げたから調子に乗ってるだけ)
5. ガラが悪い
6. お金にがめつい(あくどく稼いできれいに使うのは美学(例:中央公会堂))
7. おばちゃんパワーは絶大(どこも大体同じ)
8. 具をぐちゃぐちゃに混ぜて焼くのが大阪風お好み焼き(それは大阪のお店で売っているお好み焼きのこと。一般家庭のそれとは違う。)
とは書いてみたものの、ほとんどが昔話か妄言になってしまうのかなあ。今となっては関西人ですら関西のことを知らない可能性が高い。関東のマスコミが全国ネットで映し出す関西の姿に慣らされてしまっているから。
風呂掃除しながらふと思ったんだけど、「正義」ってなんだろう?
例えばアメリカはテロを「悪」として、その阻止を「正義」としてイラクに進行したけど、
今の状況は最初の「正義」と同じなのかな?
日本のメディアの情報は偏っているから、本当のことはわからないけど、
テロ以前の状況では正義も悪も無くて、互いに宗教の違いから争いをしていたと思う。
だから今のように無差別なテロは少なくて、特定の教派とか、思想を持つ人たち同士で争っていたと思う。
だけど今は新政府が「正義」、テロリストが「悪」みたいな構図だから、
新政府の傘下にいる「民衆」が標的にされている。
アメリカが作った構図だから、アメリカ自身の手でそれを壊すことは無いと思う、
壊したら今度は「アメリカ」が標的になるから。
だからいつまでたっても「民衆」は狙われ続ける。
誰かの受け売りだけど、
『誰かが「正義」を押し付けることで「悪」が生まれるのならば、それは「悪」ではなく「違う正義」である』
きっと自国の「平和」のためなんだろうな。
難しいけど、理想の「平和」って
誰かの「正義」による平和ではなく、混沌とした世界にある平和だと思う。
それはまるで一時の雨のようなものかもしれないけど、
それが続けばいいなってみんなが願えば、きっと世界は変わる気がする。
世界は混沌としてる。
いや、混沌とすべきである、
この風呂場のように。
ちなみにオレは22だから、もっと年齢の高い人達がどうなのかはあまりわからない。
だけど若い人達はそんな、日本史の江戸とか明治とかの時代で習うような歴史にはこだわってない。
正直あまり政治には詳しくないから素人考えだけど、個人的には独立出来たら楽しそう。ますます混沌とした街になっていきそう。
でも実際やったら生活水準はガクンと下がると思うから、その点では嫌だ。そしておそらくこっちが多数派だ。
実際沖縄の最低時給は608円だよ?これでも上がってんだよ?
基地の存在が、外交とは無関係の沖縄の地理的条件によるものになったら、それはもはやアメリカによる侵略じゃないの?
いや、分からないんだけどさ。
http://anond.hatelabo.jp/20070623070558
これは現代的な「やおい」文化によって明示化され、少女向け漫画に逆照射されている恋愛ドラマの一手法。
セックスは子どもの生産を意味し、それは恋愛の到達点と同時に、最もドラマが豊富な「恋愛」の時代を打ち切る術。
男女の物語でセックスを描くことは、生産の可能性を匂わせ、「恋愛」物語の終焉を嗅ぎ取らせる。
こうした「脱恋愛」の物語可能性に敏感なまでの不快感を示したのが腐女子と呼ばれる「やおい」の消費者(もしくは生産者)である。
男と男の性行為には、まったく生産の香りがない。むしろ、永続的な「恋愛」物語を約束してくれる。結婚という記号によって裏切られない。
終わりなき「恋愛」こそ、彼女らの求めるもの。「やおい」は恋愛至上主義の彼女らに、楽園を想像させるのである。
『のだめカンタービレ』は、そういう意味で男と女の恋愛にセックスを持ち込まない。
それは「恋愛」という中途半端で完結することのない物語の求心力を作者が知っているからだ。
「この物語にはセックスがない」という約束事を読者に嗅ぎ取らせた時点で、この作品の成功は保証された。
「やおい」への展開を認めた恋愛永久回路の手法は、男と女の恋愛物語を受容させる土台として、いま再びスポットが当てられているといえる。
<追記>
以上は、セックスが恋愛の終着点として認知されていない、現代の混沌とした恋愛感覚へ一石を投じる行為と言えないだろうか。
ノスタルジックというわけじゃないが、セックスが恋愛の一過程として当たり前のように描かれ、始まりと終わりの境界線が失われた昨今の恋愛物語の形態(それは双方向的に現代人の性行為観と関わるのだけれど)を批判し、恋愛物語の本来あるべき物語性を示唆しているのかも知れない。
<再追記>
暗黒界より来たりし王子は、光の中より一筋の牙を引き抜き、この世の混沌を打ち払うであろう。
太陽が沈みしとき、約七人の勇者達は月の道よりいでて、太陽の道へと帰らむ。
彼らが通りし道は花と星に彩られ、あらゆる災いをよせつけぬ。
心せよ。
風は止まり、水もにごりはじめておる。
これより十三の夜を迎えぬ内に、食糧が尽きる。
そして三の夜を迎えぬ内に、我らは死に絶えるだろう。
さすれば我らが行くべき道は一つ。
暗黒界の王子を討つ以外に無いのだ。
しかし、既に幾人もの猛者達が西方へと向かったが、未だに吉報が届かぬ。
そこで汝には西方へ向かい、事の次第を偵察してもらいたい。
汝にはこの村に残された最後の秘宝、「星剣ガマラキテルーン」をたくそう。
、、、本当はもっと良いつるぎを贈りたかったのだが、
そのようなつるぎは先だって、多くの猛者に与えてしまったのでな。
これは祭儀用として、この村に唯一残った武器じゃ。
このつるぎが汝を成すべき使命へと導くことを祈ろう。
さあ行ってくれるか、勇者よ?
ところで、これは黒歴史などではないぞ。断じて違う。
華々しい栄光の記憶だ。