2024-06-27

正語は人を強くする

汚い言葉を使っていると心が汚れていく気がする。

あのどうにもならなさ、地獄への導入。修羅道等活地獄に落とされるような感覚こちらが落ちてくるのを地獄の門番が手ぐすね引いて待っている。

やるせなさや無気力が、日々の心地よさや日常の楽しみを奪っていく。他者から奪うことでしか生きられないのか。ただそこにあればいいのか、何を感じたいのか。

一度にすべてを変えようとするとうまくいかない。一度で変えようとするのは自分人生への冒涜である現在の1秒の自分よりも、現在を形作った過去の蓄積の方がずっと自分だ。

どうして自分現在自分になったのか。なってしまったのかではなく、なったのかと考えたい。なってしまった自分を愛せないときに、自分自分になってしまったのだという。

誰も否定されたくないものだ。生きてきた日々を。正語はそれを変える一歩目である煉獄絶望怨嗟に包まれ状態では容易に己の手で脱出することはできまい。

からかに助けてもらいたいものだ。天は自ら助く者を助くという。天はどこにもないように見える。だが実は、そこここに溢れている。気がついていないのかもしれない。

もしも変えたいのなら気がつかなければならない。すると光が差しまれ、すでに輝き出している。

地獄の思い出は捨ててしまってもよい。生きていくには不要ものだ。捨てるという強い意志。前に行きたいというどこからともなく現れる渇望。

それ以前の、そういう意志や渇望を得ようとする戦い。そこに身を投げようとする決意。耐えることは美徳ではない。

耐えることが美徳とは、驕り堕落した者たちの自己防衛による詭弁である。耐えさせているのが彼らだ。何よりも逆襲を恐れている彼らなど恐るるに足らずである

そしてそもそもが、これは他人との戦いなどでは決してない。

人を愛せるのか。人から愛されたいから、愛されない恐怖が身を襲う。どれだけ人にやさしくできるか、どれだけ人を愛せるか、最後希望はそこかもしれない。

結末はここではない。闘志を得て突き進む者たちを人は応援し、誰よりも愛すものだ。捨ててしまえば手放してしまえばもう心は軽い。

軽やかなわんぱくライフがそこにある。

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