今この瞬間自分が不幸でも、他人は幸福であるという事は普通にあるんだよね 当たり前っちゃ当たり前だけど。社会の幸福度というのは本当に不公平にできていて、それを諦観し始めたのが最近、36になってから
俺は保育園小中高大全部いじめにあって家でも虐待されたけど、全くいじめにあうこともなく家庭円満で普通に人生過ごして、友人に囲まれながら恋愛をして結婚して子供作ってエスカレーターに乗って出世していく人もたくさんいるわけで。
当然だけど社会の需要も後者の方が高くなる可能性がずっと高い。
実際俺の中学の友人は俺の年で上場企業の取締役だかをやってるらしい。
俺は18で悪徳経営者の下で新聞奨学生をやって大学を留年、20代でうつ病と慢性ヘルニアで人生ドロップアウト、職歴もなく、もう肉体労働もやれない。
今はフリーターやりながらコツコツ貯めた貯金を投資に回して細々と食ってるただの無職。
カネが尽きたら終わり。俺より不幸な奴はいないという事はないだろうけど、客観的に見たら俺もかなりひどい人生を送っているとは思う。
割合で言うと1000分の1位には不幸な人生を送っているとは思う、つまり俺みたいな人間は1000人に一人ってこと。
人の幸福度を100としたら、自分の幸福度は20もないと思う。今の5倍くらい幸福な人生を送ってみたいなあ、まあ無理なんだろうけど。
諦観は本質を見きわめる、悟って超然とすることを意味する。 この際、言葉通り諦めの向こうに何かを見出すことを期待する。
諦観の向こうに希望があればいいよなあ いつかは俺も恋愛も結婚もできるんだろうか まあ戦争とかにはならないでほしいね