極端な話、ノーベル平和賞受賞者に支出する補助金と、つい先日刑務所から出所した人間に支出する補助金が、同じ基準で監査できるわけがない。
信頼の厚い人の監査にいちいち時間をかけていたら、本来できていたはずの仕事量の10分の1も出来なくなるだろう。
信頼の薄い人の監査を甘くしてしまうと、不正のやりたい放題になるだろう。
「差別するな」と言う人もいるかもしれないが、実態として現代社会はそういう風に回っている。
過去に沢山実績を持っていて、信頼の厚い人ほど、監査の基準はどんどん甘くなるし、そうなるべきだ。そうでなければ社会は回らない。
はっきり言ってしまえば、信頼ある実績のある人なら、多少の形式的な「不正」なんて見逃してもいいんだよ。悪意のあるものでなければ。人間を相手にする社会貢献活動なんて、事前の計画なんてほとんど無意味。必要な備品やサービスなんて当日の流れでいくらでも変わるだろうし、それをいちいち記録するのも現実的ではない。
ただ、そういう些細な「不正」とやらを糾弾される時というのは、「悪意のある嫌がらせを受けているのだ」という話にするのではなく、市民に対して積み上げてきた信頼が崩れかかっているのだと理解して、今こそ謙虚に真面目に誠実に対応すべきだと思うんだよね。
ずっと一緒に協力してきた同僚は違うかもしれないけど、外部からなんとなくいい印象を持っていたくらいの人々からすると、「大丈夫なの?」と心配になるのは当然のこと。それにどう答えるのか?という話。
やましいことは何もしていないのかもしれないけど、少なくとも報告が甘かったのは事実で、それは善意によって見逃してもらっていたこと。これまで沢山の人々の善意によって支えられていたということ。今はその善意による優遇に対して感謝すべき時で、「やましいことの一切ない私は優遇を受けられて当然」と考えているように見える態度を取り続けていると、これまで支えてきた人々からも見捨てられることになるかもしれないよ。