親愛なる君に。
自分が実行する場合の方法を考えたこともあったし、誰かに手を下してほしいと思っていたこともあった。
私は驚かなかった。「ああ、そうか。」と感じた。
彼が犯してきた罪は、その命を持ってしても贖いきれないと私は信じている。その音は、彼に殺された者たちの声なき声の響きだったに違いない。
彼は人間を人間たらしめるかけがえのない心のはたらきを雑草か何かのように踏み躙り歩んでいた。それで彼はまるで輝いていた。私たちは彼のようであるべきで、彼のようであって良いのだと思い始めていた。それは確かに、なにか呪詛のようなものではなく、いわば脱色された暴力によって木っ端微塵にされるに相応しい在り方に違いなかったのだろう。私は自分が安堵していることに気づいた。
しかし見聞する限りの世の中の反応は趣を事にしていた。曰く暴力は許されないと。
勿論それは、私達は私達がもつ、もう一つの人間性、即ち自らのもつ暴力性については全く知らぬ事にしなければその社会に所属して生きて行かれなくなる故の建前である。暴力に同意する言葉を吐いた情報が拡散した瞬間炎上し、見える範囲からは丁寧に除去されるだろう。実行すれば血祭り、現代の仕組みとしては死刑に処せられる様になっている。それを私は承知しているつもりだった。けれど状況を前にしてはやはり戸惑った。私達はこんなにも取り繕わなければならないものなのだ。
私達は、内なる暴力を正当化する仕組みこそ多数決であり、選挙とはまさに具体的な暴力装置を手中に収めるための闘争であることを、その渦中にあってまるで自覚することが無くなっている。
物理的な暴力でさえ無ければ、それは暴力では無いと認識されている。しかし他者に対したときに立ち現れる欲のうち、その片方の根本は一つであることを、十分に知覚しておく必要がある。
彼らの掲げる民主主義とは数の暴力でしかなく、その自由とはそれを恣にして良いのだという意味でしかなかった。
数の暴力が恣にされ、ある人、ある人たちの尊厳が脅かされるとき、私達はたとえ強者の側にいても、無論無差別にでなく、明確な目標を持って、的確に、闘わざるを得ない。