リバタリアニズムは、富もうとすることを否定しないが、同時に本来のリベラリズムでもあるので、多様な生き方を許容する。
資本によって恣意的なコントロールをされることを防ぐ仕組みをどこよりも真剣に考えているのが、リバタリアニズムだ。
愚者が愚者のままでいることをも許容するが、それは全体からすればレアケースであって、基本的には他者に操られず賢く生きることを丁寧にサジェストしていくイメージだ。
人間の裁量ではなく、パターナリズムにも頼らず、スマートなルールによって自由かつ健全な社会が保たれる仕組みを探求するのがリバタリアニズム。
抑制的なポピュリズムによって秩序を成そうとする共産主義の真逆のアプローチでありがなら、経済的にも社会的にも弱者に優しく・そもそも弱者が生まれないようにという優しさは共通している。
ライトウィングとレフトウィングは経済的自由と社会的自由、片方は認めるがもう片方は認めない思想なので、認めない側にいるものへの冷酷さがある。
リバタリアンに抱かれがちな冷酷さというのは、統治側の人間基準による裁量や温情措置、融通といった不安定で不明瞭、不平等な構造にNOを突きつけ、洗練されたルールによる脱・人間依存のシステムを目指す部分に由来するものだろう。
資本主義的な格差由来の冷酷イメージというのは、ルールが成熟していないことによるもので、これをなんとかしたいのはリバタリアン共通の意識だ。