2019-06-20

感謝されたくない

感謝されたくない。

ぼくが何かをやるのは誰かのためじゃない。ぼくが勝手にそれをやっただけだ。

その結果が好ましいものだったとしてもぼくのせいだとは思わないでほしい。

からぼくはなるべく自分がそれをやったと気付かれたくはない。

喜ぶなら勝手に喜んでくれ。

他人が喜んでいるのはぼくにとっても喜ばしい。

喜んでいるうちは怒られないで済むのだから

感謝されるたびにまた余計なことをやってしまったと思う。

相手感謝ポーズをさせてしまったと思うからだ。

一般的感謝されるべき行為をぼくがしてしまったせいで、

本当は嬉しくもなんともないのに、形だけでも感謝している振りをしなくてはいけなくなったのかもしれない。

あるいはもっと直接的に「余計なことをしやがって」という皮肉なのかもしれない。

あるいは「感謝してやったんだ、またやってくれるよな」という脅迫めいたメッセージなのかもしれない。

わかってはいるのだ。向こうの問題ではなくてこちら側の問題だ。社会性が欠落しているのだ。

からといってどうすることもできない。

人付き合いをすると必ず感謝される。人間はすぐ感謝する。

感謝といっても些細なことばかりだし、なんならほんとに形だけということが多いだろう。

別に感謝してもいないのにわざわざありがとうと伝えるのはそれこそ人付き合いのテクニックの一つだ。

簡単テクニックから誰でも使う。ぼくはそのたびに対価をよこせと言われているように思う。

どうしようもない。人間と関わらないことが最上対処法になる。

いくら考えてもいつも同じ結論になる。

ただしそれが実行できるかというとそうもいかない。

自給自足をするような根性はない。

金を稼がないといけない。金を使わないといけない。

そうしないと寝床食糧も分けてもらえない。

たいしたものを望んでいるわけじゃない。

たいしたものじゃなくても人間と関わらなくては何も手に入らない。

人間として生きている以上、人間擬態して苦しまないといけない。

自殺したいわけじゃない。

とはいえ、わざわざ苦しみながら生きていく理由になるような喜びは得られそうもない。

人間には人間の喜びがあるのはわかるが、どうもそこからはみ出しているように思える。

人々が楽しんでいる姿を見ても何が楽しいのか分からない。

羨ましいとは思う。

でもそれは、その行為をしているのが羨ましいのではなく、何かを楽しめること自体が羨ましい。

他の人間と一緒くたにされてそれなりに人間社会を通過してきたが、

間違って違う教室に座っているような感覚がいつまで経っても抜けない。

ぼくだけがある重要秘密を知らされていないような疎外感がある。

これが問題の根幹だと思う。

  • 謝謝

  • その疎外感は自己肯定感の低さです

  • 「お前のせい」ではなく「お前のおかげ」 感謝は悪いもんじゃないから普通に受け取れ。 そもそも、感謝はお前が相手に何かしたから言うんだぞ。 別に感謝してもいないのにわざわ...

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