僕は意識高い系と呼ばれる人たちを批判する人々が嫌いだ。なぜなら、自分に高い目標を課している人たちの揚げ足取りをする平凡な人たちが公然と批判しているのを耳にして、なぜこの人たちは恥ずかしいと思わないのだろうと思うからだ。
どうやら、意識が高く実力も素晴らしいような、思考と結果が結びついている人たちのことは「意識高い」というそうで、そうではなく実力が意識に対して伴っていない人たちのことを「意識高い系」と言うそうだ。平凡な人たちは、いわゆる「意識高い系」の人たちを蔑むことで、自分の立ち位置を安定なものにしようとしているのかもしれない。
実際、日本の学校では熱心に勉強したり読書したりする人を、ネガティブな印象で捉える風潮がある。大学受験勉強でも、「苦しい先に未来がある」だとか「この苦しさを成績に変えろ」だとか、勉強を苦しいものだと認識し、勉強を楽しいと思っている人間はどこかそれを口にして周りの人間と楽しさを共有できない感覚がある。(ただ、私立の進学校や県でトップクラスの公立進学校はおそらく違うと思う。そもそもそういう人たちはそんなことを1ミリも思わないだろう)
こういう負のイメージが意識高い系を批判する人々、さらには風潮を醸し出しているのではないかと僕は考える。むしろ意識高くない人たちが問題なのではないか?彼らは実は意識(だけ)が高くて、それを実行している人々が羨ましくて、ついいじめちゃうツンデレばかりなのか?それとも、自分の狭い世界地図を広げたいとも思わない、好奇心を失ってしまった屍なのか?
いずれにせよ、公然と意識高い系を批判する人は、せいぜい物欲を満たす程度の自分の意識の低さを間接的に晒すのが得意なプロなのだろう。そして、それを恥ずかしいとも思わない鋼のメンタルの持ち主なのだろう。僕は、結果に関係なく意識高い人たちが、その他大勢の凡人に揚げ足を取られるような社会を望まない。
あらゆる属性に対して負のイメージを持つ人が存在し、あらゆる属性ごとに蔑称が存在するのではあるまいか?