働いている時間が違うだけで、一日における『自分の時間』が全然対等じゃないことについて、最近とみに考える。
私と同居人Aは仕事をしているが、同居人Bは病気のため、今はまったく動けない。
9時…洗い物をしたあと、洗濯物を干す
11時…昼飯の準備(病床についているため、家事は一切できない同居人Bがいるので、食事の準備は欠かせない)
14時…同居人Bの様子を見つつ夕飯の準備。
1時…帰宅。少しだけ好きな事をして、就寝。
結構かつかつに生きている。
8時…起床。出かける準備、朝食、出勤
9時~18時…仕事
19時…帰宅。作ってある夕食を食べる。その後自由時間と風呂。
24時…就寝。
完全にすれ違っているのだが、この同居人Aが、私にとっては理不尽では?ということを繰り返す。
洗濯掃除は、毎日やった方がいいと思う。けれど、これは毎日ではなくて、「出来たら」というレベルのものであって、大家族でない限り一日洗濯をしなくてもだれも死なないし、不自由を強いられることもない。掃除もそうだ。
けれど、同居人Aから見れば、それらをひとつでも欠かすと「一日何をしていたんだ? 昼間、時間あっただろ?」という事になる。
それなら、私がしなかった分の掃除洗濯をあなたがやればいいんじゃない? と言ったことがある。
自由時間は私に比べればたっぷりあるし、家には乾燥機だってある。掃除洗濯は、必ずしも日中に行わなければならないことでもない。
少なくとも、文句を言うのならどちらか一つを請け負ってくれてもいいんじゃない?と聞いた。
けれど返答は、「だって自分は日中働いてるんだよ。昼間暇なのは、そっちだろう」という事だった。
だから最近はもう、掃除は三日に一度、洗濯は三日に二度くらいのペースにしている。
同居人Bにはとばっちりを食らわせてしまうので、ごめんねと謝った。彼女は「私は世話をかけてばかりだから、文句なんてない。いつもありがとう」と言ってくれた。
我が家のケースとは違うけれど、誰かと一緒に暮らしている人は、考えてみてほしい。
それが恋人であっても、友達であっても、夫婦であっても、ただの同居人であってもだ。
それはみんな同じ。
偏りはありませんか?
貴賤なんてないです。関係ありません。
記念うんち