私は処女厨ではないし、処女に価値は特に感じない。が、あまりにもこの手の議論はレッテル貼りに終始してしまうように思える。そして、私もかつては異なる人種に対する偏見を持っていた一人であった。そういった過去の自分を戒める意味でも、今の自分の考えを整理する意味でも、ここに一つ落書きを書いておく。
さて、処女厨ないし処女信仰に対する批判で有名なのは芥川龍之介の「侏儒の言葉」にある「処女崇拝」の節であろう。ここに一部引用する。(全文は自分で検索して読んでくれ。)
はじめ私はこれに納得してしまった。これとは少し違うが私も同じような価値観を持っているからだ。しかしながらどうだろう。なにをもってして「零細なる知識」であろうか。あるいは、そもそも「率直なる感情」と「知識」とはそんな簡単に分けることができるのであろうか。
例えば、性別を逆にして高収入(この基準も人それぞれだが)の男性としか結婚したくない女性に対して、
なんて批判も成り立ちそうだ。これも極端な話になるが、いくら好きとはいえ「36歳職歴なし」とかなんかはきつい人も多いんじゃないのか。私だってさすがに浮気しまくる女性とかは勘弁だ。
では、「卒直なる感情よりも零細なる知識を重んずる」彼ら彼女らは、ある種の歪んだ心理の持ち主であろうか。
シカのメスも同じである。彼女らは闘争に勝利したオスのシカとセックスするのだ。そしてこれは彼女らの本能なのだ。
処女厨たちの崇拝もヒトという種の多様性の一部ではないのか。つまり、肌が黄色かったり、白かったり、黒かったりすることと同じではなかろうか。なにをもって「零細なる知識」とし、どのように感情に影響するかは人それぞれじゃないのか。