2016-07-14

差別をするなと言うだけで友達を失くすとは思わなかった

暴力団を抜けろとか、覚醒剤を辞めろとか、むしろそういうことですれ違いになるならわかる。

金銭利益やしがらみや中毒症状なら、おいそれと辞めようと思って辞められるものではないのは、気持ちはともかく頭では理解してやれる。

でもたかだか日常会話で「チョン」だの「ニダ」だのいちいち言うな、反日在日だなんてくだらない敵対意識を持つのはやめろと言うだけのことが、ここまで伝わりもしないとは思わなかった。

しかしたら精神医学的には、それこそ覚醒剤並の中毒症状のある、一種病理なのかもしれない。でも、これはどうしても理解してやる気にはならない。

差別というのは人間性への挑戦だ。

どこまで行っても根は同じ人間同士であるという、人と人とが上っ面だけでも諍いを起こさず共生していける最低限の同意を、覆す行為だ。

人間いのちに対する敬意を持てない奴に、どうしてこちらから敬意が持てる?

差別主義者(racistの訳。本来意味は「主義」の有無など関係ない、人種差別する人、という意味)は人殺しと変わらない。かれを差別するものはわれも差別する。そういう、人間と言う種そのものに対する敵対者だ。

相手がどんな奴であれ、人を「殺そう」と思って殺す奴には本能が警戒する。俺のことだっていつ「殺そう」と思うかわかったものではない。少なくとも彼の選択肢には、彼に取って邪魔なやつ、いやな奴を、場合によっては殺す、という項目が存在するのだ。

俺にはもう、彼の「友人」に対する好意すら信じることができない。

彼は「友人」じゃなければここまで全てを否定する攻撃性を持つ事ができるのだ。「友人」じゃなくなれば、俺も何を言われるか、されるかわからないのだ。

そんな「好意」を、どうして素直に受け取れる?

彼とは明確に絶交したわけではないが、もう俺は彼を友達と思う事ができない。

彼に「友達」と思ってもらえるという自信もない。

彼という人間の中に存在するその選択肢に、ただピリピリとした危機感を抑える事が出来ずにいるだけだ。

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