多分自称変人というのは、ちょっと歪んだ自己顕示欲が発露してしまっただけなのだろう、と私は思う。
優秀でも美形でもないけれど、凡人ではないと、きっと彼らはそう言いたいのだろう。
年若い人や、精神的に未成熟な人にそう言った発言が多く見られるのも、きっとそういうことなんじゃないのかな。
自称天然も一緒だよね。むしろ、本物ほど、自分が天然であるということを頑なに認めない。
むしろ自称側が「あれと同じじゃないです」と真顔で言いかえしてしまうレベルで、本物はヤバい。
本当の変人や天然は、周囲に笑いと混乱と困惑と苛立ちをまき散らしながら生きていく。
彼らは最近の医学では、場合によってはなにがしかの病名を付けられてしまうことすらある。
俗にいうところの「発達障害」だ。
彼らが肯定的な自意識を築きながら成熟できたような場合、それはそれでいい、となることも結構多いけれど、残念ながら彼らのうちの一部は様々な心理的な屈託を抱えて成熟してしまう。
何故人と同じことが出来ないのか。
何故自分が何かするたび人が笑うのか。
自分の当たり前がなぜ独創的といわれるのか。
自分を認められないまま大人になった、そんな彼らは、内心ではひたすら己の逸脱性を否定しつくすようになる。
周りの人間から「君は変わっている」と冗談のように指摘されるたびに、「何故自分は普通になれないのだろう、普通でいたいのに」と考え、ひどく己を責めるようになるのだ。
突出も欠落も何もかも受け入れられなくなり、彼らは時に己との折り合いがつけられなくなり、精神に異常すらきたしてしまう。
とても哀れな病人。
変人やら天然と言うカテゴリーは、そんな人々をも内包している。
具体例を一つ挙げる。
遠方に住んでいる友人なのだが、彼女はなぜか関わった人ほぼ全員に「あの子は変わっている」と口をそろえて言われてしまうレベルの変人である。
何がおかしい、とはっきり指摘できるほど確定的な要素はないのだが、一つ一つの細かな積み重ねが通常、というカテゴリから逸脱しているのである。
なにかずれている、といってしまってもいいのかもしれない。
そんな彼女なのだが、本人は変人といわれると非常に釈然としない顔をする。
そして、「普通が一番だ。でも普通って何なんだ?」と言う根本的な問いを飛ばしてくるのだ。
その後で重松清の舞姫通信の話をしたりとか、平均点とかそもそも自分自身の当たり前の定義はあてになるのかとか、そんなことを彼女は言うのだけれども、話を聞けば聞くほど彼女が普通という単語に拘泥しているのが伝わってきて、何とも言えない気持ちになるのである。
むしろ彼女が求めているのは『普通』ではなく、『社会に溶け込めるような当たり障りのない社交スキル』なのではないかという気がするのだけれど、それは言わないべきなのだろうか。
何ともいえない。
色々書いたけどやっぱりこういうことなんだろうな。