2013-08-25

愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません。

愛する人も、愛すべき対象もなくただ生きていても虚しいだけ。

どうせ何も成し遂げず無為に生きるだけなら、さっさと死ぬべきなのだろうか。

独身で生きていける人は、このような絶望を感じないのだろうか。感じているのであればどのように対処しているのだろうか。感じていないとすれば、ほかに何らかの生きがいがあるのだろうか。

愛する人というか、依存する対象、あるいは、生きがいと言ってもいいかもしれない。

生きがいという意味では、別に異性の人間との交際でなくてもいいはず。打ち込める仕事趣味とか、心から信じられる宗教とか。それなのになぜ自分は、愛する対象としてひとりの異性を求めてしまうのだろうか。

人間本質社会性だということなのだろうか。それだけなら性別を問わず家族や友人との付き合いでもいいのでは。そのような付き合いは人並み程度にはしているつもりなのだが、私の渇きは満たされない。なぜだ。

以前、ひとりの異性に依存した経験があるからだろう。

そのひととは数年間付き合ったが、もとから相手が精神を病んでおり、ほどなく私も病み共依存になった。会話するたびに「死」、「自殺」、「私さえいなければ」といったワードが出るようになり、結局耐えられなくなった私から一方的に連絡を断ち破局してしまった。

また新たな異性と交際するにしても、私自身が社交的でない上に、相手を見つける機会がなくなったのでどうしようもない。前述の相手は男女比が1:1の環境で知り合った相手だったが、現在の私がいる環境は男女比が10:1程度であって、自然に異性と知り合い、恋愛関係になれるような状況ではない。

それに、異性との交際自体を面倒だと感じる部分もある。各種コンパ婚活などによって、異性と知りあう機会を作ることはできるかもしれないが、私の場合はそのようにして知り合った相手とは長続きしないのではないか自然に知り合い、仕事趣味などで時間を共有していく中で気付いたら相手に惹かれていた、というような展開を望んでいるが、おそらくは幼い夢なのだろう。

それに、奇跡的にまた新たな異性と交際できたとしても、また前回のようになるのではないか。とくに私のように、「交際」というよりも「依存する相手」あるいは「自らの存在意義」と、それらを確認する手段としての肉体関係を求めている場合には。

このままいつか愛する人が見つかることを夢見て、絶望感に苛まれながらも日々を誤魔化しながら生きて?けっきょく何も手に入れられぬまま死んで?

仮に見つかったからといって、それが永続する保証はどこにもないというのに。まあ失ったら死ねばいいか

…すでに一度失ってるんですがそれは。

愛するものが死んだ時には、

自殺しなけあなりません。

まあ、前回は愛する人が死んだ訳ではなく、私も死に損ねたわけですが。

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