英語は完璧、日本語も日常会話は完璧。ただし書き言葉には弱い。レポートを読むのは可能だが小説を読むのは厳しいと言っていた。
彼以外の社員は私を含め、大学を卒業してから英語から遠ざかっている者ばかり。単語も随分忘れてしまった。
英語の文章を落ち着いて読むならまあまあいけるが、英語しか喋れない人間と対面するとテンパるレベルだ。
社長は「彼」を入れることで、社内が実用的な英語の習得について積極的になると踏んでいたらしい。
しかし実態は、彼が送ったメールの日本語のミスを皆で笑ったり、彼が「○○はどういう意味ですか?」と二字熟語について質問するのに対して、
ドヤ顔で教えてあげるばかり。彼から学ぼうとする人間は、見る限り一人も居ない。
新たな知識や技能を教わる機会が貴重だったのは、既に遠い昔の話だろう。
今なら参考書が簡単に手に入るし、安価なスクールも充実している。学びたい人間はお金を払ってでもとっくに学んでいる。
特に自主的に学んでいない人間にとって、教わることより教えることの方が気持ちいい。語りたいのだ。
キャバクラは、お金を払えば、つまらない話を好意的に聞いてもらえる場だ。
自慢や説教、そういったものを聞いてキャバ嬢は「すご~い」「○○さんと居ると楽しい♪」と感謝の反応をする。
こんなもの、金をもらえなければ無理だ。
同じことを部下は上司にされるものだが、これも上司が自分の出世・将来を握っているから耐えているだけだ。
精神科のカウンセリングでもそうだろう。患者の愚痴、症状の訴えといった暗く行き詰った話を、延々と聞き続けなくてはならない。
金をもらえないのに積極的に責任感を持ってやれる人間がどこに居るだろうか。
講演会に呼ばれるような貴重な人間でない「ただの人」同士であるなら、話を"聞かせた側"は、話を"聞いてあげた"側に感謝するべきだ。
ただの人同士の会話は、聞かせた側が気持ちいい構造になっている。