2023-06-09

内心の自由制限してはならないというか、そもそも制限のしようがない。

人が本当の所は何を思っているかは本人と神様しか知らない。

お宝の在り処や仲間の情報は爪を剥がしたり石を抱かせれば確認出来るかも知れないけど、本当に信仰を捨てたかどうかは踏み絵を踏ませたところで確かめようがない。

人を疑い始めれば果てがないし、だから適度に他人の善性を信じる、適度に無関心でいる事が他人を信用するという事になる。

バランス感覚問題だ。

スラム街札束見せびらかしながら歩きはしないが、気心の知れた友達に財布を預けた後いちいち中身の勘定を始めたりもしない。

そういったバランスがないとパラノイアになって狂うか、全てを悪い方に邪推する鬱陶しい人間になる。

交際相手に対して試し行動に走るメンヘラも同様だ。

目に見えないものに気を揉むのが怖くて、目に見える部分で全てを判断するようになってしまうかもしれない。

このヒトには沢山お金をつぎ込んだんだから、それは間違いなく自分への好意に繋がるはずだ、とか。

人の善性を手放しに信じたいけど、それだと裏切られた時にツライ。だったら最初から全てを疑おうというのはとてつもなくナイーブな態度と一体のものだ。

でも常に邪推をするのがリアリストである事だ、なんて思ってる人も割といるみたい。

まあ疑う分には別に勝手だと思うんですけど、その猜疑心相手にぶつけるのって果てしなくウザいですからね。

いちいち人の動機とかを邪推する人もいますよね。とてもウザい。

例えば「音楽が大好きでバンドギター弾いてます」って人に、イヤお前の本当の動機モテたいだけだねとか言ったりする。

露悪的な思考を拗らせて、人の動機とは常に損得勘定であったり不純なものであるという事にしたくてたまらないらしい。

イヤ仮に嘘だったとして、だったらどうなるってんだよって話で。

対人関係において自分問題にならないところでまで邪推を始めてしまう。

ギターに憧れて練習したけど挫折してしまった、という話に対して「それは本当に好きじゃなかっただけの話だ」みたいな事言う人もいる。

どうしても本気でなかったという事にしたくてたまらない人。

こういう時に言う「本当の」という前置きは、概ね「私の考える、こうあるべき姿」と言い換えられる。

もし本当に「本当」があると決めたのなら、それは宗教なので。

本当の鮎があるのは美味しんぼ世界だけです。美味かろうが不味かろうが養殖だろうが冷凍だろうが鮎は鮎です。

他人言葉をすぐ「それはお前が~だっただけ」と相手の「本当の」内面を決め打ちしてすぐ矮小化しにかかる。

どんなありきたりな悩みにも、そこには当人ごとの個別性がある訳で。それを無視してお前がカスなだけだと言っても、それは言った側が気持ち良くなるだけ。

まあウジウジした人間見てイラつくという気持ちもあるだろうけど、勝手に苛立った側が一方的憂さ晴らしをするのってただのイジメですからね。

ハナから相手の悩みに寄り添う気なんてない事もあるだろうし、それなら適当に流せばいいだけでいちいち人の心を邪推する道理はない。

世の中もっと無関心でいい。どこまで疑った所で他人の心の真実は手に入らない。

そもそも相手ウソツキであった所で問題がないのなら、いちいち邪推する必要もない。

気に入らない事があればカッコつけて「お前が~だっただけだろ、どうでもいいけど」なんて言わず、素直に「俺はお前が気に入らねえ」と言って欲しい。

そもそもどうでもいい旨をわざわざ伝えるってどういう了見だよ。

欲を言えば、気に入らないと思っても口には出さな社会性を身に着けて欲しい。

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