2022-07-03

民間主導による表現規制について

昨今の表現規制問題で、「表自はあいちトリエンナーレにはダンマリだった」というコメントを見かけた。

かにどちらも政治による圧力によるものではなく、「民間の声」によるものである。(津田氏は政治家の圧力が中止の原因ではないと言っていた。)

個人的には萌え絵だろうがあいちトリエンナーレであろうが、法に触れるものでなければ自由表現されるべきであると思っているが、

萌え絵に賛成⇒あいちトリエンナーレにも賛成しなければならない、という主張には首をかしげざるをえない。

これまでの色んな人の意見を見る限り、この2者に対する態度としては自分が思いつく範囲では以下の3パターンが考えられると思う。

萌え絵あいちトリエンナーレもセーフであり、外部から圧力を受けるべきではない

私と同じ考え方。

法に触れるものでないなら自由であるべきだし、仮に法に触れるというならその指摘をしたうえで、表現者が従わないなら法的措置対応するべきだろう。

萌え絵あいちトリエンナーレ配慮して、不快に思う人が発生する表現をするべきでない。

個人的には同意できないけど、「見たくないものを見ない権利」とやらを大前提にするならこういう考え方もあるだろう。

そう考える人がいるということは理解できる。個人的には同意できないけど。

オリジナル作品である萌え絵OKであるが、実在人物写真を燃やしたあいちトリエンナーレNG

基本的表現自由は重視されるべきだけど、実在人物肖像権をはじめとした人権も重視しようという考え方だと思う。

たとえばもし萌え絵ポスターが、本人の許可を得ることなく、「なぜか極端な巨乳になった上野千鶴子」が使われていたら、彼女シンパシーを抱いている人は怒りを覚えるだろう。

このように特定個人侮辱していると取られかねない表現NGだと考える人もいるだろう。

あいちトリエンナーレは言うまでも本人の許可は得ずに写真を燃やしたうえで踏みつけるという表現だ。

しか自分の知っている範囲炎上した萌え絵はすべてオリジナル作品だ。だから彼らはこのルールに従って萌え絵擁護する。

そう考える人がいるということは理解できる。 

 

さてこのように2者に対する態度3パターンを見てきたけど、では萌え絵NGあいちトリエンナーレOKであるという理路はあるだろうか。

宇崎ちゃんの頃には公金が投入されているかどうかという観点もあったが、あいちトリエンナーレにも公金が投入されていた。

次に公共空間という観点があるが、あいちトリエンナーレの会場は公共施設だ。

あいちトリエンナーレは入場料があるからゾーニングされた空間問題がないという人がいるかもしれないが、中学生以下は無料だったし、

たわわでは、日経広告には表現上全く問題がなかったため、わざわざ原作を見に行ってうえで作品を叩く人が現れた。

無料公開部分以外に言及していた人もいたから、わざわざお金を払ってみたことになる。さもなくば海賊版でも見たというのだろうか。)

巨乳女性を描くのは差別だけど、実在する他人写真を燃やして踏みつけるのはOK?ちょっとそれは理解できない

 

まぁこのように自分には(法律に反していない)萌え絵NGあいちトリエンナーレOKというロジックは思いつかない。

もうあとは全力で主観判断します!しかないだろう。萌え絵はアウト【要出典】であいちトリエンナーレはセーフ【要出典】。

ただそれが認められるというなら主観萌え絵擁護してあいちトリエンナーレ批判することも許されるべきであろう。 

というわけで、萌え絵に賛成⇒あいちトリエンナーレにも賛成しなければならないという主張は理解ができなくて、

どちらかといえばあいちトリエンナーレに賛成⇒萌え絵にも賛成しなければならないのほうが妥当な主張に見える。

 

では萌え絵に反対している人はあいちトリエンナーレも全力で否定しているのだろうか?

「いや私は見たくない人に配慮してあいちトリエンナーレ批判していますよ!」というひとや、

「私ならあいちトリエンナーレOK萌え絵NGである主観抜きで主張できますよ!」という人がいるなら、ぜひ教えてほしい。

記事への反応(ブックマークコメント)

人気エントリ

注目エントリ

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん