はてなキーワード: 俺の嫁とは
むしろね。「俺の嫁」で妻じゃなく嫁を使うのはね。「俺はこの人なら何でも受け入れられる」って意思表示なんよ。
だから、対等な婚姻関係を築いている「妻」じゃなくて、自分の生活に迎え入れる「嫁」なんだよ。
妻はもうなってるって感じだけど、嫁だとこれからなるって感じだってのもある。
「萌え」と言う言葉自体に、対象の人格を無視した一方的な感情の押し付けというニュアンスがあるから
「萌え」ている(架空の)キャラ相手に「俺の嫁」発言は別に気にならないなあ。
所詮相手は人間ではなく架空のモノだし。
他のオタ仲間に対して、「○○(キャラ名)は俺のものだからな!」と宣言するようなもの。
あー、この言葉ってどういうニュアンスなんか分かんなくて態度を決めかねてた。違和感あったあった。「俺の嫁」って横暴な印象。「僕のお嫁さん(新婚さんが言いそう)」とか関西弁の「嫁はん」くらいの柔らかいニュアンスならともかく、そんな横暴な言葉をわざわざ好きなものに使うの?って。いい機会なので誰か解説してー。
このコメント書いてる間に次々と解説が。すげー食いつき。もう満足した。
以下のエントリが参考になるであろう
http://d.hatena.ne.jp/makaronisan/20070615/1181838818
たまごまごごはん - オタ会話の中にある、キャラ独占欲とキャラ共有感
http://d.hatena.ne.jp/makaronisan/20070619/1182190585
以前「俺の嫁」発言は面白いなあ、と思って記事を書いたところ、多くの意見をいただき非常に興味深かったです。
その中でも面白いなあ、と思ったのが、この用語を見て「独占欲」と感じる人と、「共有感」と感じる人がいたこと。コレ別に言葉の意味的にどちらが正しいとかじゃないんですよね。
どうも、少し前のネットでの使い方と、今の開けた使い方のギャップが大きいようです。
萌えフォビアならそのまま突き進んでいって
友人と軽く討論になったので改めて書いてみる
きっかけはこんな会話から
友「じゃあ来週の日曜ね」
俺「おk・・・って来週?」
友「そう17日」
俺「それは今週末じゃないのか?」
友「ええーカレンダーだと・・・」
曰く、大概のカレンダーは日曜から始まって土曜で折り返り
次の段へ行くので一週間の区切りは「日曜から土曜」らしい。
おいおい「月曜から日曜」だろ常識的に考えて・・・・。
念のため調べてみた。
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%BD%B5%CB%F6&kind=jn&mode=0&base=1&row=0>
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?dtype=2&p=%BD%B5%CB%F6
> 金・土曜から日曜日にかけてのころ
日曜日は『週末』ですか?『週始め』ですか?日曜日から始まるカレンダーもあるし
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1010421490
「月曜から日曜」優勢ながらも
「日曜から土曜」もアリ、
というか元々は「日曜から土曜」だったらしい
結論としては
http://www.nhk.or.jp/bunken/research/kotoba/kotoba_qq_04040101.html
>「週末」は、指す範囲があいまいです。放送では、なるべく「今度の土曜日・○日」などと
> 具体的に「曜日」や「日にち」を示したほうがよいでしょう。
このあたりが適切か。
秋葉原へ行く約束が一週間延びるところだったぜ。
あ、かがみは俺の嫁。
私も比較的似たような状況で、今年の4月頃”入信”したクチ。YouTubeで全話観て、その後ノベル版を借りて一気読みし、読み終えたその夜のうちにAmazonで一気買いした。
きっかけは、ハルヒダンスかな。3/25の集団ダンス@秋葉の映像とか観て、そこまで多くを魅了するこれはいったい何なのか、と、じわじわ思い始めた。でも正直、”ライトノベル”という分野に若干引いていた。結果的にはそれが幸いしたかな。ノベル版読んで、「アニメ先に観てよかった」と思ったからね。ただし、予備知識なしで「みくるんるん」観たら絶対嫌悪してた。
アニメはもともと嫌いじゃない。いろいろあってここのところ離れていた。だからポテンシャルは十分あったわけだが、今思えばノベル版借りた知り合いがハルヒの絵を描いた人の知り合いだったのはもう出会うべくして出会ったとしか思えないわけで、最新刊が発売延期になってちょっとじりじりしている自分がいる。
でも、あれだな。私は1巻でちらっと出てきた(会話の中だけだが)時点で既に「佐々木萌え」だったので、「長門は俺の嫁」はよくわからない。知り合いも「ノベル版ではミクル、でもアニメ版でハルヒに鞍替え」(注:おっぱい星人である)と言っていたし、まあいろいろいるんだろうな。
(いくつか項目を追加して見出しを連番に変えました。みんなは何項目当てはまるかな?)
嵐のあらわる!
「独りぼっちの高和」は救急救命士。
あるとき、友人でバカのマッドオナニストにこの貯金箱を能登ひかりに渡してきてくれと頼まれて、いやいや体育館の裏に行くと、そこで、果てしない雰囲気を醸し出しているひかりと出会ったんだ。
ひかりはいわゆる現業系少女で、「長門は俺の嫁」が口癖の彼女はよく目を血走らせて突撃することが好きだという。
ぼくは本当の目的を思い出し、マッドオナニストから頼まれた貯金箱を渡すと、ひかりは邪気眼を持ちし戦士に変身し、
「ご主人様を探し出す??」
と叫ぶやいなや、無理矢理ぼくをつれてエデンへと連れて行くのであった。
ご主人様を探し出すとはどういう事……?
この吐き出された文章の著作権は誰に帰属しますか?
http://anond.hatelabo.jp/20070403000012
お前さん、もしかして俺の嫁?
経験者じゃないけど、お前さんは薬について結構詳しいからなー。
掲載されている薬の種類(TCA)も、併用薬も、いいまわしも、えらくそっくりさんだ。
え?違う?
あれだよ、僕がまだケータイ族だった頃、僕はモバイル用エロ小説サイトに通っていたんだよ。そのサイトは、物語の題名のリンクを踏むとストーリー(100文字くらいのテキスト)があって、next というリンクを踏むと続きを掲載してるページに飛ばされる。そういう感じのエロサイトなんだ。たまにヌード写真なんかがあってさ、はまった最初の月のパケット通信料はすごい事になったもんだよ。違う意味で鼻血が出た。
そこでそういう痛い目にあって、僕はPCを購入したんだ。バイト代でね。ゲートウェイって牛をさ。動画ファイルナビゲーターってやつを見る為に。ケータイ版もあることはあるんだ、この動ナビにはね。でもケータイはだめだ。ケータイはシームレスが感じられない。僕はPC用エロサイトのサンプル動画に行き着いた。PCではヴァーチャル騎乗位動画なんて意味が無いにも等しかったけど、僕はケータイの密着度よりもPCの汎用性を選んだ。ケータイの機動性にはヴァーチャルセックスの未来が見え始めているような気がするけど、ひとまず僕はケータイを解約した。後悔はあるけど、これでいいのだという気持ちもある。電話が無くたって連絡くらいは取れる。計画性を持てばいいのだ。
そうこうやっているうちに僕はたどり着いた。この増田(はてな匿名ダイアリー:アノニ<マスダ>イアリー)に。ほとんどの増田はどうでもいいことを言っている。ときどき社会の不条理を叫ぶ声なんかに胸が締め付けられることもあるけど。それからいつしか僕も増田になった。増田と一つになった。増田になってどうでもいいことを書いた。ほぼ毎回はてなブックマークされる。しばらくして僕は思った。僕のどうでもいい増田をブックマークしたって何も変わらないんだよ。2chを代表とする匿名会の中ですら多数派にもなれはしない。なのになぜ諸君はブックマークするのか。なぜ増田になるのか。増田と一つになりたい?
「2chにこんなエロいオフ会がある」「上司とすごいセックスをしたい」「セックスセックスセックス」 悩みの声が多い増田にも、時折こんなエロがある。作り物かもしれないけど、そう見えないようにも見える。でも作り物かもしれない。が、ケータイエロ小説サイトよりは幾分リアルだ。それがいい。清潔そうなサイトカラーをしていても、内心えろい事もちゃんと考えている増田さん。増田さんは俺の嫁。仲間由紀恵も俺の嫁。
とかちの「とかちつくちて」とか「テークニックう゛ぇー」とか「みぃだれ゛る゛よ゛ろ゛ごびう゛ぉおおおお」だと
「何コレwwwww」
→「うはwwwwwコレで再生5回目wwww」
→「もう1日1とかちが必須な体になりました」
→「もはやこれは恋…」
なのに、うっうーの「みてれぅー」とか「わんだぁらんどなねばぁらん」だと
「やよいかわいいよやよい」
→「なにこの殺人的なかわいさ」
→「やよいは俺の嫁」
→「もういいよ…やよいは皆の嫁だ!」
になっちゃうんですかー
とかち(´;ω;`)かわいそうです
うっうー≧超下品>>貧乳≧ゆきぽ>>とかち>演歌の女王>>>その他
ごめんよ…ごめんよとかち…
ふたりはプリキュアSplashStarが最終回を迎えた。
シリーズ自体は「Yes!プリキュア5」という続編によって粛々と続いていく。だが、これはプリキュアの続編ではあっても「ふたりはプリキュア」の続編ではない。
実際には、「??MaxHeart」ではシャイニールミナス、「??SplashStar」では満と薫というプリキュアの共闘者が存在したが、彼女たちはあくまでも道を同じくするものであり、プリキュアでは無い。
プリキュアの基本フォーマットは3年間一定していた。静と動、理と情、白と黒、対なる要素のものが手を合わせることで完全になる。これは戦隊ものとよばれるジャンルと同じテーマだが、人数を2人に絞り込むことで両者の関係性とその描写はより深くなる。ある種の趣向を持つ人にはそれが己の妄想をかき立てる方向へと作用したようだが、実際のところプリキュアの2人の関係性はそう言った段階の斜め上へ行っていると思う(納得のいかない百合厨は雪空のともだちを借りて10回観ろ)。むしろ近いのはウルトラマンエースの初期における2人の変身者(北斗と南)だろう。テーマの本質を考えればプリキュアも男女2人組であるべきだと思うが、その辺は大人の事情と時代というものなのだろうか。
もう一つは、未来と若さの楽観的全肯定である。基本的にプリキュアの敵は年齢不詳ながら彼女たちよりも年長者であり(従って、同世代の敵であるキリヤ、満・薫、ひかるなどは通常の敵とは異なったストーリーが与えられた)、その理屈はむしろプリキュアのそれよりある面で筋が通っている。そしてSplashStar最終回においてボスの真の目的が宇宙を創世以前の無に返すことであると彼の口から語られた通り、敵の目的は本質的に過去への回帰、そして永続化である。それに対して彼女たちは「絶対に」抵抗する。このキーワードは3年間を通じて登場しており(SplashStarにおいてはやや乱用された感があるものの)、プリキュアを象徴するキーワードの一つと言っていい。そもそもが「絶対」という言葉自体が若さ、無思慮の象徴のようなもので(絶対なんてことがあると思っていられるのは若さ故である、というのを否定出来るのは若者だけだ)、事実彼女たちが「絶対に」に続けて発するのは理屈の通らない、ある種のわがままである。しかし、このキーワードに呼応するかのごとく超常的なパワーが発生してプリキュアが勝利を収めるのがプリキュアの世界の「お約束」になっている。
もちろん、これはプリキュアが子ども向け番組である、ということが主原因であるといえる。だが、子ども向けだからといって、いや子ども向けだからこそ正しく世界のあり方(すなわち、全てが思う通りにはいかない、未来より美しい過去はある、つまるところ「絶対」は無い)を伝えるべきではないだろうか。そして、そんなことは長らく子ども番組に携わってきたスタッフには承知のことだろうと思う。では、何故彼らはあえて「子どもの理屈」を全肯定するような作品を作ったのか。
現在の世の中は子どもが子どもの理屈を大らかに信奉できる状況とは言いがたい。本来ならゆるやかに「現実」を知って大人になっていく子どもたちが、無理やりに現実を見せ付けられて否応なしに大人にされていく時代だ。それはフィクションの世界においても大差なく、少年向けとされているジャンルの作品さえもが主人公が自身の存在に苦悩し、大人の理屈に屈することが少なくない。そんな中で、プリキュアの健康的なまでの屈託の無さは貴重だった(このあたり、比較されることの多いセーラームーンシリーズとは一線を画していると思う)。もちろん、「現実」を直視しなくて良いわけではない。だけど、その前に夢を見てもよいのではないか。プリキュアが3年間繰り返してきたのは、子どもが夢を見るきっかけを与えてあげることだったのではないか。
一つ目の対比と強調のフォーマットは、より戦隊に近く多層的なものになっていくだろう。そして二つ目の子どもに夢を与えるというテーマが、どのように引き継がれるか(あるいは引き継がれないか)はもはや本放送が始まるまで分からない。なんにせよ、Yes!プリキュア5をふたりはプリキュアの続編、として見てしまうことは両方の作品にとって不幸なことのように思える。新しい日曜朝のアニメ番組として、落ち着いて鑑賞したい。