はてなキーワード: 生存権とは
クーラーのある部屋は「最低限の文化的生活」とは言えないんだが(地域事情によるがな)。
>なんで俺んちに止めなきゃなんねんだよ。私有地だぞ。公共施設の話だってこと忘れてないか?
私有地だからお前の意志でいくらでも泊められるだろうという話だが?
公共施設はそうじゃない。みんなが使えるようにと最低限のルールが
ホームレスならざる利用者にも全て適用されている。
お前が他人に迷惑を我慢しろと要求するなら出来るはずだ。
そういう考え方は違うだろっつのがhokusyuあたりの書いてた話だろうな。
酒飲んでネットしてホームレスたたきをして溜飲を下げる暇のある奴に比べればはるかに切迫してるだろと指摘しているのが分からんか?
一杯100円しないような安酒だけが楽しみの生活が「最低限文化的な生活」か?
なんで俺んちに止めなきゃなんねんだよ。私有地だぞ。公共施設の話だってこと忘れてないか?
生存権の話を持ち出すのはちょっと突飛じゃない?
なら生存権をかざして、もっと快適な場所に行ってくれよー。
あ、そうだ!
宗教関連施設に行けばいいんじゃない?
酒飲む金がある連中のどこが生存の危機なのかねえw
私的自治の原則がある以上、お前が迷惑を我慢しさえすれば誰も文句は言わん。
血税も使わんしな。
しかし公共施設はそうじゃない。公共のルールが守られなければ機能すらしない。
生存権が大事だと思うなら、お前の家に泊めてやれるはずだ。
お前が他人に要求しているのはそういう次元の話なんだという事を弁えろよ。
そもそも図書館に行かなければホームレスの人たちの生存権が脅かされるという状況はその地域の福祉行政の機能不全を意味してるわけで、福祉課が動けというあたりが妥当な結論だと思うんだけどねえ。
どっちも正論なんだけど、生存権のほうが優先される正論だ。この理屈自体は難しくない。
それでは図書館が運営していけない、ということになると、これは難しい問題だが。
今回の議論に参加するなら、やはりホームレスがどのように生存権を脅かされているか、その「現場」を知っていなくてはならないと思う。まさにいまは非常の時で、図書館員を責めるわけではないが、図書館員も人間である以上、ホームレスの生存権をまもるために、行動するべきではないか。図書管理などの「職務」よりも、「人間」としての「義務」が優先されるべきだと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20080902230106
このエントリーにもあるとおり、現場でホームレスを支援して、それで考えた末の意見の開陳であるのを、ただ「お花畑のブサヨクが非現実的なことをほざいている」かのように「誤読」している読者が多すぎはしないだろうか。あまりネガティブな表現はしたくないが、どれだけ国語力がある人がはてな界隈に少ないか、失望してしまう。
増田では概ね有意義な反応が尽きたようなので、戦闘的でも粘っこくもなさそうな方に試しにトラバ。
http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20080814/1218670547
さて不謹慎な表現など多々あるかと思うけど、以下に私的な疑問・論点をまとめます。
時間掛けて経営学や医学や倫理学や歴史学を学んでたら、軽くクリアーできる論点・誤解もあるかも知れないけど、その他も含めてご容赦を。
●論点1 トリアージを「極限状態」と呼んで忌避するが、何を以て「極限」と呼ぶのかが恣意的だと思う。
●論点2 「極限状態」という一種のフィクションを前提としなければ、ナチスはホロコーストを行わなかったのだろうか?
●論点3 「資源の有限性を前提にするな」と言うけれど、実はこの世界ではあらゆる物が有限だったりする。
●論点4 経営学はそもそも社会全体について語る学問なんだろうか?
●論点5 トリアージに関連して「他者性がない」選択と言うけど、その「他者」の扱いも恣意性を含んでいるのでは?
●論点6 トリアージを「全体主義的な決定」「悪しき決断」と言うけど、平等な個人の自由な契約という所からも基礎付けられないだろーか。
●論点7 むしろ平時に「かわいそう」の論理を追求する方が、長期的には「かわいそう」な人を増やすのではないか。
●論点1
トリアージを「極限状態」と呼んで忌避するが、何を以て「極限」と呼ぶのかが恣意的だと思う。
たとえば、短い時間で選択を迫られるという意味でなら、(汚い例で恐縮だけど)映画館で上映開始数分前に便意を催し、
そこで素早くトイレを済ませるか、そのまま2時間前後我慢するかなど分単位で決断を迫られたりとか、
あるいは語源となる(らしい)コーヒーの選別作業など秒単位で決断を迫られる行為が、実は日常でもよくある。
もちろん時間以外の資源をモノサシにする場合も同様に議論を進められるはず。
つまり、時間等の量的な制約をその条件とするのであれば、いわゆるトリアージ以上に「極限状態」とみなせる
選択はいくらでも存在することになり、なぜトリアージだけを取り上げて「極限状態」と呼ぶのかがわからない。
そして呼ぶだけならいいとして、そこに殊更特別な意味を見いだそうとする行為には恣意性が入って来ないか?
明確な基準がなくはっきりしないせいで、そうした疑問が浮かんでしまう。
もし資源制約等々を最初から全部取っ払って、人の命を「切り捨て」るプロセスを指し「極限」と呼ぶのであれば、
蘇生行為の中断や、人工呼吸器の取り外し、あるいは脳死判定?など、(当事者にとっては非日常ではあるものの)
平時の医療行為の中にもそれらは存在する。これらはいずれも倫理学的検討に値する問題ではあるんだろうけど、
今回の問題意識とはずれているのではないかという気がする。なぜなら、経営学講義中の「資源制約下の選択」
というトピックで取り上げる事は難しいと思えるから。よってこれも不適。
ここからはさらに妄想。そこで「資源」の意味をもう少し拡張し、技術水準まで含めるとしたら?
現代医療で人工呼吸や蘇生や脳死判定が要請される重態の患者でも、実は簡単に救えるほどの医療技術が
遠い将来いずれ誕生する事を想定すれば、それらの現場を「極限状態」と呼ぶ事も可能かも知れない。
けれど何事も有限なこの世界で、資源の有無は所詮相対的な問題でしかないから、逆に心臓マッサージも知らない
ような時代まで遡れば、現代医療は「極限」でも何でもなく、相対的にかなり恵まれた状態だとさえ言えるかも知れない。
だからこの妄想理論も、当然すぎるほど当然ながら、使えないよね多分。
●論点2
「極限状態」という一種のフィクションを前提としなければ、ナチスはホロコーストを行わなかったのだろうか?
トリアージの現場では、住所氏名年齢性別人種思想信条宗教経済状態等ではなく、たとえばSTART法に
代表されるように、あくまで症例とその喫緊性を判断材料にして、医療資源の配分が決定されて行く。
そこでの個人は、生存者の最大化という観点から、同じ人間同士限りなく対等に扱われると見ていいはず。
他方、ナチスはアーリア人種なんかにとって、異民族共産主義知的身体的障害者等の存在が有害だと
訴えてたわけで、その排除は平時であると有事であると問わず、進行していたんじゃなかろーか。
不謹慎な言い方をすれば、対等ならざる「異分子」の排除は、保健所の動物駆除のように、
生存権や私有財産権その他の人権を持たざる者と扱った上で、粛々と進められたんじゃないかなと。
また日本や北欧等でも障害者・社会的弱者の断種手術が進められたけれど、これらも特に有事であるからと
行われていたわけではないはず。社会ダーウィニズムや通俗的な理解によって「市場原理主義」など(あるいは
「原理主義的資本主義」?)と呼ばれる淘汰のプロセスは、ある緊急時の必要に応じて進む(進められる)
と言うよりは、むしろ長期的に徐々に着実に進行していくモデルだと考えるのが妥当だと思う。
そして比喩としての「極限」的危機のアピール自体は、かつてのワイマール共和国を含む(民主主義・非民主主義問わず)
あらゆる国家で行われる、支持者獲得の為の常套戦略で、たとえば、核戦争や原発メルトダウンの恐怖を時に過剰に煽るのも、
類似の行為と言えるのでは?ナチスに特徴的な行動として取り上げるのは些か困難じゃないかと感じる。
以上の点から、トリアージを差別的な(どころか相手を人間扱いしていない)ホロコーストとなぞらえるのは
間違いであるし、また仮にトリアージが「極限状態」の選択であると仮定しても、ナチズムやホロコーストとの
同質性を認定するのは恣意的だと考える。トリアージの普及推進や例示がホロコーストと地続きである、または
そうした考えを広げるというのは、不謹慎である事を除いても有益な議論とは言い難いはず。
そもそもホロコーストの最たる物である絶滅収容所等におけるユダヤ人殺害は、ナチスドイツの
敗色が濃厚になった戦争後半期にかえって加速していたようで、一般的な意味で言う有事への対応や
資源の最適な配分という意図からは、どうも外れた感が強い。元々戦場の論理とは別物なのでは。
●論点3
「資源の有限性を前提にするな」と言うけれど、実はこの世界ではあらゆる物が有限だったりする。
トリアージの現場においては人員物資設備等の制約がボトルネックとなっているけど、そもそも人員物資設備等が
無限であれば、トリアージはもちろん企業経営の探求や経済学的考察など、資源の効率的な配分を研究する
学問・営為は生まれなかったはず。経営学や経済学をはじめ、多くの人間の知的営為はその濫觴において、
現実世界の資源の有限性を前提としており、その有効活用を目的としているわけだから。
たとえば、市場メカニズムの根本を支える価格シグナルは、財やサービスの需要と供給によって決定されるけれど、
供給無限(商品の物量だけでなく運搬供給設備やそれらの生産性等も)であればその価格はゼロとなり、
人は欲望の尽きるまでそれらを蕩尽するはずだが、もちろん現実はそうじゃない。一見価格ゼロに見えても
広告販促込みだったりして誰かが費用を負担しており(そのままでは持続可能ではない)、いずれにしても
「価格」の存在は、資源の有限性がこの世界に付き物だという事実を、端的に示していると言えるわけ。
またたとえば、かつて環境問題が今ほど注目されなかった時期には、社会的制限が存在しない中で
工場は排煙を垂れ流し放題だったけど、現在では空気ですら無限ではないというのが、環境問題を認識する
あらゆる人間の知る所で、その為に各種の環境規制や課税が行われ、少なくとも先進国では、工場経営者も排煙その他の
公害原因の扱いに注意を払うようになっている。逆に各種エネルギーに補助金(それは低い技術水準とワンセットだが)を
与えている中国やインドなどは、その凄まじい蕩尽によって資源の国際価格高騰や各種公害の原因としても台頭している。
以上のように、資源が無限か有限か(≒価格がゼロか否か)は、その資源を効率的に扱うインセンティブを決定している。
そして、およそあらゆる物に価格や税金、規制が付きものなのは、それらが現に有限だからに他ならず、
経営学・経済学・トリアージはもちろんとして、多くの人間の知的活動はその資源制約によって発展・流転を促されてきた。
よって「資源の有限性を前提にするな」という主張は、現実を無視し多くの知的活動を否定する行為に等しく、場違いな指摘だと考えます。
有限性の前提や資源の効率的利用・効用最大化と言った考えがナチズムへとつながるのであれば、必然的にこの世の
学問・営為・制度・生活習慣は、その多くがナチズムの眷属となり、今回の件を特別批判する意味は限りなく薄まるはず。
●論点4
上と関連して。経営学はそもそも社会全体について語る学問なんだろうか?
経営学と経済学は、もちろん共に資源制約の下での効率的利用を目的とするんだけど、後者が主に
社会全体の効用最大化を目指すのに対して、前者は時に社会全体の効用をかえって損なう決定を推奨しかねなかったりする。
既に上で述べた環境問題における企業行動が典型例だし、あるいは独占や寡占の追求、他企業とのカルテル、
最近も相次ぐ情報の非対称性を悪用した偽装問題など、企業は時に利益追求という存在意義に忠実なまま、
社会全体の最適化からは逸脱しちゃう場合がよくある。そうした行為には違法な物からグレーゾーンまで何でもあり。
他に経済学の概念上でだけで考えれば、ブランド構築・製品差別化、特許等の独占的使用販売権の取得等も、
完全競争を避ける狙いから行われる、社会全体の最適化に反した行動とみなせる。もちろんこれらの場合は
消費者や社会の利益となる場合もあるんだけど。ともかく経営が目指すのは本質的に部分最適・部分均衡なわけ。
このように企業はいろいろな経営的実践を通して、市場における競争を避け、超過利潤・独占利潤を得ようとする。
それに対して、各種公害規制や独占禁止政策・不正競争防止、情報の非対称性の排除などを通じて、市場メカニズムの
健全な作用を維持し、また時に所得再分配を考慮し、社会全体の効用最大化を目指すのが、一般的な意味で言う経済学の使命。
つまり、別々の学問として定立している以上当然なんだけど、経営学的実践における「全体」と、
経済学的・政治的・社会的実践における「全体」とは、多くの場合かけ離れているんだね。
よって、(仮に)経営学的営為の例としてトリアージを取り上げる場合でも、それらが一般的な意味で言う「全体」、
社会や国家全体に敷衍されて適用される恐れがあると考えるのは、学問の目標を見誤った、飛躍を含んだ主張じゃなかろーか。
●論点5
トリアージに関連して「他者性がない」選択と言うけど、その「他者」の扱いも恣意性を含んでいるのでは?
既出のようにこの世界のあらゆる物は有限であり、ある選択は必然的に他者の選択を制限してしまうのが世の常。
だからたとえば、日常の買い物で財布の中身と照らし合わせながら商品を決める(予算制約下の最適化行動)裏には、
売り上げ好調で繁栄する勝ち組企業と同時に、売れない商品を作って経営不振に陥り、場合によっては
倒産する「かわいそうな」負け組企業の存在があったりする。ひょっとしたら「切り捨て」られたその経営者は
自ら命を絶ってしまうかも知れない。その他日常ありふれた選択が、当然のように多くの他者の運命を決定している。
政治上の決定で見ればもっとわかりやすい、再分配は必ず財源を必要とする。
たとえば公共事業を削ればどうしても倒産は増えてしまう。増税だって薄く広いだけで景気を落ち込ませずには居られない。
以上のように考えれば、無視出来ない他者の範囲は空間的・時間的に際限なく広げる事が可能であり、
トリアージだけを取り上げ、その「他者性がない」側面を強調する行為には、恣意性が含まれているのではないかと。
●論点6
トリアージを「全体主義的な決定」「悪しき決断」と言うけど、平等な個人の自由な契約という所からも基礎付けられないだろーか。
仮に「災害時に被災・負傷し、物的人的制約のある災害医療の拠点に搬送された場合にどのような治療戦略を望むか」
という契約をあらかじめ(被災時に意識を失えば意思の確認が出来ず不公平なので)交わすとすれば、
そして公序良俗に反するという立場から、金銭などの代償を対価とした優遇や、自己犠牲を禁じ手とすれば、
自由かつ平等な個人は、期待生存率を最大にする為=自分自身の為にトリアージを選択する権利を行使するはず。
これが全体主義国家ならマイノリティは放置され、地位や能力のある者の治療を優先させられるかも知れない。
よってトリアージは「みんながひとりのために」でも「ひとりがみんなのために」でもなく、
「ひとりがひとりのために」という個人主義をベースとした選択と考える事も十分可能だと思う。
また自分の命が常に他者の命と可換であるという強い認識が働くから、他者認識がないという批判も的外れとなるはず。
(ちなみに治療従事者自体はロボットだって構わないわけで、その他者性認識を問題にする意義は仮想の話の上では薄いと思われ)。
以上はリベラリズムの基本である無知のヴェールのアイデアを多少拝借した物。
無知のヴェールとはリベラリズム上の社会正義のあり方を考える思考実験で、それを被された者は他人はもちろん
自分も含めたあらゆる属性・・・住所氏名年齢性別人種主義主張経済状態等々・・・がわからなくなってしまう。
その状態で、各個人は自身の利益も含めもっとも望ましく公正な社会の条件を考えてみよ、というのが実験の中身。
で、リベラリズム上の議論においては、その条件の下で「格差は最も弱い立場の人々の効用を最大化する目的でのみ正当化される」
という「格差原理」が導出される事になっている。では、トリアージの現場において、それがどのような人々に当たり、
かつその条件の下で選択要請される治療戦略とはどのような物になるだろうか、ちょっくらこれを考えてみる。
まず被災患者を症例・緊急度により以下のように分ける。
A.所与の医療資源・技術では、どれだけ治療を施しても亡くなってしまうとされるグループ(START法では黒いタグを付けられる)
そして以下のように選択可能な治療戦略が提示されているとする。
1.治療を受けられない人は「かわいそう」だから「公平に」症状は無視し、医療資源を人数分で割って全員に割り当てる「平等戦略」
2.治療を受けられない人は「かわいそう」だから「公平に」症状は無視し、各人へのくじ引きで割り当てを決める「機会均等戦略」
これら5つの内であれば、各人は全体最適など考えずとも(それを考えるのが完全な悪というのもおかしいんだけど)、
個人の利害に触発されて、自由かつ平等な権利の下に、最も自らの期待生存率の高い4のトリアージ戦略を選ぶはず。
ではその場合の「最も弱い」人はどの患者グループなのか、その効用はどうなるのかを不謹慎な表現も交えるかもだが次に検討。
もし医療資源を注ぎ込んでも「ほぼ」助からない黒いタグ、この場合グループAの患者だとすれば、どのような治療戦略においても
「ほぼ」死亡という結果に終わり、効用は「ほぼ」不変=「ほぼ」常に最大だからトリアージを選ぶ事は「ほぼ」許容される。
次に死亡状態とみなされる人ではなく、助かる可能性はあるが治療を必要とする赤や黄色のタグ、グループBに含まれる患者を
「最も弱い立場」とするならば、トリアージによって最も手厚く医療資源を配分される事になるから、やはり許容範囲となるはず。
問題はもちろんグループAについての「ほぼ」の取り扱い。技術水準の問題として閑却する事も話の上では出来るんだけど、
(前にネタのした時は確実に生存率を判定出来ると仮定したので簡単だった)、現実のトリアージではそうは行かない。
ただ、いずれにしても確率的な選択を強いられるのであれば、やっぱり4のトリアージ戦略しかないと思うんだけどね。
あと検討の順序が逆だったり、戦略や条件の設定の重複・恣意性等あるけど、まあ素人なんで大目に見てくださいな、と。
基本的には無知のヴェールまで降りて議論するまでもなく、最初の期待生存率+公序良俗の「治療戦略選択契約」の話で
大体OKと思うし、そこで「全体主義的」なる批判はシャットアウト可能だと考えてます。よってここらでこの論点終了。
字数制限でhttp://anond.hatelabo.jp/20080817193711へと続きます。目障りでごめんなさい。
またスペース取ると思うんで、すぐ流れるようにせめて一まとめで投稿。
http://anond.hatelabo.jp/20080814082906
反論(というかそういう主張が的外れという話)は直前記事の2段落目以降で尽きてるけど、
スルーされたようだし、一応元の「あらかじめ・・・」に反応した物と見てレスするよ。
男が自分の問題として考えた場合
その「自分の」というのも差別思想を内面化してるだけだと思うんだよね。
差別というのは色んな側面があって、男は氏ねという価値観の裏には、兵役のない女性や異民族は二級市民だとか、
男には裏返しで特権が存在したりした。だから自分から命を投げ出すような事が、何か名誉のような感覚があったんだと思う。
でも、今の時代はそういう特権も解体されて来てるから、一般的な価値観なんかじゃ到底なくなってると思うな。
だから、自分よりも見知らぬ第三者の女性や子供、あるいは老人を助けてほしいと願う人はそうはいないはず。
ただ、妻子優先はちょっと特別だよね。愛情とか血筋とかそういうごく個人的な事情が絡んでるから。
んで逆に、妻子を大事に思うからこそ(妻子が一緒に被災しない場合は)、むしろ期待生存率を高く
したいと願う夫もいるんじゃないかと。そういう意味でやっぱりトリアージは基本じゃないかなあ。
そしていずれの場合においても、自分の命を投げ出すという戦略はトリアージという一般的な治療戦略を
妨げる物ではないから(放置していい人間が増えるなら治療班の負担も減るからね)、あってもなくても
この場合実はどうって事ない。トリアージのオプションとして扱う事が可能で、だから特に問題ではないね。
ただし、現代社会を前提にすれば、自殺を推奨するかのような選択肢は最初から排除されてしまうと思う。
まあ元は仮の話なんだけどさ。
自分の命を考えるときに統計的生存率が先に立つ人はあまりいない
たとえば、命より比較的軽く扱われる日々の買い物や金融商品でも、広告や謳い文句と
違った効果・品質・利回りなんかを目にすると人間怒るよね。食品偽装等社会問題にもなってる。
大事に思うからこそ期待リターンに失望落胆するわけで、命がそうでないというのは非常に特殊な価値観だと思う。
病気になれば病院や診療所に通うし、健康が気になれば禁煙するし、車に乗ればシートベルトを装着するし、
あるいは元々徐行したり頑丈な車を選んだりとか、全て自分の命について期待リターンを計算した行動でしょ?
統計なんて事じゃなくて慣習や常識による予測でもいいし、直感的な物でも構わない。その原則には変わりないと思うな。
http://anond.hatelabo.jp/20080814131503
上でも書いたけど、自分から本当に命を投げ出して、かつそれが本当に認められる
のであれば、医師の負担をむしろ軽くする事につながるように思う。
かつ、それはトリアージを妨げずむしろ共存出来る。ただし社会的には難しいはず。
http://anond.hatelabo.jp/20080814134041
http://anond.hatelabo.jp/20080814135240
まあ仮の話だからさ。
そういう正当化も可能で、だからトリアージと他の何かとの組み合わせが、
全体主義へといきなりショートカットする事はありえないって流れの理屈だね。
でもたとえば、日本国憲法持ち出して法の下の平等や生存権や幸福追求権なんかを根拠に、
現にトリアージに社会契約が存在すると擬制する事も可能なんじゃないかな、とちょっと思った。
http://anond.hatelabo.jp/20080814153110
健康保険払いたくないという人はいて当然だと思うな。特に普段から健康に気をつけている人ほど。
緊急時の治療戦略を選ぶのとは違ってどうしてもコストが掛かる。そして健康な人ほど損する仕組みだから。
あとの「極限状況」とか「常態化」って論点はよくわからないな。
たとえば(汚いけど)映画が始まる3分前急に便意に襲われて、残り2時間我慢するか、今すぐさっさとトイレに駆け込むか、
そういう「緊急」の選択肢を迫られるのも「極限状況」だと思うし、多分今も日々日本のどこかで極限的な選択に
追い込まれる人は沢山いるはず。「極限状況」って言い方は物凄く恣意性が高いと思うし、抽象的に掘り下げれば
実は普通の日常と地続きである事がわかって、だからトリアージ的な状況は既にして「常態化」していると言えるはず。
そこは何の争点にもならないと思う、恣意性が高いという点でね。
いや、あなたのその文章自分では論理的だと思ってるのかもしれないけど、あなたの中でしか通用してないから。
別にこっちは相対化しようとしてるわけじゃない。むしろもし相対化されたと感じるならなぜなのかが知りたい。
そうでないとすればこの記事を書いた君の意図が理解できないからだ。では逆にきくが、スカートだの大食いだのの例は何のために持ち出したのだ?性差と行動の差が連動している例を他に持ち出した理由は何だ?
社会的に作られた格差は不公正なものであり、社会的な要因で決まっているスカートの格差も是正すべきと思ってるなら相対化されるはずもない。
だから誰がそんなこと思ってるんだっての。勝手に人の主張を作り上げないでくれ。
教育権は義務教育で保障されてるので十分でしょうに。生存権が不死を保障してるわけでないのと同様に教育だって無制限に保障してるわけじゃない。
残念ながらそれはあなたの俗流解釈。能力に応じて高等教育まで受けられるのが「基本的人権」であるという考えが、日本でも世界でもスタンダードだから。こちらを参照。
貧乏というのはほしいものが手に入りにくい状態のわけで高等教育より衣服や住居や娯楽のほうがいいという人ならそれで良いわけだよ。
だから個別のそんな例をいくら持ち出しても反論になってないと言ってるだろ。個別にそういう人がいたって構わんのは当然だが、社会的集団によって全体の傾向に大きな違いが出るとしたら問題だ、という話だ。それとも君は「貧乏人は学習意欲が低い」というのと「貧乏人の中には学習意欲が低い奴もいる」の区別がつかないというのかね。