皆々が我に詣でた後、おみくじを引く光景を見ていつも不思議に思うんだが、
箱をジャラジャラ振ってリズムを取りつつ、我に向かって必死に「♪大吉がっ♪出ますっ♪ようにっ」と願う奴が居る。
あれは、全くもって何の意味があるのかのぅ。
もちろん、我に「一年の幸せ」や「無病息災」を願うのはよくわかる。
しかし、「大吉」を願うなんてどうかしとるぞ。「大吉」かどうかは、そなたの性根を見て我が判断することじゃ。
例えば、占い師に「良い運勢出してくださいよ」と言って得られた結果に、そなたは信頼を置けるのかのう。
いや仮に、その場のちょっとの願いで運勢が変わり、思い通りの「大吉」を得られたとしてどうなるんじゃ。
そんなボラティリティを持つ結果であれば、例えば帰り道で容易に「大凶」に変わり、犬の糞でも踏みそうなもんじゃろう。
(「なーに、ウンがつく」ってか。やかましいわ。)
それに、「大吉」が出て喜ぶ奴もいまいちわからんのう。まあ、皆々の喜ぶ様子は見ていて悪い気はせぬものの。
そもそも、おみくじとは運勢を測るリトマス試験紙みたいなものなんじゃから、嬉しいも何も無いじゃろう。
その人に「大吉」が出るのは、その人が既に大吉に値する運勢を持っているから出るだけのこと。
宝くじのような偶然で出てくるのはない。偶然で結果が変わるのであれば、我の居る意味が無いじゃろう。
我の存在に関わることなので、二度繰り返すことにする。おみくじの結果は偶然ではなく、我の力じゃ。
だから、宝くじの当たりみたいに嬉しがられると、我は不思議な気持ちとなる。当たり前のことになぜ喜ぶのかと。
それはあたかも、レモン汁にリトマス試験紙を入れて赤くなったと喜んでるかのように見える。中学生か。
それより、「大吉」だの書かれた運勢の下にある我の記したエッセイをしっかり読んでもらいたいももんじゃ。
「大吉」かどうかは我の頭にビビっときてパパっと答えられる簡単なお仕事だが、
エッセイの部分は我が1年かけて必死に考えた珠玉の品々なんじゃからな。毎年考えるのも大変なことよ。
だから、そのエッセイを読んで欲しいがために、エッセイ通りの一年を送ると、運勢以上の幸せが得られるようになっているぞ。
ちなみに、それらしいことを言っておくと、そのエッセイを毎日の生活の参考にして初めて、その「大吉」という運勢が末長く成立するわけじゃ。
その点では、おみくじなども世の中の啓発書のひとつだと考えるとよろしい。
行動を変えるきっかけとして、現在の運勢を表示しているだけに過ぎぬ。おみくじと啓発書の違いはそれだけじゃ。
おみくじの書かれている運勢も、生活習慣病の指導をする際に血圧の値を示すようなもので、
別に血圧の値が重要なわけではない。だから、先に述べたとおり「大吉」を喜ぶ必要はないわけじゃ。
だから、「大吉」をただ有り難がって引き出しにしまっておくだけでは何の意味も無い。
そんなわけで、我の啓発書兼エッセイの重要性を力説したところで、この男もすなる増田というものを終えることとしよう。
それでは、よいお年を…始めてくだされ。
エッセイの方って数種類作ってランダムに組み合わせてるだけでしょ ずっと何年も前から同じの使ってるように見えるけど
くじ箱やくじ棒は神社毎に個性があるけど、 肝心のくじ札は日本各地どこでも同じでつまらん どうせ工場でまとめて作ってんだろ?
これって御信託?