どういうことかというとネットのコメント文化というのは元となる記事があってそれに対してコメントがつくものだ。
最近では記事そっちのけでコメントバトルなんかが常態化しているが、おおもとにあるのは記事である。
そこで、ある本を読了したあと、その本にまつわるコメント・レビューを読んでみるのだ。
これが面白い。
特に、しっかりした内容であれば批判コメントもものすごく参考になる。
自分はこの本は面白い、一気読みするくらい良い内容だった!と思ってても、
鋭い批判コメントを読むと、ああなるほど確かにその部分の言及が足りなかったかもなあ、と思い、
今度はその足りない部分に言及している本が読みたくなる。
本棚にあるずっと昔に読んだきりの本についても、コメントを読んでるとまたもっかい読んでみたいという気になる。
コメントを読むのは楽しいけれど、結局おおもとの記事なりコンテンツなりがしっかりしてないと、
コメント文化ってのはコメントそれ自体では成立しないとつくづく思った。
最近のコメント文化は元記事へのリスペクトそっちのけで自分の意見をコメントで主張してそれをやりとりするだけではと感じてもいたので、
この体験は良かった。
というか、コメントを読む時間とコンテンツを読む時間ならコンテンツ>コメントが通常であるはずなんだから、
その人のコメントばっかり追うよりは、
そのコメントを寄せている人のブログなりなんなりの方が魅力があるのではないか。
そう考えるとコンテンツって作るの難しいよな。ブログだって継続が一番難しいと言うし。
こうした編集のような手が加わったコンテンツとしての手応えが得られないからなのかな。
となると一応の結論としては、身銭を切るなどしてコンテンツへのリスペクトを形にしないと、
体験は充実化されないのかもしれない。
なるほどね。 そう考えると、身銭を切らない無料のコメント文化ってのは、 ある意味貧乏人の貧しいコミュニケーションという言い方もできるかもしれない。 まともなコストをかけな...