このコロナ禍の中でオリンピック開催を止めようとせずに参加を望む選手を批判するのが、増田も含めたネット社会の一部のムラの中で流行っているけど、リベラル的にそれらの言説は全体主義には当てはまらないの?
今まで競技に人生をかけてきて、これからの人生のオリンピックによって左右されるかもしれない選手たちを、”社会のため”という言葉の棍棒で袋叩きにして、世の中に対して非協力的な"悪"だと烙印を押すのは全体主義と何が違うの?
オリンピック選手批判がもしも正しい言説だというなら「少子化のせいで国が傾くので、女性の社会進出を妨げて家に閉じ込め、昔のように産めや増やせやしてもらおう。それに反するヤツは非国民だ!」って暴論だって通ることになってしまわない?
コロナのように今すぐ直接的に人が死ぬわけではなくても、少子化によって国力が弱まれば十分な医療が受けられずに死ぬ人は出るだろうし、日本という枠組みが滅びることにより様々な形で未来の日本人がその身の安全を脅かされる可能性もある。そういう意味ではコロナ対策への協力も少子化対策への協力も同じでしょ?
普段から個人の人権なんて知るか! ってスタンスの人はともかく、リベラル面しておきながらオリンピック選手批判している人達はどうやって自分の思想に折り合いをつけているのか非常に気になる。
いや、まあ俺もオリンピックの開催には反対だよ。
このご時世にオリンピックとかアホの極みだと思うさ。
ただ、それに人生がかかっている人達が開催を望むことが悪いことだとは思わないんだよ。
開催を望む意見には反対だけど、開催賛成派そのものを悪だというつもりはない。中止を望む世論が強まろうと彼らにはそれに抵抗する権利があると思っている。
その権利さえ否定して、「社会のことを考えている自分たちの意見に従わない者は悪人だ!」なんて言ってしまうのは、悪しき全体主義と同じだと思うから。
際限なく対抗する理屈を積み上げられるから、理屈をこねずとにかく反対することが重要なんだ