ふと気が付くとサボテンが枯れていた。
帰宅して、別のものに目をやった際にその枯れたサボテンが目についた。
まるで俺の人生の枯渇の様だ。
俺はそこにすら気をかけることができなくなっていたんだ。
だが、ある程度長期スパンの配慮をもってすることなので、そこの意識が飛んでしまった、そういうことだと思う。
そんなに仕事が忙しかったわけでもない。プライベートなんて特にない。
そこに気を向ける暇は十分にあったはずだ。
であるのにも気も向けられず、サボテンを枯らし、そしてそれがいつ枯れたのかすらも分からない、曖昧でクダグダな人生を送っている。
すべてへの興味を失い、ただ無為に生きることを消費している。
乾いた口内に食パンを詰め込み思考停止で咀嚼する様に、乾いた人生をただただ淡々と消化している様だ。
すべてが良くも悪くも大きく振れることはなく、寝て起きてうんこ製造マシンとして無為に生き、幾ばくかの寿命を消費する。
なんだろうか、この渇きは。
かといって潤すために動くつもりも努力するつもりも毛頭ない。
あと十年、数十年これを続けていくのか。
死にたいとは思わないが、このままのこれを続けていくことに何の意味があるのだろうか。
最近、死についてよく考える。
友人や親せきが死んだなんて話を聞いて、葬式に出たりでなかったり。
泣きはしないが、とたんに存在しなくなる彼ら彼女らに戸惑いながらも数日たてばそんなことは忘れている。
死ぬってなんだろう、この意識がふっと消えるのはどんなだろう。
そうすると、今寝て突然死したら、一生起きられないそういう意識なのか。
なんて考えて眠れなくなり、明日の仕事という気にしても意味のないことを気にかけて、寝れなくなり寝るために深酒をする。
俺は結局このサボテンの様に気が付いたら枯れるような、そんな人生を送るのだろう。
これは、このサボテンは燃えるゴミでいいのだろうか、多分そうだろう。
サボテンは枯れて、今週には燃やされるのだろう。
俺もいつしか枯れて、燃やされるのだろう。
贅沢は言わない、せめて燃やしてくれ。