ちまたに嫌と言うほどあふれているアカデミアの中にいる人間のグチのひとつなんですけどね。
ますだででもなければなかなか書けないので吐き出させていただければ。
少し前のことです。
とある公募の面接に呼んでいただきまして、いろいろ聞かれたわけですよ。
そんな中の質問の一つに「このポジションの任期が終わった後、どのような展望をお描きですか?」という質問がありました。
面接における典型的な質問なのですが、私、ここで気づいてしまったのです。
「私、先の展望なんて持っていないや…」と。
その面接のときはなんか上っ面をなでたような適当なことを答えました。
(結局その公募は不採用でした。採用された方を見ると確かに私よりも業績もあるし、順当でしたので、面接の結果には文句なんてございません)
私の中で衝撃だったのが、当然考えているべき「先の展望」をそもそも自分自身が考えることをー恐らく無意識のうちにー放棄していたという事実でした。
数年後、今の研究をどのように発展させていくのか、それに必要な自身のキャリアアップはどのようなものなのか、そういった「展望」を描くことは、言うまでもなく研究キャリアを形成していくうえで、重要でしょう。
しかし、私はその展望を描くことをこの数年間していないのです。避けていた、もしくは怠っていた、といってもいいのかもしれません。
ここ数年の私は、2-3年程度の任期職を渡り歩いています。いつテニュア職に着けるかなんてわかりません(目をつぶっていますが、テニュア職に就く能力があるのかもわかりません)。
梯子は2-3段上ると途切れてしまい、その都度霧の中に手を伸ばして次の梯子を必死に掴んできました。
かつては、上り続けていれば途中で途切れない長い梯子に到達するだろうし、いずれ屋上に行きついて晴れた空を見上げることもできるのだろう、と信じていました。
ただ、上れども上れども、つかめる梯子は数段で途切れるものばかり。霧の中で次の梯子に手を掛けるのも、どんどん難しくなっていきました。
やがて私は、常に「次の梯子に手を伸ばすこと」だけを考えるようになっていったのだと思います。
どうやって次の梯子を掴むか、という目の前の物事に囚われ、梯子を上りながら何をしたいのか、屋上に立った時に次にどうしたいのか、そういった「展望」を描くことはなくなり、むしろ「展望を描くことはむなしいこと」とすら思うようになっていったのです。
ビジョンなくして成功なんてしないだろう、と感じられるでしょう。
私もそう思います。
昔は大学の先生っていいなあって思ってたけど 今は目指さなくてよかったなーと 同じことを公務員や医者にも思う
こういう例もあるよ http://galenus.hatenablog.com/entry/2015/02/20/223013
https://anond.hatelabo.jp/20200829134201 これかな?