どちらも「死にたい」という点で同じ意味を持つが、自殺願望は自ら命を絶ちたいと願うことで希死念慮は自ら死ぬ気はないが何かの拍子に死んでしまいたいと思う気持ちである。
たしか中学2年の頃からだったと思う、自分には希死念慮がある。
希死念慮という言葉の響きがあまり好きでないので、自殺願望と比べる時以外は「死にたい気持ち」という。
(何となく漢字の「希」や「念慮」という言葉に違和感があるのと、感情の表現はより平易な言葉を使ったほうが想像しやすいからだ。)
「死にたい」
他人が聞けば何となくあんな感じかなと思うかもしれないが、自分にとってそれは何となくなどではなく手にとって形や大きさがわかるほど、一つ一つ凹凸や歪みがわかるほど鮮明に自分の中に在る。
中学2年といえばスポーツも勉強も多少暴力的なほどのスピードで学習する時期だ。
当時ちょうどアメリカにいた自分はそれと同じくらい暴力的なスピードで「沈黙」を覚えていった。
最初からそこにいたのかもしれないし、舞っていた塵がゆっくりと沈み形作ったのかもしれないし、最初はそこにいた違う感情が色を変えてしまったのかもしれない。
今となってはどうやってそれが自分の中で形作られたのか覚えていない。
それはちょうど手がかりの少ない歴史の一事象のように不確定さと推論をもって自分の中に在る。
「死にたい気持ち」に気づいてからは、ただずっと自殺願望と希死念慮と忘却を行ったり来たり。
忘却は決して長くは続かず、それが自分の内から来ているものだと裏打ちするようだ。
今となってはむしろその感情以外に自分を自分たらしめるものなどないのではないかとさえ思う。
「人間は必ずどこかに致命的な矛盾を持って生まれる」これは自分の好きな言葉の一つだが、死にたいと思う感情が生きている自分のアイデンティティなんて神はまったく皮肉な矛盾を与えたものだ。
自らの持つ毒で死ぬ蛇のように、数学という学問に刺さった不完全性原理というトゲのように、私はそれを愛している。生きなくちゃいけないという苦しみ以外は。