2016-11-13

心の拠り所としての日常

ぼくにとって、帰るべき場所は2つしかなかった。

母のいる実家と、彼女のいる家だ。

東京に出て6年、母とは8歳〜18歳まで二人暮らしで、毎年2回は帰省していた。

彼女とは地元で1年半ほど、東京で5年半ほど一緒だった。週末同棲のようなものだった。

この度、東京就職が決まった。

それで最後帰省になるかもしれないと思い、実家に帰って、母と2ヶ月ほど過ごした。体を悪くして、年々弱っていく母に、少しでも楽に過ごして欲しくて、家具家電を買った。

一人でも生きていけるように、PCの使い方を教えた。図書館に行って、調べものをする習慣をつけて欲しいと思って、自分もそうやって毎日過ごして、調べたり、勉強する姿勢を見せた。

ぼくが居なくても、少しでも楽に生きて欲しいと思ったから。本当は、もっとお金を稼いで、楽をさせてやりたいとも思う。それができない自分がもどかしかった。


そうこうしているうちに、東京に置いてきた彼女に振られた。

理由はよくわからないが、もう好きじゃなくなったとか、好きな人ができたとか。

まあ、彼女とは結婚することはないと思っていたし、ぼくも手伝って、彼女は納得のいく就職先を見つけ、自分で生きていくそうだ。良かった。

良かったと思っていたのだけれど、それは、後になって予想以上に大きい物を失ったと気づいた。

母のいる家は地元の僕の心の拠り所だし、東京での彼女の家は、東京のぼくの心の拠り所だったということに、いまになって気づいた。

おかえり、ただいま、一緒にご飯を食べて、たわいのない会話をして、それがいつまでも続くように思っていた。

実家を離れるとき、ぼくは、もう二度とこの日常を、長い時間味わい続けることはないのだと気づいて、深く悲しんだ。

同様に、彼女と過ごした5年半の日常は、ぼくの東京での生活を、目に見えないところで支えてくてれていたのだと気づいた。

そうして、2つの拠り所、日常を失って、ぼくはぼくの弱さに気づくとともに、今までぼくを支えてくれていた人の存在に気づいた。

そして、失うことに対して、何もできず、あまりに無力な自分けが残って、ただただ深い虚無感に包まれている。

  • 失礼ですが、でも男性がその若さで「心の拠り所」の大切さに気づくことが新鮮です。 離婚や死別を経験した男性の方が女性よりも落ち込みやすいのは、拠り所の提供度合いが偏って...

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