日本史は「卑弥呼」というヘンテコな人名を暗記することから始まる。
まあこれは当て字のようなものだし、考えたのは当時の中国人だから、あいつらが悪いということで済む。
しかし、少なくとも国風文化が発達してからの名付けに対しては、日本人が責任を負うべきであろう。
将来それを覚えることになるガキんちょのことも、少しは考えてほしかったのである。
わかりづらい読み方の名前をつけるな。難しい漢字の名前をつけるな。
源頼朝とか、あれでともと読ます由来が全くわからなかったぞ。だから二代目と三代目があんなことになるんだ。
それから当時一番腹立ったのが井伊直弼だ。弓・百・弓と覚えりゃ済むことだが、あいつ以外であの字見たことねーぞ。
あと木戸孝允の允の字もそうだ。桂小五郎でよかったものを、余計なことしやがって。
後醍醐天皇は生きてるうちに自分で名乗ったらしいが、なまじ有名なせいで避けて通れず、ガキどものヘイトを稼いでいる気がする。
そこへ来ると藤原道長の安定感は凄い。読み間違えようのない漢字から生まれる、圧倒的な存在感。
まさに望月のごとく、欠けたるところのない完全無欠なネーミングである。
惜しいのが子の頼通で、これをみちと読ますのはやや引っかけ臭い。
さらに平等院鳳凰堂なんてものを建ててしまった悪行と合わせると、こいつの代で衰退し始めたのも当然の報いではないだろうか。
オーバーに言ってしまえば、読みにくい名前、書きにくい名前をつけることは、世代間倫理にもとる行為なのである。
現代のキラキラネームを巡る議論を見ていると、その子がいじめられるとか、先生が読みづらいとかいうのばかりで、
「そんな名前をつけられた奴が、将来歴史に名を残すことはないだろう」という驕りがあるのではないか。
ピカチュウちゃんが何かの間違いで、歴史に残るような偉業を成し遂げちゃったらどうするんだよ。
未来の小学生がだな、この偉人は光宙だったか光忠だったか、大体なんて読むんだよなんて頭抱える姿を想像してみろ。
殺意覚えるぞ。いやもう死んでるだろうけどさ。