2015-11-15

この日記は、とても見られたものではないので読んではいけません!

散々書き散らしてきた痕跡を見れば、私が自分の半生に何ら充実感を認めていないことが理解出来るだろう。思春期後半のドロップアウト人生逆転する(この表現は嫌いだが)方策と言ったら、やはり一般に想起されるのは大学入試だ。しかし、例えば高三まで部活に邁進していた人間受験勉強で爆発的な成長を見せるのは、部活をしていたから成績が上がらなかったという理由付け、何かに熱中し没頭していたという自負、そして何かを成し遂げるという成功体験、こうした要素が揃っているから彼らは猛進する事が出来る。恵まれているのだ。

まり、「勉強はしていなかった『けれど』」という接続詞を以て自分歴史を語る事が出来るならばどうにでもなる。こうした論理展開自分への諦めを認めなければならないので避けたかったが致し方ない事だ、私にはかの品詞を引っ張り出してまで語り得る体験が何もない。全く屈辱的だ。私の掌から理由付けも自負も成功体験も、何もかもが溢れおち、今や纏わり付くような劣等感が私を腐らせ続けているのみである。本物になりたい。自分の熱意を疑う余地なく没頭出来るような物が欲しい。そう思う程に私は紛い物しか寄せ付ける事が出来なくなっていく。打算めいてくるからだ。目に見える成果や名声への期待、こういった事を考える度、感情には手垢が付き、そこからドンドン錆付いていくのだ。

そんな錆すら撥ね除けられる程の情熱必要なのだろうか?こう思う度、私はドンドン苦しくなっていく。「本物」の情熱と「偽物」の情熱が選り分けられていく。幼少の頃から嵌っている程、脇見も振らず熱中出来る程、本物に近付く事が出来る。私はもっと気楽になって良い筈だし、なるべきだ。それが出来ない理由は、とめどない自己否定に他ならない。こうして、私はいつまでも自分が「本物」と命名した物に近付く事が出来ない。劣等感による負の自己生産を繰り返し、慣れっこになってしまった自己沈滞を諦念ぎみに眺める。

実際には沈滞などしていない事に、私はまず気付かなければいけないのだ。つまり、「沈滞している」事ではなく、浮上への期待をまず捨てるべきなのだ。上を目指そうとする事自体が悪で、本当は上も下もないのだという事を発見しなければならない。そうすれば、この耐えざるルサンチマンにも決着を付ける事が出来るだろうか?

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