なんでもいいからはやくいきなよ。悪友のおんなにげしげしと足蹴にされながら非常階段へでた。かんかんと高いおとが靴のしたで鳴る。ぎらぎらした夜だ。それでもなかにいるよりはおちつく。
電波がわるいから屋上がいいよともうひとりの悪友のおんながいった。こちらはがみがみとしかりつけるような声色ではない。ありがとうとこたえる。
ひとまえで何かをするのはとてつもなくエネルギーを要する。みずからのぞんでここにたっているとしても。どだい、なにかを発するためにはどこかを消耗しているのだから、そのぶんの欠落がないかのように壇上でも舞台うらでもぎらぎらとふるまう人のむれの中にいるのは、いつまでたってもぶきみだし慣れない。
はらへったな。おどり場に腰をおろすとそんなことばが口をついてでた。腹がへったら喰わねばならない。
きみどり色のアイコンをおや指のはらでたたく。受話器のマークは近ごろのメインユーザーにつたわるものなのか。4コールほど待ってやわらかい声が耳朶をくすぐる。はい、──です、どうしたん、しごとじゃないのん。
どうもしないし元気だけどかけてはだめですか。息をすって、ききかえすのにすこし勇気がいった。いつのまにか、なにかがかなしくて、苦しくて、やりきれなくて、どうにもならなくなったときにこのひとにたすけをもとめるのがならいのようになっていた。
ほろほろと耳元で声がわらった。元気か、そうかそうかとってもよろしい。ほっとしてしまって、べらべらとくだらないことをしゃべった。これはいいものだとはなしながら思った。なんでもないことをずらずらとならべて、それであなたがわらうならいい。
そんなわけですごく元気なんだけどまたあってくれますか。ひとしきりはなしたあとまじめくさってたずねると、また、やわらかい笑声がほおをなでた。もちろんですお客さま。
おどけた声だった。ふかい意味もないようだった。それでも手指の骨がいたむような思いがあった。たしかにこちらがクライアントの立場にたち、おおやけの場で音やことばを発するおぜんだてをたのむこともあった。その点において、この人はまるで機械のように精確にひとののぞみをかなえるのだった。電波のかたすみでよくみる、時計や宝石の技師のようだった。
業務として、手もとにめぐってきた製品をよく識るために、かの女はそれらをやはり精確にきっかりの分量で愛した。甘すぎも重すぎもしない。ぬれそぼってもかわいてもおらず、自分のようになにかを発信したい、けれどもいちいち返信はうけとりたくないと思っているいいかげんなこの世のすべての日蔭のものかきどもにとって、のどから手がでるほどほしいものだった。
この人にあまえている、どうしようもなく。おぼれるようにだれかを乞いたい、適度に愛されもしたいけれど背おいたくない。そういうやからにとって自分はいかにも手ごろなのだと、かの女自身よくわかっている。だからなのか、よんでくれれば会いにいくといって笑う。こちらから会いにいくことはあまり歓迎されていない。この人には夫がいる。
日どりのはっきりしない約束もどきをかわして通話をおえた。唇がからからになっていた。あーあ。自分のどこがそんな音をたてるのかふしぎなくらいひしゃげた声がそのすき間からこぼれた。あーあ。とうとうやってしまった。とうとう録ってしまった。この世にはおそろしい技術がある。ふきっさらしの非常階段のまんなかで、せいぜい風にふかれてろくに録れていないことをねがう。