2013-10-23

読むとはどういう行為なのか。ある文章、または文章の束を指さして「それを読んだ」と呼ぶとき、これは文章と彼との間にどのような関係設立されたときなのだろうか。読むことが無限グラデーションの中の任意の選択として個々人の内部に立ち上げられる行為だとしても、それが、互いに比較不可能であり、検証不可能でさえある無数の公準のもとにそれぞれ独立平等裁定されるものであることは斥け得ない。俺はこう問うことによって自ら危険な罠に入りこもうとしている。ある書籍のあるページのある箇所を迷わず指さして「これを読んだ」という発言。見知らぬ大図書館を指さして「あれらを読んだ」という発言。公準が個々人の内部にしか存在しないならば、これらの意味をまったく同列のものとして扱うことを却下できない。ここでは当初の目論見が灰燼に帰して何もかもが無意味になってしまたかのようだ。だが逆に、破産されたこの地平から出発することもできる。その地平とは、指さすとき、読まれるものがすでに計量可能なひとつ単位経験空間を占める客体として実体化しているという現実である。何かここには、もの名詞関係のようなもの、それよりも原始的な、指示することの象徴機能とでも呼ぶべきものうごめいている。どうやら、われわれは指さすことで指さされた対象を枠で囲むだけなく、枠で囲まれた名づけえない体験からさらに何かを抽出し、機能としての抽象的な規則のものを括り出しているようだ。

「私は読む。」

――なにを?

「それは指さされなければならなかった。そして私は指をさす。」

――どこに? 

「そこに。」

――ああ、君が指さしているのはすでに私たちの了解そのものじゃないか。私が指示を求めたのは、君自身の経験なんだがね。

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