人間敵にバカだなと思う人に水平思考のスクリーニングテストを実施すると高確率で低得点になる。
これの意味することはすなわち水平思考とは人間力なのだ。人間力と密接なのではなく人間力そのものなのだ。
垂直思考とは論理思考に他ならないが論理にこだわり過ぎると一般に人間的な未熟さを露呈し始める。
一般に人にものを伝えるには論理が大切と思われている。人間多種多様だから違ったタイプの人間に主張を
伝えるには論理立てて話すことが確かに欠かせない。論理の使えない人間は同類どうしの狭い世界でしか
生きられない悲しい運命を背負っている。だが、こうも言えるのだ。すなわち論理とは体裁を整えて伝えやすくする
だけの役目しか持たず論理の材料を集めてくるには別の能力が必要なのだ。それが水平思考なのだ。
私は何故人々がそれぞれの狭い世界で一生を終えてしまうのか、何故思考の限界がこうも生涯にわたり
暗い影を落とすのかに興味を持って追跡調査してきた。その結果分かったのは思考観が思考の限界を決める
という事実だった。何が思考であり何が思考でないかを我々は無意識に取捨選択している。
水平思考が苦手な人はそのフィルターがきつい人であって嫌いなものが多い。最近弱々しい優男が
増えてきたこととも関係がある。嫌いだから頭皮的な行動をとってしまうのだ。彼らの人間力はどん底である。
垂直思考がかなり先天的なものであるのに対して水平思考は育ちにも大きく関係している。
狭苦しい思考観を植え付けられた人はロクな人間にならないということだ。こういうたぐいの現象は
枚挙にいとまが無いが思考観という角度から診たときにキレイに整理できることだろう。
するといくつかのタイプに思考観が分類でき、駄目なパターンとして次のようなものが浮かび上がってくる。
よくわからんからボツ、おもしろくないからボツ、根拠がないからボツ・・・。
普段からそうやって思考を狭めると多くの人は思考停止に陥る。何も考えることがなくなってドンドン雑になるのだ。
しかし一握りの人は狭いままで思考のスピードを維持でき、彼らが思考の模範としてあがめられてしまっているのだ。
他方で材料をどんどん広げる人は評価されない。何故だと思う?本当に良い材料を発見したなら評価される
と思うだろう?そうじゃないんだ。ここで先ほどから繰り返している思考観の概念が必要なのだ。
最初の行の3文字目から誤字とかもうね。 人をバカだと思う前に、ね。
ラテラルシンキング=批判しないって事じゃないんですよー 多様な切り口で見られるべきって言うだけで。 ラテラルシンキングとロジカルシンキングがセットでなされれば批判が増える...