多様性の時代に権威というのはどうなのだ、と思っている人もいるだろうが、
ここ数年のウェブの流れは、多様性の時代から画一的なものへ収斂へと動いていると思う。
プラットフォームもほぼ独占の様相であり、先んじて場所を確保した利益は遅れて参入した競合他社にはそうやすやすとは渡せない。
fc2動画がコメント投稿サービスも始めたが、それ以前より莫大な数のコメントを集めたニコニコ動画との差は歴然である。あのようなサービスにとってコメントの量というのは資源だ。荒らしコメントすら他のコメントを誘引するのだ。日本においては、おそらくfc2では動画プラットフォームとしても勝てない。Youtubeでなければ勝てない。
そしてTwitterでは多くのライト層を取り込み、多くの著名人が利用している。そしてそれはリアルな社会を反映し、格差を見せつける。
それは、フォロワー数であり、それは、ひとりの著名ユーザーと多くの凡人という宗教である。
実社会で成功した人間の意見を無思考無批判に受け入れる凡人は、異教徒の声に耳をかたむけることはない。
そしてそれはときに「上から目線」であったり、「どこの馬の骨が偉そうな口を利く」と言った差別感の吐露として顕れる。
人は、寄る辺を欲しがる。
かつてはテレビや新聞がその役割を担ってきたが、その権威は失墜した。
では、その潰えたものはそのまま淘汰されればいいのだろうか。また、淘汰されるべきだと望むか。
私は、否だと思う。
旧来的メディアの権力が、新興メディアへ移ったとしても、その復権を望む人は多いはずだ。
特に、「マスゴミ」と叩いている層にそれは多いと考える。
それは逆説的には、彼らが描くあるべき姿のメディアに戻りさえすれば、喜んでそれを受け入れるはずだ。
率直に言えば、バカと、そのバカな学生が通う大学を切り捨てたとき、彼らは大学に復権を見るはずだ。最高学府の名に恥じぬ権威、泥を塗ったバカを排除することができたことで、彼らは涙を流して喜ぶに違いない、と言えば大げさか。
権威とその失墜、そしてその復古。彼らはその革命を望んでいる。
また、既存権威の失墜により移り変わった新たなメディアに権威を見出し、縋る人がいる。
それは新たな既得権益の確保であり、それはかつて旧来的なメディアが歩んだ道である。
我らは、同じことしかしていない。