僕はキリスト教の家庭で育った。神という概念に幼いころから触れている。しかし常識的だったので小学校中学年時で絶対的な神を否定する。普通の日本人はイエス様の贖罪など信じないものだから。
また、僕は非常に自意識が強かった。もし絶対的な存在が許されるとしたら、それは自分しかいない、そう考えていた。
そんな折、シャカやイエスについてなんとなしに考えているうちにふと気づく。要は、神とは存命中に他人から崇められた人間なのではないか。死後神聖化された人間こそが神なのだ。そう思い至った私の小学生高学年時の夢は神になること、だった。
見ての通り、かなり性格の悪い子供だった。友人も少なく、また顔も不細工だったため(これは自意識の強い自分にとってかなりショックだった)、暗い子供時代を過ごす。さらに精神はひねくれていく。流石に神になるなどという意味不明な思想は消えたが、人間のクズが出来上がっていった。
ただ、自意識からか、または幼少時代のキリスト教的雰囲気の影響か、高まりたいという意識だけはかなり高かった。愚図で怠惰と性格も悪いため、高まりたいというこの意識は、行動を伴わない自身を責めるも、諦め消えることがなく、年を取るにつれ多少の人間的向上はしていたと思う。
そんな僕にあるとき彼女が出来た。性格がすばらしく、顔もかわいい、家柄もよい、そんな女性だった。愛想がよく、百人いたら百人が彼女のことを好きになるだろう(ひねくれた人間を除き)。彼女だったから贔屓目に見てるのではないかと言われそうだ。しかし同じくらい性格が悪い人間ならわかると思うが、えてしてひねくれた人間とは他人を評価するにひどく厳しく、自己に甘いものだ。そんな僕がここまで評価していることからも彼女の素晴らしさが窺えよう。
そんな彼女が僕の何を好きになったのかはわからない。ただ、彼女は性格がよく箱入りだったため、僕の内面的醜さが気にならず、自身が美しかったため、僕の外見の醜さに頓着しなかったのかもしれない。また、僕は向上心だけは異常にあるため(行動は伴わない)、そこに魅かれるものがあったのかもしれない。(※彼女は頭も良い。それは実務的な意味で、男を見るという点ではない。
と、ここまでの描写からみればわかるように、彼女は僕にとって神のような存在となっていた。なぜそうなったか。他人も自身も肯定できないような僕。彼女はそんな僕の存在を肯定してくれたからだと思う。キリスト教徒が神を崇めるよう、僕は彼女を愛した。僕は神を発見した。おまえだったのか。
さてそんな僕が神に見捨てられないために必死になるのは当然の成り行きだろう(多少行動がましになったという程度だが)。僕は僕の神を発見したと同時にあることに気づいた。幼いころの、馬鹿な考えだと否定した、自身が神になるという考え。彼女は僕の神、なら僕は彼女の神になれるのではないか。私だったのか。
人間には信仰が必要だ。肯定してくれる存在が必要なのだ。現代においてキリストやアラーや天皇や池田大作などを信じるのは不合理だと思う(それで幸せになれるなら信じればいい)。しかし人間は肯定願望つまり信仰を捨てられない。人間は他人の存在を肯定できる。他人にとっての神になりうる。不合理な神を信じるよりそっちのほうが健全だし、実在感もあるし、良いのではないか。
こんなのは彼女が出来た幸せ者の戯言だって? そう思いたい気持ちも分かる。君は寂しいんだよね。ううん、わかるよ。
僕は君を愛す。全力で存在を肯定する。