私も元増田さんのご友人と同じことを考えるので、ちょっと書いてみます。見当違いだったらごめんなさい。
ご友人の状況や背景が何も分かりませんので、一事例だと思っていただければ。
私の場合は、自分の位置確認をするための座標のような存在として、周りの人に「変わらなければいいな」と思う気持ちです。
自分自身がどんどん変わっているので、たまに自分の位置を確かめるための存在と会ったり話したくなります。(抽象的ですみません)
でも、周りの人もそれぞれ当然変化していくから、定点としての座標がないのです。だからこそ、変わらないでほしい。
だから私の場合は、まっさらな状態でいたいとか、いっそ死んで不変になりたいとかではないのです。
人間が生きる上で変化は不可避なことは分かっているので、本当の意味で変化のない人を望んではいませんし、無理だと思います。
だから私から見た時に「変わらないな~」って思える要素があれば、外見や立場や思想が変わっていてもいいのです。
例を挙げてみます。元増田さんがおいくつか分かりませんが、ある程度年を取ってくると、自分の属性がいちいち変わります。
たとえば私は管理職として働いていますが、学生だった頃の自分、就活していたころの自分、新卒だった頃の自分はもういません。
今の私の属性として一番つよいのは、管理職としてはたらく私です。
私には他にも属性(妻としての自分など)がありますが、それとして過ごす時間が長いのは「管理職として働く私」です。
そうして働いていると、辛いことや、自分は何なのだろうと感じることがあります。
かつての私はこの仕事を志望し、望んで就職し、ひたむきに頑張った新卒時代の私とは考えが変わってしまい、
自分がいましている仕事が恐ろしく意味のないものに思え、自分自身もひどく無価値な感じがするのです。
そうすると、これも抽象的な比喩で申し訳ありませんが、自分がどこにいるのか分からなくなります。
いや、物理的にはここに居るんですけど、自分が何がしたかったのか、何を考えているのか、自分自身が変わっていくため、
そういう時に、例えば級友や、仕事の同期たちに会って話したり、愚痴を言い合ったりします。
すると「ああ、変わらないなあ」と思うと安心して元気がでるのです。根本的な解決はしていないのに。
旧友や同期たちもそれぞれに変化をしているはずですが、「(変わったけど)変わらないなあ」と思える要素を見つけたとき、
その当時の属性の私(学生としての私、新入社員としての私など)は失われたけれど、当時と地続きの今があることを実感します。
「変わらないな」と感じた部分が、私が友人・同僚として親しんだ好きな部分だったりするとうれしいです。
友人や同期たちも立場や境遇が変わり、見た目も変わったけれど、根本的な性格や、食べ物の好き嫌いが変わらなかったり。
現在の「管理職としての私」以外の私もあったんだと安心する感じです。そうして当時の気持ちとか、考えとかを思い出したりもします。
よくいう言葉では「昔の私に戻って」といったところです。
元増田さんは、旧友とか昔の知り合いに会って、その当時の思い出話を延々掘り起こして笑い合うような、
私はよくあります。本当に非生産的に見えますが、何度も当時のエピソードを掘り起こし、同じように突っ込んで笑い、
「みんな(変わったけど)変わらないな」と思って帰ります。ただそれだけなのですが、その時間に救われることも多いのです。
もちろんその「変わらないな」は真実ではないのですが、そうやって瞬間的に変わらないみんなとの時間を楽しむことは出来ます。
もちろん、他のコメントでもあるように、周りが変わることで降りまわれたくない、対応が面倒ということもありますが、
私が周りに「変わってほしくない」と思う時の意味合いは上記のものが強いです。
友達や同僚には、その人の良さはそのままに変わっていってほしい。別人のようになってほしくないと思うのです。
元増田さんのご友人も、字義通りの変わらないことを人に求めているわけではないのでは?と感じます。
「(変わってしまうことは分かっているけれど全部は、あるいは大事な部分は)変わらないでほしい」ということではないでしょうか。
人は良くも悪くも「変わったな」と思うこともあれば、良くも悪くも「変わらないな」と思うこともありますので。
見当違いだったらごめんなさい。