10年前に投票できるようになってから選挙権を行使しなかったことはないが、毎回投票日の朝に候補者一覧をみて誰に入れるか決めてる。
選挙活動中の発言は耳触りがいいだけで信用できないし、掲げている公約とか所属の党とか応援してる政治家とか、出身や履歴とかしかみてない。
当日の朝に、出身校をみるに弱者への共感が弱そうだとか、福祉によりすぎてて現実的でないとか、ただの街の狂人枠だとかを感じ取って決めてる。
人が誰に多く入れそうだというのも考えるけど、深く考えすぎてもわからないから、基本的にはその場の直感だけが頼りだ。
どの候補もダメそうなのでバランスをとるために対抗馬っぽい人を選ぶこともあるし、
どの候補もダメそうなので比較的マシそうなメインストリームの人に入れることもある。
そんな感じだから、投票した人が誰だったか、夜の20時にNHKが自民党大勝利! のクソデカテロップを表示したらもうどうでもよくなるし、
夜に用事があったときは結果すら見ないでそのまま日常に戻る場合もある。
政治的信念がないまま選挙に行ってるので、単に若年層の投票率を上げる統計の一項目に貢献するだけの行為になっていることは否めない。
政見放送が話題になって知った口ではあるけれども、あれを見たときにこの人は現代アートであるなあと思った。
政治を舞台に芸術活動(?)をするというと、おそらく多くの善良な市民が眉をしかめるだろうが、
自分は芸術という行為が市民という概念よりも先行する場合がありうると思っている、
というか先行できないとすれば芸術というものを想定する必要がないと思う人間であるので、
政治の世界を舞台に芸術活動すること・できることは知的にも社会的にも人間的にも重要な行いのひとつであると思う。
また、後藤輝樹のあれが芸術であるとするのをよく思わない芸術畑の人もいると思うが、それに関しては反論しないけれども、しかし芸術だと感じたのだからしかたない。
マック赤坂とかN国党とかを芸術とは感じなかったが、後藤輝樹には感じたんだからしかたない。
後藤輝樹の活動にたいしてどのように支持することがベストなのかを考えた。
彼が芸術活動を行う場は政見放送であり、それをするのに必要な活動費は供託金なのだから、
供託金が返還されるよう応援の一票を注ぐことが、最良の活動サポートの仕方となるだろう。
果たして前回の後藤輝樹はそこまでの得票を得ずに終わっていたのだが、投票先を覚えている唯一の候補者となった。
今回も、他候補者がどれもパッとせず、後藤輝樹の活動の精彩さが失われておらず、絶対に当選はしないという前提が揺るがなさそうな空気であれば、
俺も誰に投票したかあんまり覚えてないな 前回の都知事選は、名前覚えてないけど、泡沫候補の誰かに入れたなー と思って調べたら、俺も後藤輝樹に入れてたわ