反逆の物語は、ほむほむにとって、最高のハッピーエンドで、それを認められない人の考え方はほむほむと同じ考え方をしている。
メリーバッドエンドとは、話の主人公にとってはハッピーエンドだが周りからみるとバッドエンドな話し、またはその逆で、周りはハッピーエンドなのだが、主人公にとってはバッドエンドな物語を指すようだ。(http://dic.nicovideo.jp/a/メリーバッドエンド)
参考URLが、ニコニコ大辞典しかないあたり、言葉自体が新しいのか、造語の域を抜けないのかもしれない。
反逆の物語は、ほむほむにとっては間違いなく唯一無二のハッピーエンドで、大多数の人にとっては、「ほむほむ幸せになって!」のバッドエンドと見えるので、この分類は間違いないと思う。
ほむほむに幸せになって欲しいと考える人の多くは、悪落ちする前のほむほむが、まどかに連れて行って貰って、円環の理の一部になることがハッピーエンドだと考えていると思う。
実際、劇場版のパンフレットで、虚淵玄(以外、ぶっち)が、まどかに連れ去ってもらってハッピーエンドにしたかったような内容が書いてあった。
製作者側(ぶっち側)は、ほむほむの心情を好きに弄れるので、ぶっちとしては、ソールジェムの中で魔女化したほむほむが、遮断フィールドを破られる(ほむらと一緒に破る)時に、ほむらに会いたい。それだけが叶えたいのぞみなんだと、心情を書き換えれば、誰もが望むハッピーエンドに出来た。
だが、反逆の物語のほむほむは、遮断フィールドを破られる前、既にまどかを自分の世界の中に連れ込むことを決めている。
「私はほむらのためにならどんなものにでもなれる」(記憶なのでセリフうる覚え)と言ってみたり、ほむらと一緒に弓を打つタイミングで、まどかに怖くないか聞かれた時、既に覚悟が決まった口調で「私はもう迷わない」(同上)と言っている。
この時点で、まどかに吸収されて円環の理の一部になるつもりだったらこんな決意はいらなかったはずだ。
ほむほむは、まどかを幸せにしたい。と、願って魔法少女になった。
これは、自分の力で、まどかを幸せにしたいと願った事に他ならない。
自分の力でまどかを幸せにしたい。まどかとずっと一緒にいたいと願ったほむほむは願っているが、まどかは既に概念の存在になっている今、生身のほむほむがその願いを叶えるには、自分の世界を作り出し、その中でまどか(それも、本物全体は無理なので、その一部)を引き込み、幸せにする以外の選択肢はない。
ほむほむは、はじめに魔女化した際、ソウルジェムの中で、それを実現しようとした。
この世界では、中にいる全ての人が幸せな世界とする事が出来たが、ほむほむ本人が、その世界に違和感を感じてしまう。
ソウルジェムの世界の中に居たまどかは、確かに本物のまどかだったが、そのまどかが、概念になったまどかの存在を悲しい存在だと感じていると勘違いしてしまう。
(実態は、概念になったまどかのところには最終的にみんな集まってくるし、まどかが概念になった瞬間に、既にさやかやマミさんが一緒にいた事になるので、その瞬間から「誰にも会えないさみしい存在」にはなっていないと、私は思う。)
その結果、「自分が間違ってた。まどかを概念にしてはいけなかった」と考えたほむほむは、今の状況下でまどかを幸せにするには、まどかを自分の世界でもう一度人間として幸せにするしかないと考えた。
ここは、想定の域を出ないが、ほむほむは、魔法を使えば、まどかが概念になる前の世界にまだ戻れたんだと思う。
ただ、なんどやってもワルプルギスの夜を倒せないほむほむには、まどかを概念化させる事は防げなかった。
結果、ほむほむに出来たのは、まどかを救えないと言う絶望を積み上げる事と、その絶望を積み上げて魔女化した結果まどかに会えると言う希望を極限まで溜め込む事だけだった。
まどかがほむらによって因果が積み重ねられ、概念になったように、ほむほむも概念になるために必要な因果を自分で積み重ね、概念になる事が出来た。
概念になったほむほむが同じく概念になったまどかを幸せにするには、まどかの人格部分を切り取って自分の世界の中に取り込んで、人間として幸せになってもらうしかない。
これを実現したほむほむは、自分の力でまどかを幸せすると言う、ほむほむが望んでいた幸せを手に入れる事が出来た。
ただし、この結果は、決してまどかが望んでいるものではない事を、ほむほむもわかっていた。
だから、あえて自分を悪魔であると名乗り、自分の行動はまどかの望んだものではないが、自分自身の望みを叶えると、自分を悪者にした。
これは、ほむほむにとって、最高に幸せで、最高に背徳的な行為だったに違いない。
まどかの概念化を自分の力で止められない敗北感を感じながら、まどかの意思に反して自分の私利私欲のために、自分の出来る方法で、まどかを幸せしようとする。
それは、私利私欲のためにする背徳的な行為で、背徳的な幸せであるが故に、最高に気持ち良い。絶頂感すら感じるその快感の中にいるほむほむは、その世界の中では常に扇状的な表情をしている。
これはたまらないだろう。
ほむほむは、まどかの意思に反して自分の世界で、幸せになった。
ほむほむは自分の望みを叶え、とても幸せな背徳感を手に入れた。
ほむほむが、「自分がまどかを幸せにしたい」と言う欲望を叶えるうえで、これ以上の方法はない。
そう言う意味で、この物語は、ほむほむにとって、最高のハッピーエンドだし、それを否定する人は、この話の中のほむほむの幸せを否定しているに他ならない。
こんな幸せの形は間違っていると思う人は、まどかの望む形を拒否して、自分の幸せの形を実現したほむほむと同じ考え方をしている事になる。
しかし、ほむほむの幸せを望む人達が求めているのは、そう言う事では無いだろう。求めているのは、ぶっちがほむほむを幸せに出来た形での幸せだろう。
もちろん、それを望む気持ちはわかる。
でも、それは、今回の映画の中のほむほむの人格を否定する事になる。
私としては、ほむほむが、まどかの提供する幸せの形に流されてしまう弱い存在ではなく、自分の願いをねじ曲がった形でも満たしてしまう、今の終わり方が、ほむほむの強さ、弱さをよく表していて、凄く好意を持てた。
「ほむほむ」か「ほむら」かで表記を統一してほしいです