この辺て逆にある種の摂食障害とも似てるよな。やせてもやせてもまだ太っているような気がする。他人から痩せすぎて気持ち悪いっていわれても全然納得できない。どう考えても自分は太っている、っていう。
自分が持ってしまった平均像とか理想像の高すぎ加減(自分では高すぎとは思えない)、そして自己イメージの現実との剥離(自分では剥離してるとは思えない)、この辺が相まって苦しみが永遠に続くわけだ。
これは出来あがちゃった感覚であって他人から指摘されても絶対に治らない。かく言う俺もそうだから。他人からかっこいいって言われることもちょいちょいあるんだけど、まったく納得できない。自分ではとてもそうは思えないから。その上でブサイクである自分のことが嫌で嫌でしょうがない。他人による自分の評価より自分による自分の評価の方が圧倒的に正しいという確信がなぜかある。
ただ治りそうな方法を一つだけ思いついている。実現は難しいけど。
動画や写真で自分のあらゆる場面(裸含む)を大量に写してもらい(他人に)、同様の条件で1000人くらいの同性同世代を写し、それを美醜の序列に従って並べ、その中に自分も当てはめる。これによって自分の位置を正確に把握することが出来る。
鏡は自分を写さないから、これに勝る美醜の評価法はない。
そして、評価が可視化されると、そこで初めて俺はいい意味で諦めることが出来るんじゃないかと思う。美醜に一喜一憂(前髪の流れ一つで外出したくなくなるから)しなくなって、気負いがすっと抜けてホッとするんじゃないかと思ってる。
だけどこのアイデアの実現は難しいだろうなあ、、、。
日本において学歴=就職のツールという誤った考えが普及しているせいもあるけどさ
それ以上に女性は学んだ知識を役立たせないことが多いからじゃね。
のび「ド、ドラえもんさーーーん!!!」
ドラ「なんだ、うるせぇな」
のび「ちゃ、チャカをくだせぇ。ジャイアンのタマ取って、俺も…、俺もぉぉぉッ!!!」
ドラ「またかよ。ったく、しょーがねぇな」
ぱらららっぱらー「改造xxxxxx」
ドラ「おら、つかまんじゃねーぞ」
のび「ド、ドラえもんさーーーん!!!」
…みたいな感じ?
その塾長みたいな例が一般化できるとはとても思えないが、まぁ世間一般的に言って女には「女子力を磨いて結婚して食わせて貰う」っていう選択肢があるのは事実なわけで、そのオプションの分全体で見て必死さは低下するだろうねえ。
ある町で、たてつづけに三階建ての家が放火される。
そんなときに、ある人が三階建ての家を建てて、案の定、放火されてしまう。
「この状況で三階建ての家を建てるのが悪い」と放火魔が家主を馬鹿にする。
そういう話だよな。マッチポンプというか何と言うか。
差別を生み出しているのが自分であるにも関わらず、まるで差別されている人が悪いかのように振舞う。
「理由があれば差別は許される」と考え、その差別するための理由を、自分で作り出している。
二重の罪だ。
ホモだろうがスカトロだろうがロリコンだろうが差別される謂れはない。
ホモに襲われたり、糞をむりやり食わされたり、自分の娘が犯されたときは、粛々と法律に則って対処すればいい。
もちろん、そこに至ってもなお差別は許されない。
芸人の名前を人名と捕らえるか、固有名詞と捕らえるかの違いじゃないかと。
しかしはてサがぶくまで暴れ回ってるので
マジで?
これだけのハイペースでこのクオリティの文章を書いてくれる人はそういないと思うが…。
・そもそも、この文章って何に役に立つの?
ちょっと大袈裟な言い方だけど、「数学なんて勉強して何の役に立つの?」っていう子供の質問と同じだと思う。
ちなみに、「他に見た方がいい文章や本」もそりゃいっぱいあると思うけど、たとえばどんなの?
女子に学問は不要的な育て方をする家庭は未だにあるわけだし。
それどこの辺境ですか?
少なくともうちの周りにはいませんね。
今CXの番組を見ていたら、その中に小学生に二人の芸人を提示してどちらが面白くないか答えさせるコーナーがあった。
で、見ていたら何か不快な違和感を感じた。小学生が答える。芸人が落ち込む、つっこむ。スタジオが湧く。よくあるバラエティの流れだ。小学生はつまらない方を言えと指示されているわけだから、まあ多少酷いことを言ってもそれは番組のためだし問題はない。酷いことをいわれているわけだからそれにつっこむ芸人も普通。なにが違和感を感じさせているのか。
最初は本当によく分からなかったが、数分見ていたら分かった。VTRの小学生の95%以上が芸人の名を呼び捨てにしている。それだ。
僕の感覚では、会ったこともない人間を呼び捨てにできるということの意味が分からない。確かに芸人は、というか芸能人は「テレビに出ている」ということだけでもの凄い遠い存在であり、一種のアイコンとしての存在であって、普通の人間とは全く違う。人として捉えなくてもいいのかもしれない。
しかしどうだろう。普通は小学生、もしくはそれ以下の年齢の時分に親から「大人の人は『さん』をつけて呼びなさい」といったニュアンスのことを躾けられるものではないのだろうか。そして少なくとも「芸能人だから云々」といった認識が発生する小学校高学年くらいまでは躾けられた通りに「さん」付けで呼ぶものではないのだろうか。
こういう話は僕がおかしいだけという可能性も存分に有り得るので「常識」などという言葉を使うつもりはないが、実際、不思議だ。
携帯ならいざ知らず、PCのメールで件目にこだわらない人がいる。
多いのが、「お疲れさまです」「こんにちは」とか挨拶だけの人。これならまだ無題の方がマシ。
せめて用件をタイトルにすればいいのに。自分で見る時困らないのだろうか?
何度言っても変わらないから呆れてくるんだけど、やっぱり気になる。どうにかしてもらいたい。
ただ、あまり言い過ぎると気分を害されるので注意が必要。
メールだと単なる指摘も重く受け取られる事があるし。
それに、メールってそれぞれの書き方というか、定型文ってあるからね。
「お疲れさまです」で始まって、「宜しくお願いします」で終わるとか。
たまに「何がお願いしますなんだ?」っと思う事があるけど、本人にとってはその書き方が良いんだろう。
メールで相手の気分を害さない為にも、出来るだけ相手と同じような書き方で返信をするが
そうやって根拠なく他人を非難・中傷するお前のような奴から身を守るために
ある。死ぬほど腹が立つってわけじゃないけど、すごく嫌な気持ちになるし、いらいらする。
しかもやり場のないイライラだからすごく疲れる。
リアルの交友関係では陰口を叩く人はほぼいないんだけど、以前からひとりだけ愚痴ばっかりいう苦手な子がいて、その子の引く行動も笑顔でスルーしてきたのにこないだあまりにもひどくてつい真顔になってしまった。前はスルーできてたのになー
・こんなツマンナイ文章を見るぐらいなら馬鹿の方が良いと思った。
・そもそも、この文章って何に役に立つの?
・こんなのより、他に見た方が良い文章や本がいっぱいあるんじゃないか?
横だが、「誰から」じゃなくて「何を」認められたいかの問題じゃないかな。
「元増田の」努力じゃなくて、元増田は「努力そのものの価値」がないがしろにされて怒ってるように見える。
なんか、 冷たい怒り - アンカテを思い出した。
http://anond.hatelabo.jp/20090925190609
なるほど!
んで前提にあるのが以下の2点
1.未来はわからない
結局、現在の最適な選択が、未来の最高の結果を導くとは限らない。
だからこそ、現在の選択はあまり気にしない。
大事なのは、選択した後の行動。
自分の中の割合として、選択2割、選択に伴う行動8割。
だから選択に時間を使うよりは、行動に時間を使うようにしてる。
2,とりあえず行動し試行回数を増やす
たとえば自分が打率2割だとして、10打席だと2本のヒットしか打てない。
でも100打席だと20本ヒットを打てる。
打率3割の打者と勝負して、そいつが、66打席しか打席に立たないのであれば自分がヒット数では勝てる。
後、試行回数を増やす一番重要な点として、「成長することができる。」
人間って面白いもので、何回も何回も同じ問題を解いていると無意識に答えがわかる。
百貨店の例だと、試行回数を増やせばだいたい百貨店の配置がわかる。
要するに無意識の中の案内図が勝手にできあがるからそれに従えばいい。
失敗しない?それは「未来はわからない」のであって、失敗するときは失敗する。
気にしない。
こんな感じかな。
マジョリティの傲慢さとは、
差別したけりゃすればいいし、偏見持ちたければ偏見持てばいいんだけど、
その行為や存在の責任を「自分(私)」から「世間」に転嫁することで、自分の行為や感情の存在から逃げる
この応用が「○○は許されない」という論理ね。
「自分は許さない」といえばいいのに、なぜか「○○は許されない」と置き換えたがる。
そんなに自分の言動から逃げたいのかねえ。
何も言わない奴が賢いとか勘違いしてる奴よりはマシ。