はてなキーワード: 施設とは
姫路市長が外国人の料金を4倍にしたいという話をしたニュースについて、外国でもやってるから〜みたいなコメントが見られるが、これはただの観光施設ではなく地方自治体の施設であり、その辺りで引っかかるかもしれないところ。
「公の施設」とは地方自治法244条にて「住民の福祉を増進する目的をもってその利用に供するための施設」と規定されている。
また、同法244条の2において、特別な定めがある場合を除き設置や管理は条例で定めることとされている。
翻って姫路城であるが、姫路市の条例にその名もずばりな「姫路城管理条例」というものがあり、公の施設である。
地方自治法255条において、公の施設の利用について使用料を徴することができる旨定められている。この使用料であるが、当該公の施設に係る住民とそれ以外とで格差を設けること自体は可能と解されている。
実際のところ、文化会館やプールなどで市内在住者とそれ以外で料金が異なる例は見たことがあるだろう。
使用料以外でも、図書館で本を借りられる人が市内や近隣在住者に限られている例などもある。
公の施設は「住民の福祉を増進する目的をもってその利用に供するための施設」であり、一義的には住民のためのものだからだ。
ちなみに、外国人住民も住民であり、当該自治体の住民ならば、国籍如何で格差を設けることはできない。
公の施設について、使用料や対象者に差を設けることは可能である。しかしながら、憲法14条(法の下の平等)もあり、著しい格差はよしとされず、これらの差には当然一定の合理性が求められる。その上で、ざっくり2つの懸念がある。
料金を上げるとして、公の施設での使用料の格差はあっても2倍程度が相場であり、4倍は著しい格差であるとの指摘は当然出て来よう。この格差に至る理論武装は避けられない。
姫路城は公の施設であり、基本的には姫路市民のための施設だ。差を設けるのなら市民とそれ以外で分けるのが基本であり、次いで近隣市町など一定の生活圏などで区切るのが常道だ。市長の言う「外国人」が指す者は推測の域を出ないが、例えば外国人観光客と遠方からの邦人観光客など、差をつけるに足る理由はあるのだろうか。
姫路市長がどこまで考えて発言したかはわからないが、こういったハードルにどう対処するのか、姫路市役所の職員の手腕に期待である。
神宮と外苑は当時ともに国有地でした。神宮の土地は、国が神宮に無償譲渡する一方、スポーツ施設が集積する外苑は国有地のままスポーツ団体を交えた委員会が運営するという文部省(当時)案が五一年六月にまとまりました。
文部省は五二年一月、施設運営を認める代わりに条件を神宮に示しました。
▼アマチュアスポーツの趣旨にのっとり、使用料・入場料を極めて低廉に
▼施設を絶えず補修する経費の見通しがある
この四条件を神宮が受け入れ、土地も時価の半額で国が神宮に譲渡することで決着しました。以上の経緯は神宮発行の「明治神宮外苑七十年誌」から引きました。
主人公が働くコンビニの新人として入ってくる白羽。「男なのにコンビニバイト程度の職にしかつけない」(この職業蔑視も白羽の意見)理由を、現代は縄文時代と変わらないムラ社会で社会不適合者に厳しいせいだと主張する。
「僕はずっと復讐したかったんだ。女というだけで寄生虫になることが許されている奴等に。僕自身が寄生虫になってやるって、ずっと思っていたんですよ」
市川沙央『ハンチバック』
主人公が暮らす施設のヘルパーである田中。低身長で包茎(手術済み)。重度身体障害者で金には困らない主人公に対し、田中は健常者の男性ではあるが貧乏でモテないため主人公を憎んでいる。「インセル」や「弱者男性」といったワードも登場する。
どっちも有名作だし、弱者男性はむしろ女性作家の興味が向きやすい人物像だと思う。彼らは愚かしい人物として描写されてはいるが、ある種主人公のご同類であり、同じ穴のムジナとして描かれている。
男性作家だと自称弱者男性が私小説的な作品で主人公に据えるパターンはいっぱいあるけど、いうほど登場しなくないか?しかも私小説だと、現実の作者は作品を完成させる能力があり商業出版されたりもしてるという矛盾がある。
なぜ弱者男性がフィクションに登場しづらいか。腹の中で不満をたぎらせてるだけで全然行動しないパーソナリティだから物語が動かないんだよ。
そのかわり内面描写が得意な小説では「現実では関わりたくないし自分はなりたくないけど、あいつらの生態を知りたい」という怖いもの見たさ的な需要がある。そして弱者男性は誰からも透明な存在だが、女性は謎の敵意を向けられたりしつこく言い寄られたりと、加害される形で不本意に関わる機会が結構あるので興味が向きやすい。
大臣ってドラクエで王様の横にいるなんか役に立たない奴のイメージしかない。まあそうでなくともトップの肩書きと言う感じはしないのに、現実には本邦の政治リーダーが内閣総理「大臣」だったりしてしっくり来ない。天皇制が云々とか色々あるんだろうけど。やっぱ大統領とかの方がかっこいいと思う。
それで言ったら総書記の方がもっとしっくり来ないけど。書記なんて学級会で字が割と綺麗な奴が押し付けられるやつじゃん。会社の会議の議事録を作る役にしたって、内容をまとめはするだろうけど別に自分が引っ張っていくという感じではないだろうし。
あくまで指導者ではなく民意を整理するだけの立場、という独裁者の建前だったりするんだろうか。
北大西洋条約機構も、なんかご立派な施設で書類でも仕事してそうな感じなのに軍事同盟なのが全然しっくり来ない。そもそも委員会とかそういう概念に近い言葉の印象があって、実体的なモノを伴った組織の名前っぽくない。NATO弾とか言われると、なんか「赤城乳業製のパソコン」くらい変な感じがする。
今年28歳、大したことない地方国立工学部学卒。新卒で奇跡的に某電力に内定を貰い、喜び勇んで入社した。配属は原子力部門。原発で働いている。
俺のところの原発はまだ再稼働していないのでもっぱらデスクワーク。資料を作ったり直したりがメインの仕事。
残業は長めだが、後述するように給料は高いし、人間関係にも恵まれている。給料が高いので皆ある程度心にゆとりがあるのが大きいだろう。
で、毎日何をやっているかというと、今のところはお国向けの許認可対応用社内資料を作っている。
勤務時間のだいたい半分くらいは誤字脱字・てにをは・レイアウト修正。あとの時間は会議とか雑務。
出張はほとんどないが、研修で外に出ることはある。出張すると飯代の名目で小遣いがもらえるので嬉しい。
お国に提出するものだと考えると体裁が重要になるので、目を皿のようにしてチェックしているが、難易度は正直高くない。
それで年収は残業代込み600万超。28歳の時点でこれだぜ?仕事の負荷、労働強度で考えるとかなりの高収入じゃなかろうか。
勤務地は一言でいうと僻地。独身寮があるのでそこに住んでいる。
寮から職場までは(当然といえば当然だが)バスの通勤ルートが完備され、皆それが前提なのでアフターファイブ的なことも気にしなくて良い。
飲酒運転の厳しいこの時代に、車を使わないと飲み屋ですら行くのが難しい。笑
唯一ギリ徒歩圏内にスーパーとコンビニが一軒ずつあるが、それだけ。
けど俺にはアマプラがある。これのおかげで文化的な生活を送れていると言っても過言ではない。サンキューベゾス
食事は朝晩は寮が食堂を開いてくれており、自炊する必要もなくかつ安い。
昼は原発の食堂。コンビニよりは栄養バランスも考えられて、コスパもいいし、毎日数種類から選べ、その選択肢自体も適宜アップデートされる。
毎食のメニューを考えなくてもバリエーションのある食事を摂れるというのは、自炊経験がある奴ならその有難さが理解できるだろう。
30が見えている今婚活という単語も意識する世代だが、社内には出会いが無い。
だが車も生活の前提なので中古も新車も入手性がよく、行動半径が広い。車を飛ばして県庁所在地に行けば女も捕まる。
家賃が安いので、可処分所得は同世代の似たキャリアの東京住みよりもなんなら高く、駐車場は大抵無料なので車の維持も容易だ。
行った先では酒を飲む関係で一泊することになるが、カプセルホテルかネカフェみたいな施設もちゃんとあるので、安く済ませたければそこで寝ればいい。
そうやって結婚していった人はよく見るし、地元では最強クラスの名刺なので婚活を始めれば容易なのもわかっている。結婚相手で苦労する人はほとんど聞いたことが無い。
電力はガチゴチの年功序列だから、飛び級みたいな出世は期待できないが、その分何歳になったら給料なんぼかというのは全部分かり人生計画が立てやすい。
遅くとも42歳までには管理職に上がり、年収1000万。ペイペイ管理職以上に上がれるやつは相当少ないが、最低ラインでそれだというのがデカい。
今の生活が至上至福かと言われると、まぁ多少の不満がないといえば嘘になるが、とはいえ富みすぎず乏しすぎず、中の上をキープできており非常に安定している。
まさに「トンカツをいつでも食えるくらい」の人間になったという実感がある。幸せと言ってもいいだろう。
安定しすぎて引退老人みたいな精神性になってしまうのが逆に怖いかな。そこはネットも駆使してインプット・アウトプットを怠らないことでカバーしたい。
土日祝休みに有休も十分なので、それを活かして資格にも挑戦しようと思ってるし、彼女も欲しい。やることは尽きない。
俺は学生時代からずっと楽器をやってて、社会人になっても惰性で続けていた。
楽器は、単音楽器だ。だからひとりでやっても音楽として完結しにくいしあんまり面白くない。だから、いつも何かしらのバンドに所属していた。
バンドといっても、ロックバンドのような4ピースバンドとかそんな感じの規模感のものではない。
ビッグバンドとかスカバンドとか吹奏楽とかオーケストラとかそう言うイメージ。
俺は社会人になってから、いつも平メンバーとしてどこかしらのバンドに所属し、たまに雑務をやることもあったが、大体はただプレイヤーとして参加していた。
地方のこの界隈では俺は割とプレイングスキルがある方で、プレイヤーとして重宝されがちだった。
その一方で俺はめちゃくちゃコミュ障で、活動後の飲み会とかはあんまり参加しないor参加してもすみっこで延々と生ビールを舐めてるだけだった。
ただ、活動の時は割と大人数の中でも目立つくらいに「上手い側」の人間だったからか、そんな感じでも声をかけてくれる人がいたり慕ってくれる人がいたりした。
楽器自体はもちろんアクティビティとして好きだったが、それ以上に対人スキルがなくても人と接するツールとして重要だった。仕事が忙しくてなかなか時間が取れないとき、辞めようと思うこともあったが、そのことを思うと辞められなかった。半ば惰性になっても、続けていた。
20代も後半に差し掛かった頃、ネットで新たにバンドメンバーの募集があった。
そのバンドはこれから新規で立ち上げるバンドだそうで、設立メンバーを募集していた。
そして、そのバンドがやるジャンルが、俺がずっとやってみたかったジャンルだった。
おもえば、長い年月ですっかり忘れていたけど、これがやりたくて、この楽器を手に取ったんだった。そんなジャンルだった。
俺は今までになく熱量を持って応募した。
ジャンルが珍しかったためか、楽器経験はあるがバンド経験がないという人は多かった。このバンドの発起人自身もそう言う人で、とても驚いた。大人になってから楽器を始めた初心者もいた。
楽器経験も長く、バンドもいくらか経験があった俺は、右も左も分からないその烏合の衆に頼られて、俺は初めて「運営側」となってバンドに参加することになった。
運営側って大変だった。
これまで平メンバーとして参加していたバンドで、何となく知ったことや、耳に入ってきたこと、実際自分がやってきたこと、それらの知識を総動員して運営して行った。
まずは実務の部分。最初に会計の整備、予算をざっくり出して会費などが決まったら、名簿や規約の整備、活動会場の選定や手配、地域の施設を利用するための組織登録、連盟(社会人サークルの互助会のようなもん)への登録申請。
ある程度軌道に乗ったら、広報活動。SNSやWebサイト、チラシなどの運用。メンバーはまだまだ足りなかったので、かき集めなければならなかった。募集要項のとりきめ。
演奏が様になってきたら、次は披露する場を設けたい。公民館はその手のイベントを各週末にやるために奔走してる場合が多いので売り込み。他にも自主開催のために箱を手配。また会計、広報、そして楽曲の利用許可申請。
珍しいジャンルのバンドだったためか、ズブの素人から俺のように経験が長いのもいたし、セミプロみたいなのも入ってきて、メンバーはカオス状態だった。
俺はプレイングの面でもメンバーを引っ張って行かなければならなかった。
まず、ガンガン高難度の楽曲に挑戦したい人、易しい楽曲を楽しく演奏したい人、それらの要望をなるべく公約数化してセットリストを作成。もちろん著作権などの権利的に可能な範囲におさめなければならない。
そして、できるひと、できないひと、その人の得意なこと、苦手なこと、把握して、アンサンブルの整理と調整。
俺が今まで1プレイヤーとして肌感覚でやってきたことを言語化したり、音楽理論として頭に入っていることをわかりやすく噛み砕くなどして、わからない人にも伝える。そして、俺よりウエの腕っぷしの人からは、吸収したり、教えてもらったり。
メンバーたちの不満の聞き取り。あの曲は難しすぎて苦痛とか、今回のセットリストは好きな曲が少なくてしんどいとか、あの人の演奏は不快だとか、あの人が臭くてとなりで演奏するのが苦痛とか。
要望の聞き取りもした。こんな音楽や楽曲やってみたいと言う話から、合宿をしたい、BBQをしたい、とかそんなことも。
運営は大変だった。
俺には向いてないな、なんて思うこともいっぱいあった。
でも、ここでは俺がやりたかった音楽ジャンルができる。ずっとやりたかった音楽ができる。そのためなら、円滑に運営を転がすために、そしてできる限り良い演奏をするために、できることはなんでもやった。
色々やっていく中で、俺は成長した。
俺はいままで、「趣味は音楽」と言ってきたが、そうで無かったことに気づいた。俺が今までやってきたのはアクティビティとしての楽器に過ぎなかった。
生まれも育ちも暮らしも楽器経験も年齢も性別も違うまわりの人たちと一緒に、できるだけ「みんなが」納得できる演奏をするために必要な調和。その結果出力される演奏が、音楽だった。と、個人的な感想を得た。
これは、
ぶつかることは多いし、納得ではなく妥協を求めることも求められることもあるし、
アクティビティとしての楽器演奏より、だいぶ不快で、難解で、不合理で、不条理で、とても楽しかった。
次に、対人コミュニケーション能力の向上。
立場上、大きなものから些細なものまでメンバー同士のトラブルに第三者として接する機会が多かった。
コミュ障でもできる相手vs自分のとりあえず共感だけしておけばそれなりに円滑に進む(し円滑にならなかったら切れば良い)人間関係とは違って、
生々しい本音と建前と解決課題がある他人vs他人の関係に目をくばせ時にバンドのために(と言う立場で)口を挟まねばならない状況で、人の心の機微というか、人間の本質のようなものをたくさんインプットした。
このインプットによって、アウトプット=俺の対人技術も、それなりに向上したように思う。
ところで俺は社会人になってずっと、一日VSコードを触るタイプの仕事をしていた。言われたことを淡々とこなすだけと言って差し支えない仕事をしていた。
30にも差し掛かると、同じ会社に居座るにしても転職するにしても、ディレクション側というか、マネジメント側というか、そういう立場への進化を求められる気配がする。
ずっと「無理だなー嫌だなー俺には向いてないしなーでも一生ドカタの最前線(というほど先進企業でもないが)で新しい技術や言語を身につけていかなければならないのもつらい」と思いながらグダグダとitドカタをやっていた。
しかし、昨年、この「趣味」の経験から、「なんかいけそうじゃね?」と思えて、一歩踏み出すことができた。
ほかにも、このバンドで恋人もできた。今までの俺の、卑屈で根暗で斜に構えた人生では望むべくもないような、
強く優しく気立てが良く、心の底を打ち明けられる素敵な恋人ができた。
思えば、俺は趣味自体はずっともっていたわけだが、このように「自分が本当にやりたい音楽ジャンル」に触れた瞬間、人生がこのように切り開いた。趣味も突き詰めれば自分の人生の糧となる。
趣味は素晴らしいよ。はてなのみんなも、斜めや上から構えたはてな特有のセンテンスで集めたスターも確かに人生の素晴らしい糧ではあるが、
外に出て人と接する趣味もまた良い。
昔は養子制度とか、集落の寺とかがそういう役割持ってたと思うけどねぇ
あと、ジジババ同居だとジジババが面倒見たり
今は寺は生臭坊主が金集めるだけで公共の福祉の役割してないしな
アドラーの本を途中まで読んだ.
これによると,精神疾患など生きるのに役立たない道に陥るものには,幼少期から共通感覚(コモンセンス)を獲得できていないという特徴があるらしい.
そして共通感覚を獲得できなかった子供いじめられたり問題行動を起こしたりする.
この共通感覚は家庭において保護者から学ぶらしい.つまり保護者が共通感覚を有していなければその子供も共通感覚を獲得することが困難で,大人になってから苦しむのだ.
なぜこの世界では誰でも子供を持つことが許されるのだろうか.ペットですらちゃんと育てられないなら飼うなと批判されるのに.
あるいはせめて,誰でも子供を作る自由があるのなら,どんな子供も自分で死んでいい自由を認めるべきではないか.
この物語では,子供は生まれたらすぐに親から引き離されて専門の施設で集団的に育てられるというユートピアが描かれている.
作中ではこのユートピアを明示的には否定も肯定もしていないが,画一的に育てられた子供は個性がなく皆同じような表情をするという描写が描かれている.
「個性なくしたら死んでるのと一緒だよ」
共通感覚を有しない"悪い個性"を持つことは決して本人のためにはならない.
個性を持つことが良いとされるのは,個々の親が独立して子供を育てる現在社会におけるナッシュ均衡にすぎないのではないか.
消滅世界のシステムのように全員が同じ教育を受け,共通感覚を有していることこそがパレート最適なのではないだろうか.
あるいは,個性,個体差は環境が変化した際に種全体が生き延びるのに有利だと説明される.
だが,これは明らかにほとんどの平均から外れた個性を持つ個体にとっては酷な話だ.当然ながら平均から外れた個体の殆どは環境に適応できず苦しむからだ.
上のような理論を唱える者は,「お前らのような珍獣が居た方が俺/私の遺伝子が残る可能性が高まるから生きろ.そして苦しめ」と言っているのに他ならない.
現代社会は第二次世界大戦前の全体主義を反省し,個人の幸福を最大化しようとしたのではなかったか.所詮それは,正規分布の真ん中あたりにいるマジョリティの自己満足に過ぎなかったのか.
そもそも,人類が環境変化を生き抜くのに,遺伝子の多様性は必要なのだろうか.
多数のサイコロをばらまいて確率論的に変化に打ち勝とうとするその他大勢の生き物とは違って,人類は理性を持って変化を予測し,技術で環境を変えて乗り越えることができるのではないだろうか.
だが,ときに個性は天才を生み出し,その天才が技術を飛躍的に進歩させる.
こういった天才を生むために正規分布の端のほうの人間も,その殆どは苦しむ運命にあるとはいえ,大人になるまで生きていなければいけないのかもしれない.これによって,苦しむ未来の天才に生きる希望を与えることができるから.
本当にそうだろうか.電球の発明のように一人の天才の発想が大きな一歩を生み出した時代とは違って,現代の科学の進歩は過去の技術を積み重ねて積み重ねて演繹的に導き出された進歩ではないか.
いや,そうでもないか.私も理系の大学院で研究の真似事をしたことがある.今でも科学の最先端では天才の発想が不可欠だ.そしてそういう人は共通感覚を有していない人が多い.少なくともそう見える.
つまり,現代においても正規分布の端にいる,共通感覚を有しない,遺伝子的耐用性を持った人間を生きさせることは必要なのかもしれない.
私は天才ではない.だが,共通感覚を獲得することができず,苦しんでいる.正規分布の中央に行けなかった人間の中の,一握りの天才を除くその他多数の中のひとりだ.
私の意識は死ぬことがのみが正解だと確信している.だが,私の無意識が生きることを声高に主張している.そのせいで私はまだ生きていてこの文章を書いている.
理性で動く私は,なんとかして自分が死ぬことが論理的に正しいのだと結論付けたい.だが,今日も失敗した.
誰か私を助けてくれ.お前はもう開放されて良いのだと背中を押してほしい.