はてなキーワード: 意識とは
一作目からいきなりバズりまくるとか商業デビューとかは流石に狙ってないやろ?
ぶっちゃけ一作目なんて完全に黒歴史になってゴミ箱シュートが関の山なのは分かりきってると思う。
それでもなんとなーく筆が乗らなくて動き出せない奴多いんとちゃう?
そういう人にオススメなのが「自分のことを書いてしまうこと」。
日記をちょっとばかし小説風にしてもいいし、半生をストーリーっぽく描いて見せてもいいよ。
自分を題材にすれば取材はほとんどいらなくなるからすぐ始められるし、人生からいくらでもネタを取ってこれるから短編集っぽくやるのも長編っぽくするのも自由。
とりあえず簡単に一作目っぽいのが作れるわけよ。
一作書いて読み返してどうしてこんなにつまらないのかってのを考えるとさ、次はここを改善しようって目的意識で動けるようになる。
今まで漠然としてた「なんか書こう。とりま面白いやつ」みたいな意識から、「前回駄目だったのをひとまず改善したやつ」という具体的な目標へと変えていけるわけ。
一つ目を作るのは本当大事なんだけど、なかなか踏み出せないもんなんだよね。
今ならネットでもよい
はじめましてトークは当然はじめましてしかできないから、沢山会う必要がある
聞いていくとどこかである程度覚える
付き合わなくていいから沢山軽くあそぶ
2人きりであそぶ
基本女子にあわせる、主導しなくていい、ある程度好みのパターンが見えてくる
当分彼女は作らない
噂になったら嫌な子には配慮する
髪はショート〜ミディアムショートにする、毎日鏡を見る、ヒゲを剃る
服は最初はどシンプルでいい、ビジュアルで気を引こうとがんばらない、ビジュアルは減点方式であるという意識を持つ
だいたい50人〜100人くらいできれば
「女ってなんてめんどくせーんだ」「これだから女は」「男といるほうが楽しいわ」
くらいになると思うから、そしたらゴール
あとは好きになれそうな子を絞り込む
エッチについて
エッチが好きな子、まぁまぁな子、嫌いな子がだいたい1:1:1で存在している
好きな子のうち、仲良ければ割りと誰でもOKな子が3割位(全体の1割くらい)
だから基本的には「相手はエッチが嫌いな子」だと思って接した方がいい(当たる確率が高い)
なので下心や下ネタは控える
そういうのが好きな子は基本我慢できずふってくるので、1回乗ってみる
乗ったら急に「セクハラやめろ」みたいに言ってくるうぜーやつも居るから注意する
彼氏になったら「エッチが好きな子」「まぁまぁな子」の6,7割は大丈夫になる
嫌いな子に当たったら、身の振り方を考える、無理はしない
年によって多くの女子が何に惹かれるか、一部の女子が何に惹かれるかを理解する
具体的に何に惹かれるかは割愛
まあこんなところでしょう
俺はタイムスリップしたとしても多分やれないと思う
祖父が85で亡くなったんだが亡くなるちょっと前には家族や見舞いに訪れた人とやたらと握手したがってさ。
自宅のベッドでまどろんだ意識の中「ああ、俺には嫁も子供も孫もいて幸せな人生だったな。もう会えなくなるのさみしいなぁ……」とか考えていたのだろうか?
大丈夫。
85歳になって病院のベッドでまどろんだ意識の中「ああ、俺には恋人が出来ない結婚も出来ない童貞であるだけの人生だったな……」と後悔して死ぬより
「ああ、俺は恋人が出来ず結婚も出来ず童貞であるだけの人生だったけど、Youtubeを楽しく見たりSNSで楽しくリプつけあったり推しのライブ行って何とも言えない充満したエネルギーに充てられたり、唐突に一人で焼肉食いに行くなどそこそこの幸せ・そこそこの楽しい感覚を積んできたなあ」って振り返りながら死ぬ方が良いですよね
大丈夫。
あなたは童貞を卒業することは出来ません。結婚することも出来ません。恋人が出来ることもありません。もう良いトシなんですからいい加減受け入れて下さいよ。
85歳になって病院のベッドでまどろんだ意識の中「ああ、俺には恋人が出来ない結婚も出来ない童貞であるだけの人生だったな……」と後悔して死ぬより
「ああ、俺は恋人が出来ず結婚も出来ず童貞であるだけの人生だったけど、Youtubeを楽しく見たりSNSで楽しくリプつけあったり推しのライブ行って何とも言えない充満したエネルギーに充てられたり、唐突に一人で焼肉食いに行くなどそこそこの幸せ・そこそこの楽しい感覚を積んできたなあ」って振り返りながら死ぬ方が良いですよね?
メメント・モリで人生が輝くのって、それだけじゃダメで諦めの良さとやる気が要ると思う。
有限であるならしょーもない事をしている暇はないし、やりたい事は可能な限り全部やった方がいい。
しかし有限なので何もかもは出来ない。
生存を維持するための行動を除いて、何かをしようとする度にそれが限りある人生の時間を投下する価値があるのかと考えなければならない。満足に生きるという目標を最大限効率的に実現するなら。
常に自分の確信を問い続けなければならない。その選択は他の可能性を捨ててまで選び取るべきものなのか。本当に自分の人生に満足をもたらすのか。
自分にとって大切なものを見極める誠実さと、そのために他の魅力的な可能性を捨てる諦めや思い切り。そもそも人間は一つの頭と一つの身体しか使えないのだから常に他の選択肢を捨てて何かを行っているし、人生の有限性なんか考えるまでもなくそれは大事な力だ。
むしろ変に有限性への意識とか持ってると、選択の心情的なコストを無駄に増やすだけだ。
それに、好きな事と言ったって24時間364日出来る訳ではない。
音楽が好きというなら、常に聴いているはずだ。睡眠中、食事中であっても音楽を聴くことは出来る。それをしないなら真剣に音楽を愛しているとは言えない。「本当の」音楽好き好きではない。
なんて言うのは極端過ぎる。そういう人インターネットによくいるけど。
どれだけ好きだったり憧れたりしていても、やっぱり地道な練習とか積み重ねは退屈でしんどい。
面倒臭さに屈する程度の「好き」が「本物」かどうか、なんてのは神様に聞かないと分からないけど、とにかく面倒臭いものは面倒臭い。
死の待ち受ける人生では好きを追求する時間にも限りがあるといくら頭で理解してたって、やる気がなきゃ始まらない。
有限性への焦燥感が義務感となり情熱に昇華されればいいけど、やっぱりやる気をもたらすのはもっとシンプルにこれが好きだという強い確信や実感なんじゃないかって思う。
面倒臭かったりしんどかったりするけど、それでもその先の純粋な楽しさだったり、もっと新しい可能性に辿り着きたいという好奇心が人を動かすんじゃないかと思う。
大谷翔平はめっちゃ練習してるらしいし、自分の目標も実現してる。そこに人生の有限性への意識があるかどうか、傍目には分からない。
してるかもしれないし、してないかもしれない。無意識にでもそういう感覚がちょっとはあるのかもしれないし、全然まったく、何の意識もしてないかもしれない。
限りある中での意義ある人生への義務感だとか、自己顕示欲や憧れで動いてるのかもしれない。ただただ純粋に野球が楽しくてああ生きているのかもしれない。そのどれもが混在しているのかもしれない。
ただ明確な事実として、他の魅力的な選択肢にかまけず野球一筋でストイックに練習している事だけは分かる。
まあ厳密に言えば我々が知ってる彼の生き方はテレビが切り抜いた部分だったり、他人の目を通した情報だったりでしかないけど。野球以外に色々なものを選び取っているのかも知れない。そこはいくら考えても邪推にしかならない。
満足な人生を送るのにはやる気とそれを支えるバイタリティ、思い切りの良さは確実に重要な要素だろうし、それさえあれば死なんか想う必要ないんじゃないかって思う。
結局メメント・モリなんて意識はあってもなくてもいい。ダラダラ生きてる人間への喝入れにはなっても、そこから誠実に生きるための道具にまではなってくれない。それどころか、下手すれば心を擦り減らすばっかりのレトリックなんじゃないかって思う。
全部欲しい、と何か一つだけでも心からの満足が欲しい、の間で揺れ動くのは辛い。
ずっとペニスを見せないまま同性の友達のようになってルームシェアして老後をすごし、死後に遺体を洗ってもらい「あっペニスがある、意識してなかったけど男の人だったんだな、一回ぐらい使わせてあげればよかったな」と女が一粒涙を流す
これぐらいがちょうどいいんだよ
たぶんテレビ局って、世界のあらゆるものが「サンプリング素材」に見えてるんだろう
自分たちこそが最高のDJであり、フロアを沸かせるためにありとあらゆる情報をサンプリングして、最高のフロウを作り上げることができると
映画館に割と行ってる方だと思う。
劇場を応援したいとかそういう気持ちは全然ないので、スナックを買ったりはしない。ただただ暗く閉ざされた空間のイスに腰を据えて、デカいスクリーンで映画を観るという体験が好きで行ってる。
でも視覚の中を占める画面の割合としてはスマホで観るのとあんまり変わらん気がする。そもそも集中して観てる最中は視聴環境ってあんまり気にならんと思う。強いて言えば、暗いシーンは映画館だと見やすくてストレスがない。暗い部屋で輝度を上げた液晶を凝視してると目に悪い事してるような罪悪感がある。
どっちかって言えば音の方が大事な気がする。ゴジラの咆哮はやっぱり腹に響く轟音で聴きたい。
全身でズッシリと響く音を受け止める体験はどんなに高性能なヘッドホンでも無理だし、スピーカーでやれば近所トラブルものだろうし。
宣伝が15分以上あるのは冷静に考えると凄いと思う。そういうもんだと思ってるから普段は気にしてないけど。Youtubeじゃ10秒のハズレ広告引いた時ですら舌打ちモノなのに。
Youtubeの広告を最後まで見るのが道理だなんて事言う人はほとんどいないだろうし、テレビのレコーダーにもCMスキップ機能がついてる。
それなのに映画館ときたら、本編開始の時間を読んで遅れて入るのはマナー違反だ。なんて言い出す人も居かねないよなって思う。共同の空間という性質を強く意識する人がいるのも、映画館の欠点の一つだと思う。観客同士の一体感とかも別にないし。まあおれもギャーギャー騒ぐのがいたら勘弁してくれよとは思うけど。
父親がリストラで経済的に困窮、弟の進学を優先するので女は4年制大学じゃなく短大で別にいいじゃんとされたジェンダー差別が背景にある。
日テレはキラキラドラマには相応しくない重い設定だとして日和ってなかったことにし、制服で高校選ぼうとした頭空っぽ系カワイイ女子にしたかったんやね。
ひっそりとした雑感の追記
こんな適当に書いた文章に思いの外たくさんのリアクションを得て驚いている。
これを狙ってできたらヒットメイカーになれるんだろうけど、狙って書くとこうはいかないんだよな。
無欲の勝利というか、自然に出てきた文章が皆の共感を得るということは、私はやはり庶民なのでしょう。
あまりにも適当に文章を書いたせいで、多くの誤解を生んでいる。
別にいいんだけど。
いい加減に書いたせいで、読んだ人それぞれに色々な読み取り方ができるようになったのが、多く読まれた要因なのかなあ。
いや、どちらかといえば何気なく書いた親父の話がSNSで自分と無関係なニュースに噴き上がっている人たちの姿と重なって見えたのがみんなの共感を生んだのかな。
あと、適当につけたタイトルの引っ掛かりがよかったのかもね。つんくも歌詞に違和感がある方がフックかかるって言ってたし。
「ニュース見るのやめた」とは書いたものの、よくよく思い返せばそれまでだって熱心に世の中の事件を追ってたわけじゃなかった。
自分の関心事については色々考えてたし、そのなかには世の中で話題になってるようなこともあったけど、やはり私は自分に直接的に関係ない、実感を伴わないことについて興味を持つことが苦手なようだ。
そもそも所属サークルの人間関係にすらあまり興味がないので、政治や戦争となるともうダメ。
近代市民社会の一構成員としてはあまりよくない態度であるとは思う。
けど、世の中の9割の人間は早慶に合格する程度の国語や数学ができない人たちなわけで、そんな人間がこの複雑な社会をまともに理解できるわけがなかろうという諦めがあるんだよな。
すぐ話が逸れる。
冒頭に話を戻すと「ニュースを追うのをやめた」というのは、意識の問題で、「追わなきゃ、というプレッシャーから自分を解放した」と表現したほうが正確だったかもしれない。
あ、でもツイッターとかは意識的に目に入れないようになったな。これはニュースというより、知らん人の大喜利とかお気持ち全般だけど。
「一般的に大人が関心を持つべきもの」を見ないだけで、知的好奇心はそれなりに旺盛なので、本も読むしNewsPicksには課金してるし、ABEMAプライムも少し前までは見てた。
老化じゃないのかとのコメントあったけど、まあ良くも悪くもそうかもしれない。
老化という言葉を使うと悪いイメージがあるけど、別にそんな悪いことではないし。今までそれで世界に貢献できてたわけじゃないからね。
ニュースに一家言持つことが世界を良くするよりは、主にSNSによって悪い方に働いてるなと感じたし、そういう人たちもあまり幸せそうには見えなかったので、自分が気楽に過ごせる方に舵を切る方が、世界の総幸福量増大に資するよなってことで。
https://anond.hatelabo.jp/20240531110922
本筋から少し逸れるけど、「助けられる側」の一意見を書きたいと思った。
以前、ある近しい知り合いがいたんだけど、本人曰く「人助け」が好き。
困っている人がいれば進んで声をかけ、助けてくれる。
その言葉だけ聞けば良い人に思えるけど、自分はそう良い人だとは思ってなかった。
当時、される側であった自分としては、正直、助けてほしくないし、何もしてほしくないにも関わらず、
ご本人の「誰かを助けたい」という欲求を満たすために自分が付き合わなければならない、そんな場面が多かった。
彼女と僕が二人のことを一緒に決める時、なぜかその知り合いがしゃしゃり出てきて、
二人のため(もしくは彼女のため)と言って色々してくれるのだが、正直、僕としては、僕と恋人の二人で決めたい。
(ただ、これについては補足が必要で、恋人もその知り合いにべったりで言われるがままだったから、それも不満の1つだった)
なのに、僕の気持ちはそっちのけで、恋人の知り合いであるそのおせっかいさんは、勝手に恋人と決め事を決めてしまうのだ。
そして、それが別れる原因にもなったのだが。
ちなみに、僕が「できれば二人で決めたいし、あまり過度に介入してこないでほしい」と伝えたところ、その知り合いの方に怒られた。
こっちは親切でやってるんだけど…と。
その怒った態度が本質かなと思ってる。
僕の気持ち「何をしたいか」「何をしてほしいか」を考えてくれない。
その人を見て一貫して思うのは、
「自分がしたいからしてるだけ」であって、本当に相手のことを考えているかは別、ということ。
本当に相手の気持ちを思いやれる人であれば恋人が寂しくなる気持ちも考えることができるんじゃない?
相手の気持ちを意識せず(聞かずに)に他人を助けてしまう行動って善意と言えば善意だけど、「自分は優しいと認識されたい」エゴと思う。
全部自己完結してると悪い方向にしか繋がっていかないから、リアルの人間に聞いてみるべき。大学生なら相談センターのカウンセラーとか。仲いい友達は似たような思考でエコーチェンバーになるケースがあるから、他の視点を取り入れる気持ちで聞くのがいい。
ヘアスタイルとか服装とか努力してるのはすごくいいと思う、あとはやってるかもしれないけど眉毛整えることも意識してみてほしい。
男女は得意分野が生来身体のつくり的に違うし、考え方も千差万別だから、寛容になって自分も他人もどうでもいいくらいで受け入れられるようになれば楽だと思う。攻撃的な態度とか挙動不審な態度って結構貫通するし警戒されるよ
生きていると、
嫌なことばかり起きる。
自分が嫌な思いをするのは仕方ないと、人のために行動すると、
迷惑だ、関わるなと
忌避される。
極力、誰とも関わらずにいると、
蔑まれる。
どうしようもないのだと、首を括ろうものならば
馬鹿な事をするなと
罵倒される。
俺はこんなに嫌々生きているのに、
死んでいく奴はずるい。
生きて行かなければ、気が済まない。
――「生きるのは苦痛だ」より
理不尽な強制として産み落とされ、理不尽な強制として生きていく
ストレッサーに対してストレス対処が生じるように、作用に対して反作用が生じるように、
人は苦悩と悲哀を抱え、縛られ、それらの奴隷として生きていく
遠い我らが祖先は、きっと寒い冬の時代に抑鬱状態になっただろう
怯え、不安になり、神経質になり、目の前にいつでも最悪の状態を想定していただろう
だから、生き残った
呪い多き我々は、それでも生きる価値があるとこの世を這いずるだけの人生である
Life's but a walking shadow, a poor player
障害を負い、新しい心と体になり、しかし「以前の自分の連続に生きる自分」としての意識もあり続ける中で、それでも機能低下という現実に向き合い
大学3年生で今まで彼女が欲しいと思い行動を起こしてきたが恋人が全くできそうもなくつらい。外で歩いている恋人を見ると羨ましくて悶絶しそうになる。
いつか読んだ本で彼女は本当は必要ないのではないか周りの影響でほしがっているだけなのではないかと読者に問いかけるような内容を読んだことがあるが、全く持って私の場合これは当てはまらない。純粋に周りの影響関係なく彼女が欲しいのだ。
アイドルマスターが好きでライブにも言っているのだが、そこで声優さんと出会い、女の子の可愛さと2次元とは違った奥深さ(例えば、いわゆる”ゆるふわ”な女の子でも掘ってみると”ゆるふわ”という一言では表せない多面的な要素が複雑に絡まり合って人格を形成しており、2次元とは異なる、性格を一言で表せない奥深さを感じる)に気づきそこから彼女がいてくれたらと思うようになったのだがいまだできたことがない。
大学1年の頃から試行錯誤しており、主にファッションとスキンケアについて転がり立ち上がりようやく様になってきたが女性側からの反応はいまだない。髪もセットしているのであるが、フィードバックを求められるおしゃれな友人もおらず、これでいいのかと不安ながら通学をしている。私を不安にさせているのが女性からの反応が全くもらえないことであり、ファッションについては人気のファッション系ユーチューバーを参考にしているので間違いないと思うがヘアセットやその他の要素(例えば猫背、肌など)についてどう思われているかが不安である。
最近パーマをかけたのだがセットしてもいわゆるチー牛顔にしかならず本当にショックだ。やはりヘアセット初心者の私にパーマは早かったのか。しかし、マッシュ等の髪型には惹かれず一番パーマがよさそうとインスタを見て思ったのだが、私には似合いそうもない(誰からのフィードバックもない)。
今まで女性に何度か話しかけたことがあるがその話しかけた女性から自分は話しかけられることがないのできもがられているのではないかと感じ、それが私を悲しい気持ちにさせる。今となっては黒歴史であるが、以前ひげ脱毛のダウンタイムの関係もあり大学にひげを生やしていったことがあった。相当な変化であるがだれからも反応をもらえず、なぜ誰もフィードバックをくれないのだろうと怒りすら感じる。
いままで大学に入って好きな女の子が3人で来たのだが初めて好きになった子にも次に好きになった子にも彼氏がおりそれが本当にやるせない。女性は簡単に彼女ができるというが(ネットの受け売りだが)その受け身でも彼女が出来るのは本当にうらやましい。前述した私の見ているファッション系youtuberでは「街中で好きな男性の服装を女性に聞く」という企画があるのだが、そこで偉そうに男性の服装に意見している女性を見ると非常に憎たらしく感じる。私は拒絶され(女性から話しかけられないことを私は拒絶ととらえている)ているのに、世の中の女性は男性のアプローチにケチをつけ、アプローチをもらったことで自信を高め、さらにそのひとをけなすことで快感を得る。なんて偉そうな立場にいるのだろうと嫌悪感を感じる。私が初めて好きになった女の子はあまりいけていない子であったので(性格が悪い言い方であると思うが誰しもこれくらいの性格の悪さは持ち合わせていると思う)私自身と同一視している部分もあるのだが、なぜ私は恋人ができず受け身な彼女は恋人ができるのだろう→彼女が女だからだ という論理でネットでみた女性だから受け身でいいという言説を鵜呑みにして(実際自分で確認したわけではないので本当に受け身でいいのかはわからないが)受け身なくせに女性のほうが恋愛がうまいという論理が破綻しているように感じる世の中の言説も合わせて、近頃は女性に憎しみを感じている。
私がそのうち彼女が出来ればいいのような楽観的な思想になれないのは結婚相談所やマッチングアプリでの恋愛をしたくないという点がある。マッチングアプリや結婚相談所は男性が多く払うという制度があるのだと思うがこの男性が多くというのが結婚相手とは平等の関係を築きたい私にとっては拒否感があり、今恋人がほしいのだ。
恋愛で死ぬというのはバカであると感じる人も多いと思うが、最近は本当に自殺を考える原因になっている。女性の可愛さを認めている私にとって女性が周りにいる環境で女性に相手にされないというのは非常に自己肯定感を失う体験の連続であるし、目の前異性がいるのに、ネット等で誰でも頑張れば恋人ができるという言説があるのにも関わらず恋人ができないのは、自分はニンジンを目の前にぶら下げられた馬であり、手に入らないのにそれ求め続ける、しかし手に入らないことを薄々は感じていているのに求め続けるむなしさを感じる。私は人一倍無能であり、バイトでも何回も無能扱いされてきた、将来仕事でも成功は納められないだろう。そういった自身の無能さを勝手に女性の目を借り自分を下げ、自身の首を絞めているのかもしれない。今、バイト先ですごく素敵な女性と出会い、この人と一緒にいられたらと思っているがどうせこの人にも彼氏はいるのだろうと思い、どうしていいのかわからず心がかき乱される。そして簡単に恋人ができる女性へのヘイトを考えてしまう自分がいる。
私が恋人になってもいいと思っている女性がいるなら何か合図が欲しい。こういう部分に拒否感があるのような女性側の意見もわからずアプローチをするのはつらい。女性からの愛に餓えているのかもしれない。私のことを愛してくれる女性なら誰でも好きになる自信がある。女性も異性からの愛を求めていて、お互いが空回りしている状態だったらどんなに良いだろう。女性は私が話しかけてうれしいのだろうかそれとも嫌悪感を感じるのだろうか。女性は基本自分から異性に対して話しかけないのだという情報をネットでみた。私も女性に何度か話しかけたことがあるがその女性から以後話しかけかえしてもらえることはなかった。話しかけてもらったら次にお礼で自分から話しかけるという考えを持っている自分にとっては無礼な行為であり、怒りを感じるがこれが私が彼女から嫌われているからではないかという悲観的な考えもある。どうせ彼氏がいるから私に話しかけてこないのだろうという 女性=誰しも彼氏がいる というネットで見たことと私の経験から作った法則に当てはめ、恋人が簡単にできる女性への憎しみも感じる。
↓ここからは私の日ごろためている女性ヘイトについて書こうと思う。
正直女性はかなり優遇されていると感じる。恋愛面に関しては男性が寄ってきてそれを見定める立場である。バイト先でも男性は女性よりきつい仕事を任されることが多い(女性より時給300円くらい多くもらっても良いのではないかと感じるくらいハードな仕事を同じ職場でも求められることがあるし、それで今日の仕事きつかったねと話しているところを見るときつい仕事は男性がして当たり前なのかと殺意がわく。バイトや自動車学校等でもネットの女性のほうが優しくされるという言説を意識して見てみると大事にされているというのを感じる)大学で女性がやたらとジェンダーと関連付けたレポートを書きたがるのは憎たらしい。今の待遇に不満があると言いたげなその姿勢は本当に憎たらしい。
ここまで長々と書いてきたが私は結局女性のせいにしたいだけなのだろう。女性にも興味がない男性を拒否する権利はあるし私が女性でもそうしていただろう。私は軽度の障害もあるし、仕事もできないので未来がない。文系なので女性が多い職場で女性の目を借り自身を傷つけながらこれからも生きていくのだろう。もともと私は理系だったのだが、理系でも女性が少ないと不満を言っていたと思うので、結局私は身の回りに常に不満を感じるような人物なのだろうと感じる。今、バイト先で好きな女の子がいるがこのような歪んだジェンダー感と他責思考を持つ私が彼女に話しかけていいのかと感じる。本当に久しぶりに出会った素敵な人なので彼女から拒絶されたり、彼女にすでに彼氏がいたりしたらリミッターが外れこれまで以上の女性ヘイト思考になり私の感情はぐちゃぐちゃになりどう変貌してしまうか(おそらくモンスターになってしまう)は想像ができず非常に怖い。しかし、私の課題を先に終わらせたい思考から彼女との関係をどうにか帰着させたい一心だ。
大学3年生で今まで彼女が欲しいと思い行動を起こしてきたが恋人が全くできそうもなくつらい。外で歩いている恋人を見ると羨ましくて悶絶しそうになる。
いつか読んだ本で彼女は本当は必要ないのではないか周りの影響でほしがっているだけなのではないかと読者に問いかけるような内容を読んだことがあるが、全く持って私の場合これは当てはまらない。純粋に周りの影響関係なく彼女が欲しいのだ。
アイドルマスターが好きでライブにも言っているのだが、そこで声優さんと出会い、女の子の可愛さと2次元とは違った奥深さ(例えば、いわゆる”ゆるふわ”な女の子でも掘ってみると”ゆるふわ”という一言では表せない多面的な要素が複雑に絡まり合って人格を形成しており、2次元とは異なる、性格を一言で表せない奥深さを感じる)に気づきそこから彼女がいてくれたらと思うようになったのだがいまだできたことがない。
大学1年の頃から試行錯誤しており、主にファッションとスキンケアについて転がり立ち上がりようやく様になってきたが女性側からの反応はいまだない。髪もセットしているのであるが、フィードバックを求められるおしゃれな友人もおらず、これでいいのかと不安ながら通学をしている。私を不安にさせているのが女性からの反応が全くもらえないことであり、ファッションについては人気のファッション系ユーチューバーを参考にしているので間違いないと思うがヘアセットやその他の要素(例えば猫背、肌など)についてどう思われているかが不安である。
最近パーマをかけたのだがセットしてもいわゆるチー牛顔にしかならず本当にショックだ。やはりヘアセット初心者の私にパーマは早かったのか。しかし、マッシュ等の髪型には惹かれず一番パーマがよさそうとインスタを見て思ったのだが、私には似合いそうもない(誰からのフィードバックもない)。
今まで女性に何度か話しかけたことがあるがその話しかけた女性から自分は話しかけられることがないのできもがられているのではないかと感じ、それが私を悲しい気持ちにさせる。今となっては黒歴史であるが、以前ひげ脱毛のダウンタイムの関係もあり大学にひげを生やしていったことがあった。相当な変化であるがだれからも反応をもらえず、なぜ誰もフィードバックをくれないのだろうと怒りすら感じる。
いままで大学に入って好きな女の子が3人で来たのだが初めて好きになった子にも次に好きになった子にも彼氏がおりそれが本当にやるせない。女性は簡単に彼女ができるというが(ネットの受け売りだが)その受け身でも彼女が出来るのは本当にうらやましい。前述した私の見ているファッション系youtuberでは「街中で好きな男性の服装を女性に聞く」という企画があるのだが、そこで偉そうに男性の服装に意見している女性を見ると非常に憎たらしく感じる。私は拒絶され(女性から話しかけられないことを私は拒絶ととらえている)ているのに、世の中の女性は男性のアプローチにケチをつけ、アプローチをもらったことで自信を高め、さらにそのひとをけなすことで快感を得る。なんて偉そうな立場にいるのだろうと嫌悪感を感じる。私が初めて好きになった女の子はあまりいけていない子であったので(性格が悪い言い方であると思うが誰しもこれくらいの性格の悪さは持ち合わせていると思う)私自身と同一視している部分もあるのだが、なぜ私は恋人ができず受け身な彼女は恋人ができるのだろう→彼女が女だからだ という論理でネットでみた女性だから受け身でいいという言説を鵜呑みにして(実際自分で確認したわけではないので本当に受け身でいいのかはわからないが)受け身なくせに女性のほうが恋愛がうまいという論理が破綻しているように感じる世の中の言説も合わせて、近頃は女性に憎しみを感じている。
私がそのうち彼女が出来ればいいのような楽観的な思想になれないのは結婚相談所やマッチングアプリでの恋愛をしたくないという点がある。マッチングアプリや結婚相談所は男性が多く払うという制度があるのだと思うがこの男性が多くというのが結婚相手とは平等の関係を築きたい私にとっては拒否感があり、今恋人がほしいのだ。
恋愛で死ぬというのはバカであると感じる人も多いと思うが、最近は本当に自殺を考える原因になっている。女性の可愛さを認めている私にとって女性が周りにいる環境で女性に相手にされないというのは非常に自己肯定感を失う体験の連続であるし、目の前異性がいるのに、ネット等で誰でも頑張れば恋人ができるという言説があるのにも関わらず恋人ができないのは、自分はニンジンを目の前にぶら下げられた馬であり、手に入らないのにそれ求め続ける、しかし手に入らないことを薄々は感じていているのに求め続けるむなしさを感じる。私は人一倍無能であり、バイトでも何回も無能扱いされてきた、将来仕事でも成功は納められないだろう。そういった自身の無能さを勝手に女性の目を借り自分を下げ、自身の首を絞めているのかもしれない。今、バイト先ですごく素敵な女性と出会い、この人と一緒にいられたらと思っているがどうせこの人にも彼氏はいるのだろうと思い、どうしていいのかわからず心がかき乱される。そして簡単に恋人ができる女性へのヘイトを考えてしまう自分がいる。
私が恋人になってもいいと思っている女性がいるなら何か合図が欲しい。こういう部分に拒否感があるのような女性側の意見もわからずアプローチをするのはつらい。女性からの愛に餓えているのかもしれない。私のことを愛してくれる女性なら誰でも好きになる自信がある。女性も異性からの愛を求めていて、お互いが空回りしている状態だったらどんなに良いだろう。女性は私が話しかけてうれしいのだろうかそれとも嫌悪感を感じるのだろうか。女性は基本自分から異性に対して話しかけないのだという情報をネットでみた。私も女性に何度か話しかけたことがあるがその女性から以後話しかけかえしてもらえることはなかった。話しかけてもらったら次にお礼で自分から話しかけるという考えを持っている自分にとっては無礼な行為であり、怒りを感じるがこれが私が彼女から嫌われているからではないかという悲観的な考えもある。どうせ彼氏がいるから私に話しかけてこないのだろうという 女性=誰しも彼氏がいる というネットで見たことと私の経験から作った法則に当てはめ、恋人が簡単にできる女性への憎しみも感じる。
↓ここからは私の日ごろためている女性ヘイトについて書こうと思う。
正直女性はかなり優遇されていると感じる。恋愛面に関しては男性が寄ってきてそれを見定める立場である。バイト先でも男性は女性よりきつい仕事を任されることが多い(女性より時給300円くらい多くもらっても良いのではないかと感じるくらいハードな仕事を同じ職場でも求められることがあるし、それで今日の仕事きつかったねと話しているところを見るときつい仕事は男性がして当たり前なのかと殺意がわく。バイトや自動車学校等でもネットの女性のほうが優しくされるという言説を意識して見てみると大事にされているというのを感じる)大学で女性がやたらとジェンダーと関連付けたレポートを書きたがるのは憎たらしい。今の待遇に不満があると言いたげなその姿勢は本当に憎たらしい。
ここまで長々と書いてきたが私は結局女性のせいにしたいだけなのだろう。女性にも興味がない男性を拒否する権利はあるし私が女性でもそうしていただろう。私は軽度の障害もあるし、仕事もできないので未来がない。文系なので女性が多い職場で女性の目を借り自身を傷つけながらこれからも生きていくのだろう。もともと私は理系だったのだが、理系でも女性が少ないと不満を言っていたと思うので、結局私は身の回りに常に不満を感じるような人物なのだろうと感じる。今、バイト先で好きな女の子がいるがこのような歪んだジェンダー感と他責思考を持つ私が彼女に話しかけていいのかと感じる。本当に久しぶりに出会った素敵な人なので彼女から拒絶されたり、彼女にすでに彼氏がいたりしたらリミッターが外れこれまで以上の女性ヘイト思考になり私の感情はぐちゃぐちゃになりどう変貌してしまうか(おそらくモンスターになってしまう)は想像ができず非常に怖い。しかし、私の課題を先に終わらせたい思考から彼女との関係をどうにか帰着させたい一心だ。
右脳と左脳は別人だってユヴァル・ノア・ハラリが書いてた気がするし、
他人と脳やら意識やらを直結しても意外と大したことないんじゃない?
ムカデ人間よりは人道的だろうか
アルファベットの読めないガキの頃、ディズニーのロゴのDをGを反転させたような文字だと思ってた。どちらかと言えば左に重心を置くような。
その感覚がなんとなく続いてたけど、今改めてDだと思って見るとめっちゃバランス悪く見えてくる。大袈裟な払いでバランスを取ろうとしてるけど、そこに騙されずDを意識してるとめっちゃ右に傾いてるような気がする。
人の目に映る自分を見なければいけない。そうでなければ、自分というのは虚無になるから。
日常の中で、僕はいつも他人の視線を意識している。仕事場での同僚の評価、友人たちの言葉の裏にある感情、そして通りすがりの見知らぬ人々の一瞬の視線。これら全てが、自分自身を形成する一部になっているのだ。鏡に映る自分の姿だけでは不十分であり、他者の目を通して初めて自分という存在が確立される。
他者の評価に頼ることで、僕は安心感を得る。承認されることで、自分の価値を確認する。だけど、その一方で他者の期待に応えようと無理をしてしまうこともある。自分が本当に望んでいることや、自分の考えがどんどん薄れていく感覚に襲われるのだ。自分自身を見失い、他人の目に映る理想像を演じ続けることに疲弊してしまう。
社会の中で生きていく以上、他者との関係は避けられない。しかし、それに溺れてしまうと、いつの間にか自分が本当に何を感じ、何を望んでいるのかが分からなくなる。自分自身を見つめ直す時間を持つことが大切だと思う。静かな場所で、他人の目を気にせずに、自分の心の声を聞く。それが、自己を取り戻すための第一歩なのだろう。
しかし、現実はそう簡単ではない。他者の目を意識しないで生きることは難しい。人間は社会的な生き物であり、孤立することはできないからだ。結局のところ、他者の目に映る自分と、本当の自分とのバランスを保つことが求められるのだろう。
それでも、そのバランスを保つことは容易ではない。他者の期待に応え続けるうちに、自己の本質が徐々に薄れ、やがて消えてしまうかもしれない。そうしていつの間にか、自分自身というもの、アイデンティティは社会に霧散して二度と帰ってこなくなる。