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はてなキーワード: カイオとは

2024-05-21

anond:20240520184637

北斗神拳自体が「師から弟子」へということで、親子継承テーマなんだよね。だから作中の親子の物語も、カイオウも、それに倣った形になっているし、「子に受け継がせる」ためには、女性は母になるのだから子供は受け継ぐのだから、守っていかねばならない、となる。まぁテーマというか作品世界の有り様がそうなってるってことなんだけども。

2024-05-20

北斗の拳を読んだらジェネレーションギャップがすごかった

先日、ピッコマで「北斗の拳」が1日限定全話公開してたので読んでみたんだが、本編はもちろんのこと、時代を感じる部分があって面白かった。


一気読みなのでうろ覚えも多くてすまんが、平成生まれオタクから見たジェネレーションギャップをまとめてみる。



・男女の区別がはっきりしてる

男とは!女とは!というカテゴリで括られていて「男に生まれたからには」「女としての幸せは」みたいな性別による話が多い。基本的に男が戦っていて、女は戦わないし、戦っても弱い。進撃の巨人とかキングダムみたいな強い女は出てこない。(ユリア実はめっちゃいかと思ってた)



女子供不可侵領域

基本的に「女子供」は絶対に殺してはならず、守るべき存在。殺すのは相当な外道というポジション。「女子供を殺す奴は人間じゃねえ」って主人公サイドが言ったり。「俺は女でも殺すぞ!」みたいな脅し文句を悪の象徴として使ったりする。鬼滅では老若男女が喰われているが、女子供を喰っていることだけに非難が集中するわけじゃない。子供に対する不可侵はまだありつつも、薄れてきている感覚かもしれない。



・男は守ってもらえない

ヒーロー一般人という区分よりも、男と女子供という区分が強いので、男である限り一般市民でもあんま守ってもらえない。妹を人質に取られると兄は必死になって助けようとするが、それが弟になると「あいつにも死ぬ覚悟ができている」とか言って助けないパターンになる。男に厳しい。悪役に殺されるモブも男ばかり。男が殺されて女子供が殺されそうになった頃に主人公が助けにくる。男も助けてくれ。ヒロアカ女子供しか助けてもらえなかったらすごい違和感ある。時代なのか?



性的言動が少ない

舞台世紀末だけど性暴力的言動描写がほぼない。美人キャラ捕まえた悪役がいうセリフも「美人を捻り殺すの好き」みたいな感じで「俺のものにしてやるゲヘヘ」みたいな感じじゃない。誘拐しても無理やり襲わない。最近の方がそのあたりはエグい。



ヒロイン母性

ビンタしないし文句言わないし口数も少ない。平成暴力ツンデレヒロインとは違う。多少の反抗はありつつも基本は受け入れていく姿勢で寛容。ユリア母性が強く、みんながそこに惹かれている設定なんだが、それを大々的に語られていることが衝撃だった。周囲に「母性に惹かれてる」って思われるのってあの時代的には普通なのか?恥ずかしくないのか?「あの人、ユリア母性に夢中なんだね」って言われるんだよ。性癖みんなに把握されてるようで自分なら取り乱す。



・命より誇り

かっこよく死ぬ!というスタンスというか。命よりも誇りを取る。掟とか伝統もかなり大事美学に命かけてる感じ。昨今の作品はわりと命を大事にしている。主人公サイドは特に「掟を守って死んだら元も子もないねーだろ!?」みたいな型破りが多い気がする。北斗の拳ではかっこいいやつほど命をかけてるので、メインキャラがばんばん死んでく。死ぬペースも速い。



・親子の親は死亡フラグ

父親はだいたい死ぬ母親ときどきしぬ。親が死んでも、子が受け継ぐみたいな価値観が強そう。親子キャラから死なないだろ、主人公が助けてくれるはず!みたいな前提で最初は読んでたけど、最後の方は子がいるってことは死にそうだなと思うまでになった。最近漫画映画子どもを一人残して死なないパターンが多いかも?



ラスボス系が子孫を欲しがる

カイオウが「子をなす」ことを望んでいるのが意外だった。DIOとかヴォルデモートとか鬼舞辻無惨とか、ラスボス系は不老不死になって自分永遠になる!みたいな思考が多いので。子供を作って受け継ぐみたいな人間的な営みを望むのが意外。上記の親子の価値観と近いところがあるのかも。



平成生まれでもギャップがあるなら、令和生まれが読んだらどんな風に感じるのかすごく気になるところだが。

たぶん、どの時代に読んでもラオウに憧れるやつはいると思う。ラオウかっこいいよラオウ

2024-04-15

「この子名前正義って言うの!」『ふーん、生まれた時は何gだったの?』「大体3500ぐらいかしら」

ディカイオシュネー

2024-03-07

anond:20240307134803

肌色が減ってももりんとしたデッカイオパイは相変わらずだしプリキュアではとっくに脇だ裸足だってところに性癖シフトしてる

2023-08-25

浦和レッズサポーターの件

某所よりコピペ

内容の真偽には関知しない

・2023 アウェイ名古屋警備員暴行したうえに恫喝乱闘も辞さない」NEW!

・2022 アウェイ清水反社行為連発(不法侵入暴言、お年寄りへの非行

・2022 政府リーグの再三の注意を無視して声出し応援制裁金2000万円

・2022 教え子レイプ浦和サポ団体リーダ格が応援中に警察連行

・2021 天皇杯横断幕ルール無視&未開放エリア侵入して観戦→けん責

・2020 アウェイ大分応援ガイドライン無視で騒いで暴動制裁金300万円

・2019 アウェイ横鞠で横断幕禁止行為&マリサポと衝突→制裁金200万円

・2018 天皇杯無許可侵入横断幕準備&発煙筒で危険行為罰金200万円

・2018 アウェイ鹿島警備員旗竿攻撃

・2017 アウェイ大宮で悪質行為浦和敗戦で暴れてスタジアム器物破損

・2017 アウェイ鳥栖で現地ボランティアスタッフ暴行

・2016 アウェイ柏で警備員暴行

・2016 カイオ差別投稿黒人4ね」

・2015 パトリック差別投稿黒人4ね」

・2014 部外者排除のため「JAPANESE ONLY」の横断幕無観客試合制裁

・2013 アウェイ清水警備員暴行した浦和サポ4人が現行犯逮捕

・2013 アウェイ清水清水選手バス爆竹&花火攻撃制裁金1000万円

・2012 乃木坂46の来場に「売春婦!」「芝踏むな帰れ!」

・2010 アウェイ仙台仙台選手バスに向かって差別発言→制裁金500万円

・2009 テレビ中継スタッフ暴行制裁金200万円

・2008 G大阪サポと乱闘浦和制裁金2000万円

横断幕浦和から生きて帰れると思うなよ」

2023-02-26

anond:20230226144624

カイオウにベッドの上でナイフ渡されて「種付けさせるか、死をえらべ」ってシーン、

武論尊先生っぽいハードボイルド世界でかっこよかったね

2023-02-09

スペクターサウンドを256倍楽しむ方法

 日本では'76年に、フィレス・レーベル作品がまとめて再発売されたことがありましたが、ボックス形式としては本邦初で、しかCDボックスとしては今回が世界初ということになります。また同時に、<ヒーズ・ア・レベル>という、関係者インタビューを中心にした本が白夜書房から発売されます。それを読みながらこのBOXを聞きますと512倍楽しく聞けることを保証します。

 では、時代を追って解説していきます

テディー・ベアーズ

 1958年17才にして彼は”スター”でした。この後ポップス歴史を彩ることになるクリスタルズロネッツキャロル・キングバリーマンビーチ・ボーイズビートルズの誰よりも先に<NO.1ヒット>を持っていた!、このことが良くも悪くもスペクターのその後の人生を決定づけたと思いますポップス史上、#1ヒットを星の数ほど作り続けたリーバー&ストラーや、ジョージマーチンも、自らの#1ヒットはなく、このことが彼を単に<プロデューサー>の範疇では捉えられない最大の理由です。<彼を知ることは、彼を愛することだ>というデビュー曲の<彼>は、もちろんスペクター本人の意味で、そこには強引さ、傲慢さも感じられますが、実はそれが力強くもあり、<スターの要素>そのものだともいえます。彼の仕事ぶりを評して、全てを自分一色に染めてしまう、という批判をよく聞きますが、これはことの本質理解してい居ない人の発言です。かれは<裏方>ではなく<スター>なのです!それを、アーティストの持ち味を引き出すのがプロデューサー仕事だ、という常識的意味で彼を捉えようとするから批判的になるのです。彼こそが<スター>で、誰が歌おうか演奏しようが、他の人は全て脇役なのです。単に映画監督と言う視点ヒッチコックを捉えるとおもしろ解釈は生まれない、というのにも似ています。(誰が主演でもヒッチの映画になります黒沢さんもそうですね。)

 デビューアルバムTEDDY BEARS SING」のB-1「I DON'T NEED YOU ANYMORE」の<ステレオバージョン>はナントリードボーカル女の子の声が左で、真ん中がフィルコーラスしかも、ところどころリードボーカルの3倍くらいの大きさでコーラスが<邪魔をする>といってもいいほどの前代未聞のバランス!です。

 デビューからしてこうなのですから自己主張とかワガママなどという、なまやさしいことではないのです。

SCHOOLもの

 のちにブラックミュージックにのめり込んでいった彼ですが、スタートは白人ポップスでした。まずは自らのヴォーカリストギターリスト、および作曲家としての才能を試すところからはじめた、というところでしょうか。'50年代後半は、まだ黒人音楽一般的ではありませんでしたが、若者の間では熱狂的な指示を得ていました。スペクターもいろいろな黒人アーティストを聞いていたようですが、こと自分デビューに関しては、世間的に穏便な方法をとったところなど<奇[...]

 また'50年代中期には「暴力教室」をはじめ「HIGHSCHOOL CONFIDENTIAL」など<怒れる若者>をテーマにした映画が続々と作られ、その代表としてJ・ディーンが登場し、代表作が「理由なき反抗」-REBEL WITHOUT A CAUSE -でした。このように、当時の若者キーワードの一つは<REBEL>であり、「乱暴者」のマーロン・ブランドのような皮ジャン、サングラスバイクというスタイル流行しました。

 彼のでデビューソングはたしかに<学園もの>でしたが、それまでの、例えばドリス・デイの「先生お気に入り」調のホンワカしたものではなく、女の子自分の想いを直接的、また積極的に<ナゼわかってくれないの?>と切々と歌い上げるというのは冬至若者フィーリングにピッタシきたようです。実はこの手法スペクター特有の<ソフィスティケーションの中の直接性>というもので、彼を理会する上で大事ことなのです。

ガレージサウンド

 ある程度、あるいはそれ以上の音楽素養がなければミュージシャン作曲家になれなかったジャズと違って、ギター1本あればだれでもロックンローラーになれる、というのがロック時代でした。子供技術を会得して成長し、大人の仲間入りをするのがジャズだとすると、ロックは、子供子供のままで音楽ができるというのが特徴でした。ヒョットしたらオレにもなれるかもしれないと、多くのシロウトがわれもわれもと参加したことが、音楽単純化拍車をかけました。ジャズ豊満でふくよか、とすると、R&Rは骨と皮だけといえましょう。ジャズ大人音楽で、背景はナイトクラブ女性お酒が似合いましたが、子供音楽として誕生したR&Rの背景に一番ピッタリだったのはナント、<ガレージ>でした。

 麻雀同様4人(あるいは3人)いればすぐにできたのがR&Rの特徴でしたが、ニュー・ヨークのようにせまいところで大声を上げれば、お母さんに怒鳴られるだけですからストリートへ出るわけです。50'sのDoo Wapブームの背景は街角ストリート・コーナーが似合ったわけです。

 それにくらべて土地の広大な中西部西海岸は車がなければ不便なので、当選、どこの家にもガレージがあり、ここが若者の格好の練習場所となりました(蛇足ですが、今の日本ロックサウンドの背景は<貸しスタジオ>--密室--ではないでしょうか?)。さて、楽器感覚でどうにか弾けますが、作曲というのは簡単そうでもやはり多少の音楽素養必要です。しかし、若者の、なんでもいいからR&Rをやりたい!という想いはこんなことではくじけません。骨と皮だけのロックを、さらに皮も捨てて骨だけにしたのです。それが<ギターインストゥルメンタル>でした。これは、楽器感覚的にかき鳴らすだけですから、とりあえずだれにでもできました。ジャズ単純化ロックとすれば、これはさらに、ロック単純化で、その極致であったわけです。

 これが<ガレージサウンド>の正体でしたが、この時代呼応するかのように、新しく生まれ現象がありました。それは、録音機が少しずつ普及し始め、ガレージ居間などでの<ホームレコーディング>が行われるようになったことです。そして、デモテープのような、ある意味では乱暴

チャートに登場するようになり、まさに音楽大衆化が、内容だけではなく、音質までにも及んだのです(エルビスバディ・ホリーデビュー曲地方の、オヤジさんが社長、オカミさん専務、というような町工場風のスタジオで録音したものです)。

 それまでの録音は、演奏者と録音技師ガラスを隔てて別々の仕事場でした。技師演奏者にマイクの使い方を指導することはあっても、演奏者の方が技師に注文をつけるというケースはめったにありませんでした。しかし、ホームレコーディング特有の、機械いじりの好きな少年の思い付きや、また機材不足からひねりだした斬新な工夫は、新しいサウンド母体となるのです。

 スペクターは、テディー・ベアーズの録音の時からスタジオ内と調整室を行ったり来たりして、録音技師を困らせていたようですから、コダワリの姿勢最初からのようです(口述しますが、後年よくいわれるワグナー好きやソウルミュージックの追求というのは、スターありがちな<後付け>である、と私は考えています)。

 このホームレコーディングが、実は<スペクターサウンド>の根幹なのです!<BACK TO MONO>の意味もこのことなので、一つのかたまり大人数、熱気、乱雑の中の整理、複雑の単純化、そして<ホーム>、これが彼の求めたものでした。かたまりは<MONO>、大人数はミュージシャンの数、熱は<ハルブレインドラム>、整理は<J・ニッチェアレンジ>、単純化は<L・レビンミックス>、そしてホームは<西海岸>、これがスペクターサウンドの中味の分析ですが、詳しくはこれも後述します。

インストマニア

 この当時のロックンロール少年と同じく、スペクターギター少年でした。本名フィル・ハーヴェイとしてインストレコードも発表しています。また'58、'59年はインストロックの当たり年で、チャンプ栖の「TEQUILA!」が#1になったり、B・ホリーのインスト版ともいえるファイヤーボールズ、リンクレイ、そしてジョニーハリケーンズサント&ジョニーサンディー・ネルソン(「TO KNOW HIM~」のドラムデビュー前の彼です)、そして極め付きはギターインスト王者、デュアン・エディーの登場でした。

 日本ではなぜか、ほとんど評価されませんでしたが、ギターリストとして一番の人気とヒットのあった人で、そのサウンドユニークさとポップ・シーンへの影響は大きいものがありました。またイギリスでの人気は特に異常で、'60年の人気投票では1位でした(すごい!)。近年リバイバル・ヒットした「PETER GUN」などは後の<007シリーズ>や<バットマン>のもとになったともいえますし、日本では未公開の映画「BECAUSE THEY'RE YOUNG」のテーマは、彼の"トワンギー・ギター"と流麗なストリングスとのコンビネーションは、すぐアル・カイオラが取り入れて「荒野の7人」となって登場、西部劇インストテーマの基本形となりました。また「ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」のジョージマーチン楽団の「リンゴテーマ」も、まさにD・エディーのマネジャープロデューサーレスター・シルで、テディー・ベアーズの録音の際、隣のスタジオ仕事をしていて知り合ったといわれ、この人と出会ってなければ<スペクターサウンド>はこの世に存在しなかったといえるほど重大な出会いでした。

 シルはこの時すでにスペクタープロデューサー向きであることを見抜き、早速契約を結び、最初に買った曲のタイトルナント「BE MY GIRL!」。

 スペクターについては、まわりにいた人に才能があったので、本人にそう才能があったわけではない、という人もいますが、これは間違いです。確かにまわりにいた人々は有能でした。しかし、彼はプロデューサーとして一番重要な要素である<何をやりたいのか>ということが明確にありました。それは前にも述べましたがいろいろな意味での<直接性>というテーマを持っていたことです。これはもちろんR&Rのイディオム佐野元春調)ですが、荒々しいサウンドの中の直接性より、スペクターポップスに折り込んだ直接性の方がより<暴力的>ですらありました。

 例えば、R&Rの時代になって<BE>という動詞で始まるビッグ・ヒットは「BE MY BABY」が第1号です(BE CAREFUL~などの慣用句を除く)。簡単なようですが、作る側にまわってみると、これが簡単に言い切れるものではないのです。まさにこれをスパッと言い切れるのが<スター>なのです。「TO KNOW HIM~」の断定と「BE」の命令。このシェイクスピア調の、時代がかったともいえる口調が、逆に新味を呼んだのではないでしょうか。この大時代的で、且つ直接的な手法は「I WANT TO HOLD YOUR HAND」(ユーモアの点ではJ&Pの方が数段上ですネ!)に共通したものを感じます

 シルと契約直後、スペクターはD・エディのセッション見学しています。さっそく実地訓練をさせようというシルの計らいで、時は'59年の4月の後半でした。この年のエディーの最大のヒットは6月に発売された「FORTY MILES OF BAD ROAD」(9位)で、この曲はナントベースドラムだけをイントロでフィーチャーした、ポップス史上初のヒット曲>なのです。さて、ベースドラムイントロといえば「BE MY BABY」ですが、この2曲の因果関係についての疑問を、10年ほど前の<ニュー・ミュージック・マガジン>で発表したことがありましたが、時期的にはこの推論が成り立つようです。が、モチロン、その因果については全く憶測の域は出ておりません。

 エディーのスタジオは1トラックテープレコーダーが1台しかないという粗末な設備ながら、そのエコーを駆使してのサウンド作りは、特に録音にはうるさかった若き日のスペクターには刺激的な体験だったと思われます。トワンギー・サウンド秘密であった水道管やドラム缶をエコー使用するという一風変わった手法は(そのためシルは何10個もドラム缶を買い、しかも一番響きのいい缶を探したといいますスペクターが興味を持たなかったはずはありません。

 そのような多彩な録音技術を駆使していた人は、D・エディー・サウンド製作者<リー・ヘイズルウッド>でした(エンジニアはエディー・ブラケット)。ヘイズルウッドといえばナンシー・シナトラとのデュエットアストロノーツの「太陽の彼方に」の作者として日本ではおなじみですが、エディーのプロデューサーとして最初評価された人なのです。

中したスペクターは、一瞬たりともヘイズルウッドの背後から離れなかった>と発言しています

憧れのリーバー&ストラー

 その後シルは、スペクタープロデューサーにすべく、今度はニュー・ヨークリーバー&ストラーのもとへ送り込みました。’60年代代表的なコンビレノンマッカートニーとすれば、’50年代リーバー&ストラー時代で、ロックビジネスを目指す人々にとっての目標でした。スペクター学校の先輩でもあった彼らのデビューに一役買っていたのが、これまたレスター・シルでした。シルがマネージャーをしていたコースターズをきっかけに、ドリフターズ、そしてエルビスへの曲提供プロデュースを行い、初のR&Rにおける独立プロデューサーとしての地位確立したのがこの二人なのです。

 スペクターにとって、このニュー・ヨークでの修行時代の最大の収穫はベン・E・キングヒット曲「SPANISH HARLEM」をJ・リーバーと共作できたことでしょう。これはR&Rビジネスへの切符を手に入れた、つまり、お墨付をもらったということ......って、最大の自信となったことは疑う余地はあり.....

 ま.... ドリフターズの「THERE GOES MY BABY」...にストリングスをフィーチャーする手法を....ことも<スペクターサウンド>への引金になったと、私は思います。その手法プロデュースしたジーン・ピットニーの「EVERY BREATH I TAKE」は、全くドリフターズ調でしたが、すでに<スペクターサウンド>は出来上がっていた、ともいえる、本家を凌ぐ作品でした。<ゴフィン&キング>との最初作品でしたが、この日のセッションにはリーバー&ストラーをはじめ、B・バカラック、B・マン&C・ウェイル、アルド出版社代表のD・カーシュナーら、そうそうたる顔ぶれが集まったといいます。そしてこの作品が、ここに集まった全ての人にスペクターの印象を強く与えることとなり、一緒の仕事が始まるわけです。特にこの曲で印象深いのはドラムフレーズですが、G・ゴフィンの証言によれば、フィルドラマーゲイリーチェスターに指示をして、それが実に的確だった、ということです。

 この修行時代にすでに、J・ニッチェやH・ブレインがいなくても、これだけのものを作っていたことは見落とせません。スペクターサウンドを作ったのはやはり彼なのです。

 この曲は残念ながら大ヒットにはなりませんでしたが、来たるべき<スペクター時代>の幕開けを飾るにふさわしい素晴らしい曲でした。

 また、この頃、レスター・シルとリー・ヘイズルウッドは共同活動を解消、スペクターは新たなパートナー、いわば後釜としてシルと関係を結び、それが二人の頭文字を合わせた<PHIL+LES>の誕生となりました(シルとヘイズルウッドのレーベル名は二人の息子の頭文字から<GREG+MARK>というものでした)。

ガールグループ

 '60年代初めにシュレルズがキャロル・キングの名作<WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW

....きっかけに、ガール Permalink | 記事への反応(0) | 09:24

2023-02-08

・クアナパーカー1840年代~1911

 コマンチ族の酋長。ペタ・ノコナとシンシアパーカーの息子。1874年居留地への強制移住に反発して、カイオワ、アラパホ、シャイアンと共に白人と戦った(レッド・リバー戦争)。しかし、食料源であるバッファローが狩り尽くされたため翌年降伏居留地入りした後も部族を率い、白人文化を受け入れる一方でインディアン文化も守り続けた。 

ブラック・ケトル

 シャイアン族の酋長白人との共存を臨む平和主義者で交渉による戦争回避に生涯を捧げたが、裏切られ続けた。最期はワシタ川の虐殺カスター指揮下の第7騎兵連隊無抵抗女性子供共に虐殺された。ブラックケトルは死の瞬間まで白旗を掲げ、「友達だ!」と叫んだが無視され蜂の巣にされた。

シッティング・ブル1831~90

 ラコタスー族ハンクパパの戦士若いからレッドクラウド戦争,ブラックヒルズ戦争(1876~77インディアン聖地ブラックヒルズを守るための大激戦)などの白人との戦いに従事した。1876年リトルビッグホーンの戦いではシャイアン族、アラパホ族と共にジョージカスター指揮下の第七騎兵連隊250名を全滅させた。スー族はその後降伏するも彼は頑なに居留地入りを拒みカナダ亡命した。71年に帰国し、捕虜となった。暴動扇動したという無実の罪で逮捕されそうになり抵抗したため射殺された。

クレイジーホース1840~77

 ラコタスー族オグララ戦士レッドクラウド戦争ブラックヒルズ戦争などに従事し、その勇猛さをシッティング・ブルと並び称えられた。1876年ローズバッドの戦い、リトルビッグホーンの戦いで米軍を破った。しかし、物量や装備で勝る米軍に敵わず降伏し、捕虜となった後に銃剣で刺殺された。

レイン・イン・ザ・フェイス1835~1905

 ラコタスー族ハンクパパの戦士レッドクラウド戦争ブラックヒルズ戦争従事し、リトル・ビッグホーンの戦いではカスターの心臓を切り取った。1880年降伏した。

タッチ・ザ・クラウド1830後半~1905

 ラコタスー族戦士クレイジーホースの親戚で2m近い大男であった。リトルビッグホーンの戦いに参加した。

・ゴール1840年頃~1894

 ラコタスー族戦士。リトルビッグホーンの戦いでは騎兵連隊を分断し、勝利に貢献した。シッティングブルの盟友だったが、後に仲違いし1881年降伏した。

レッド・エンド1797~1881

 ダコタ・スー族酋長。兄を白人に殺されたことへの報復スピリット湖畔の入植地を襲撃した。リトルビッグホーンの戦いにも参加し、シッティング・ブルと共にカナダ亡命し、現地で亡くなった。

ラメホワイトマン1830年代後半~76

 シャイアン族の酋長。リトル・ビッグホーンの戦いで戦死した。

・ジョゼフ酋長1840~1904

  ネズ・パース族の酋長平和主義者であり、キリスト教改宗するなど白人に対して友好的であったが、1877年居留地への強制移住に反発し、カナダへの亡命を図り、部族を率いて1600km近い大移動を行った。巧みな戦術白人の追撃をかわし続け、赤いナポレオンと称えられたが、最後は捕らえられ、逃避行は失敗に終わった。

・リトル・ウルフ1820~1904

 シャイアン族の酋長レッドクラウド戦争ブラックヒルズ戦争に参加。その後米軍降伏したが、部族を率いて居留地から故郷への脱走を図り、2000km以上の大移動を行った。途中で降伏するもシャイアン族は故郷への期間を認められた。

モーニングスター(鈍いナイフ)1810~1883

 シャイアン族の酋長レッドクラウド戦争ブラックヒルズ戦争に参加。米軍降伏後、リトルウルフと共に大脱出を率いた。

・ヴィクトリオ1825~1880

 アパッチ族酋長1879年居留地から脱走し、アメリカメキシコに対して挑戦した(ヴィクトリオ戦争しかし、翌年メキシコ軍に包囲され戦死した。

・ナナ1810年代~1896

 アパッチ族戦士。ヴィクトリオの姉と結婚し、ヴィクトリオ戦争でも共に戦った。1886年降伏した

ローゼン1840年代~1887

 アパッチ族女性戦士。ヴィクトリオの妹。ヴィクトリオ戦争従軍し、兄が殺されると、ジェロニモと合流して米軍と戦った。1886年降伏し、翌年病死した。

ジェロニモ1829~1909

 アパッチ族戦士1851年メキシコ当局家族を皆殺しにされてしまう。それ以後獰猛戦士としてメキシコ軍とアメリカ軍を苦しめた。1874年連邦政府強制移住抵抗し、何度か捕らえても脱獄を繰り返した。1886年に捕らえられて以降故郷から連れ去られ、見世物とされるなど屈辱を受け、虜囚のまま死去した。

ビッグベア1825~88

 クリー族の戦士飢餓に苦しめられ、1885年ティカナダ先住民白人の混血)のルイ・リエルの北西反乱に加わった。

・ブコナイゲシク1830年代~1916

 オジブワ族の戦士1898年頻繁なインディアン逮捕森林破壊に抗議し、逮捕されるが脱走。シュガーポイントの戦いで追討軍を破った

デニス・バンクス1937~2017

 オジブワ族の人権活動家1968年アメリカインディアン運動AIM設立デモ選挙活動によりインディアンへの人権侵害に激しく抗議し続けた。その中でも有名なのがアルカトラズ占拠事件(1969~71)とウーンデッドニー事件(1973)である。前者は1年半にも及ぶ長期戦でインディアン人権問題国際的に周知させるきっかけとなった。後者州兵FBI戦車ヘリコプターを動員させる大事件となった

ラッセル・ミーンズ1939~2012

 ラコタスー族オグララ人権活動家アルカトラズ占拠事件後にAIMに参加、ラシュモア山占拠事件、BIAビル本部占拠事件、ウーンデッドニー事件に加わった。ラシュモア山ではワシントンの像に放尿した。何度も逮捕殺人未遂などの危機に陥るが恐れることなインディアンのための活動に生涯を捧げた

白人抵抗したインディアン英雄たち

投稿です

タスカルーサ~1540

 ミシシッピ先住民首長スペイン人征服者エルナンド・デ・ソトと交戦し、戦死した。ミシシッピ先住民はチョクトー、マスコギー族の祖先である。 

・オペチャンカノウ1544~1646

 ポウハタン族の酋長ポカホンタス叔父1622年と1644年に白人への大襲撃を行った(第二次第三次ポウハタン戦争)が、捕らえられ処刑された。

・ササカス1560~1637

 ピクォート族の酋長。ピクォート族は白人男性を殺害したと濡れ衣を着せられ、襲撃を受ける。1836年から翌年にかけてピクォート戦争を戦うも、敗北、ササカスはモヒガン族に殺された。ピクォート族は数百人が虐殺奴隷化され、一時期は絶滅認定を受けるまでに激減した。ピクォート戦争白人に協力したナラガンセット族も後のフィリップ戦争白人虐殺されることとなる。 

・ポペ1630~1692

 プエブロ族魔術師スペイン宗教弾圧に対し、1680年一斉蜂起を起こす。スペイン人駆逐したプエブロ族独立国家を築くが、ポペの死後内部分裂しスペイン降伏した。

ハンコック酋長

 南部タスカローラ族の酋長白人土地侵奪奴隷狩りに反発し、タスカローラ戦争(1711~15)を起こす。しかし、北部タスカローラに裏切られ、白人に引き渡され処刑された。

グレイロック1670~1740頃

 アベナキ族の酋長フランス人神父セバスチャン・ラルと結託し、マサチューセッツ植民地総督へダマー戦争(1722~1725、ラル神父戦争グレイロック戦争ともいう)を仕掛ける。ラル神父戦死し、和平が成立した後も散発的に植民地への攻撃を続けた

メタカムフィリップ王)1639~76

 ワンパノアグ族の酋長。ピリグリム・ファザーズを助けた心優しきマサソイト酋長の息子。白人貪欲土地略奪に耐えかね、交戦した(フィリップ戦争1765~66)。メタカム戦死遺体戦利品としてバラバラにされ、妻子は奴隷として売り飛ばされた。数千人のインディアンが死亡し、白人勝利に終わった。

・オブアンディヤック1720~69

 オタワ族の酋長英名ポンティアック交易制限したイギリス人たちに不満を抱き、オジブワ族、ポタワトミ族などと連合攻撃しかけた(ポンティアック戦争1763~65)。白人を追い出すことには失敗したが、イギリス政府政策変更を余儀なくされ、インディアン保護区を制定した。オブアンディヤックは白人では無く、対立する部族のピオリア族に暗殺された。

コーンストーク1720頃~77

 ショーニー族の酋長。1774年ダンモア卿の戦争白人と戦った。アメリカ独立戦争ではショーニー族の中立に努め、ランドルフ砦のアメリカ人訪問した際に拘束され処刑された。

・ドラッキングカヌー1738~1792

 チェロキー族の戦士アメリカ独立戦争ではイギリスと組んでアメリカと戦った。独立戦争後は他部族同盟を呼びかけながら、アメリカと戦った。チョクトー族、マスコギー族との同盟を祝う最中心臓発作で亡くなった。

 

・リトルタートル(1747~1812)

 マイアミ族の酋長アメリカ独立戦争ではイギリスと組んでアメリカと戦い、オーギュスタン・ド・ラ・バル大佐戦死させた。独立戦争後はワイアンドット、ショーニー、チェロキー等と北西インディアン同盟を結びアメリカと戦った。(北西インディアン戦争1785~1795)。ハーマー作戦勝利したほか、アーサー・セントクレア少将を破り、戦死者600名の大損害を与えた。しかし、フォールン・ティバーズの戦いで敗北し降伏した。

ブルージャケット1738~1810

 ショーニー族の戦士アメリカ独立戦争ではイギリスと組んでアメリカと戦った。北西インディアン戦争でも活躍し、ハーマー作戦セントクレアの敗北で活躍したが、フォールン・ティバーズの戦いで敗北した。

・バッコンガヒラス1720~1805

 レナペ族の酋長アメリカ独立戦争、北西インディアン戦争アメリカと戦い、セントクレア将軍を破ったが、フォールン・ティバーズの戦いで敗れた。

・エグシャワ1726~1796

 オタワ族の酋長アメリカ独立戦争、北西インディアン戦争アメリカと戦い、フォールン・ティバーズの戦いで負傷した

・テカムセ1768~1813

 ショーニー族の酋長白人侵略に対し、インディアン全体の団結を広く呼びかけた。ティッペカヌーの戦いで敗れたが、抵抗を諦めず、米英戦争イギリスと組んでアメリカ交戦した。デトロイド包囲戦で米軍を破り、メグス包囲戦でも攻略には失敗したものの損害を与えた。しかし、テムズの戦いで戦死し、彼の壮大な夢は叶うことが無かった。ちなみにテカムセと米英戦争敵対したウィリアム・ハリソンは1841年9代目大統領就任するが、わず31日で病死した。

ウィリアムウェザーフォード1765~1824

 マスコギー族の戦士。1811年の大地震白人と戦えというメッセージ解釈し、交戦レッドスティックスを率いクリーク戦争(1813~14)を戦った後に降伏した。ちなみにクリーク戦争活躍したジャクソン大統領は後に7代目大統領就任インディアンへの弾圧虐殺を行った。

・メナワ1765~40頃

 マスコギー族の戦士レッドスティックスのメンバーとしてクリーク戦争を戦い、戦後土地割譲同意した酋長暗殺するなど強制移住抵抗し続けた。

ピーターマックイーン1780頃~1820頃

 マスコギー族の戦士レッドスティックスのメンバーとしてクリーク戦争活躍バーンコーンの戦いで米軍勝利した。 

レッドバード1788~1828

 ウィネベーゴ族の酋長白人に対して友好的であったが、鉱山労働者の横暴に耐えかね、1827年ウィネベーゴ戦争を起こした。米軍に敗れ、翌年獄死した。

ブラック・ホーク(1767~1838)

 ソーク族の酋長白人土地侵略に対し、1832年フォックス族、ポタワミ族と結託してブラックホーク戦争を起こした。しかし、この戦いはインディアンが数百人殺される悲惨な結果に終わり、ブラックホークは降伏し、捕虜となった。

オセオラ1804~38

 セミノール族の戦士強制移住に反発し、第二次セミノール戦争(1835~42)が勃発した。ゲリラ戦法に苦しめられた米軍は和平交渉を行い、交渉の場に向かったオセオラを捕らえた。彼はその後獄死したが、セミノール族の怒りは収まらず、戦争は続いた。なお、セミノール族の一部はフロリダの奥地に居座り続け、現在に至るまでアメリカ降伏していない

ミカピー1780~1848

 セミノール族の戦士。第二次セミノール戦争活躍し、デイドの戦いで100人米兵戦死させた。

ビリー・ボウレッグス1810頃~1859

 セミノール族の酋長オセオラが獄死した後も第二次セミノール戦争継続し、オキチョビー湖の戦いで勝利するなど活躍した。第三次セミノール戦争でも米軍を苦しめたが、強制移住に従った。

・アビアカ1760~1860

 セミノール族の戦士。第二次セミノール戦争に加わり、オキチョビー湖の戦い、ロクサハッチーの戦いで米軍勝利した。

 

バッファロー・ハンプ1800頃~1867頃

 コマンチ族の戦士。同朋が虐殺された報復1840年の大襲撃を行った。43年テキサス政府と和平を結び、晩年は農夫として暮らした。

・ワルカラ1808~55

 ユート族戦士。その知恵と武勇から砂漠ナポレオン」「史上最大の馬泥棒」と呼ばれた。モルモン教入植者対立し、1853年から翌年にかけてワルカラ戦争と呼ばれる一連の襲撃を行った。

フレチャス・ラヤダス

 ヒカリラ・アパッチ族戦士。シエネギラの戦いでアメリカ軍を破った

・カミアキン1800~1877

 ヤキマ族の戦士白人探鉱者との対立からヤキマ戦争(1855~58)を闘った。降伏拒否してフラットヘッド族の下に逃れた後に故郷に帰還し、最期まで立ち退きを拒んだ。 

レスキ1808~58

 ニスカリー族の酋長白人土地侵奪に反発し、ピージェット戦争(1855~56)を闘ったが、捕らえられ処刑された。

・テカムタム?~1864

 アサバスカ族の酋長鉱山労働者たちの横暴に反発し、ロングリバーウォー(1855~56)を戦い敗れた。

カイルーク

 モハベ族の酋長。当初は白人に対して友好的だったが、モハベ戦争(1858~59)を戦うようになった。降伏し捕らえられるも、脱走を図ったため射殺された

・ヌマガ1830~71

 パイユート族酋長白人との平和を望んでいたが、探鉱者たちがパイユート族の食料を奪ったため、1860パイユート戦争を戦った。敗戦後も白人部族平和のために生涯を捧げた。

マヌエリト1818~93

 ナバホ族戦士1860~66年までアメリカ政府土地収奪強制移住政策抵抗し続けたが、後に降伏し、移住を受け入れた。

アントンガ・ブラックホーク

 ティンパノゴス族の酋長モルモン入植者対立し、1865年ユタパイユート、ナバホと結託しブラックホーク戦争を仕掛けた(ソーク族のブラックホーク戦争とは別)。70年にアントンガは結核で亡くなるが、72年まで闘争は続いた

マンガス・コロラダス1793~1863

 アパッチ族酋長1830年家族や同朋をメキシコ人虐殺されたため、米墨戦争ではアメリカと組んでメキシコと戦った。後に後述のコーチーズと共に米軍と戦った。和平交渉最中に捕らえられ、処刑された。

コーチーズ1805~1874

 アパッチ族酋長マンガスの義理の息子。1861年入植者の息子を誘拐したというあらぬ疑いをかけらたことがきっかけで1872年に和平が成立するまで白人たちと死闘を繰り広げた。 

・リトル・クロウ1810年頃~63

 ダコタ・スー族酋長白人に対して従順であったが、1862年飢餓に耐えかね一斉蜂起を起こし敗れた。翌年逃亡先で農夫に発見され射殺された。

・ドヘサン1790年前後~1866

 カイオワ族の酋長第一アドビ壁の戦いでアメリカ軍に勝利した。

ホワイトベアー(サタンタ)1820頃~78

 カイオワ族の戦士第一アドビ壁の戦いで活躍したほか、ウォレンワゴントレインの襲撃も成功させるなど戦果を挙げた。第二次アビド壁の戦いに関与し、1874年逮捕され、投身自殺した。

シッティングベア(サタンク)1800頃~1871

 カイオワ族の戦士ウォレンワゴントレインの襲撃など軍事基地、幌馬車、入植地への襲撃を多数成功させたが、1870年逮捕され、翌年逃亡を図り殺された。

・ローン・ウルフ1820頃~79

 カイオワ族の酋長交渉によりウォーレンワゴントレイン襲撃で逮捕されたホワイトベアビッグ・ツリーの釈放を実現した。1873年息子と甥が白人に殺されたことがきっかけで闘争を開始。クアナパーカーと組んでレッド・リバー戦争を戦ったが、降伏した。なお、ビッグ・ツリーは他のカイオ戦士と違い、レッド・リバー戦争に参加していない

 

ローマン・ノーズ1830年代~68

 シャイアン族の戦士強制移住に反発し、スー、アラパホと結託してコロラド戦争(1864~65)を戦う、ジュールバーグの戦い、プラット橋の戦いで白人勝利するなど活躍した。和平派が強制移住にしたがった後も白人と戦い続け、1868年ビーチャ島の戦いで戦死した。酋長ではないが、勇猛さとカリスマから白人から酋長であると誤解された。

レッドクラウド1822~1909

 ラコタスー族戦士ララミーからモンタナへの金鉱に向かう道路建設に反発し、シャイアン、アラパホと結託してレッドクラウド戦争を戦った(1866~68)。米軍道路建設を諦め、砦を放棄したため、和解が成立。レッドクラウド居留地に入り晩年キリスト教改宗した。 

ハイバックボーン1820~1870

 ラコタスー族戦士レッドクラウド戦争に参加した。戦後敵対するショショーニ族と交戦し、戦死した。

 

ヤングマン・アフレイド・オブ・ヒズホース(彼のウマを恐れる若者)1836~1893

 ラコタスー族戦士レッドクラウド戦争に参加、ウーンデッドニーの虐殺後はアメリカ政府平和交渉に当たった。

キャプテンジャック1837~1873

 モードック族の酋長居留地への強制移住に反発し、複雑な地形を利用して装備、戦力で勝る米軍を苦戦させた。(モードック戦争1872~1873)戦争の途中の和平交渉が決裂し、エドワードキャンビー少将殺害されたため、インディアン戦争米軍将軍が殺された唯一の戦いとなった。降伏絞首刑に処されたキャプテンジャック遺体見世物とされた。

スカーフェイスチャーリー1830頃~1896

 モードック族の戦士モードック戦争に加わり、サンビュートの戦いで勝利した

・アイアン・ジャケット1790前後~1858

 コマンチ族の酋長スペイン人の鎖帷子を身にまとって戦い、勇名をはせた。しかし、彼の防備はリトルローブクリークの戦いではライフル弾を防げず、戦死した。

・ペタ・ノコナ1820頃~1864

 コマンチ族の酋長。アイアンジャケットの息子。1836年パーカー砦を襲撃し、白人女性シンシアパーカー誘拐、妻とする。1860ピーズ川の戦いで敗れ妻を連れ戻された悲しみと戦傷から亡くなった。

2022-10-07

・クアナパーカー1840年代~1911

 コマンチ族の酋長。ペタ・ノコナとシンシアパーカーの息子。1874年居留地への強制移住に反発して、カイオワ、アラパホ、シャイアンと共に白人と戦った(レッド・リバー戦争)。しかし、食料源であるバッファローが狩り尽くされたため翌年降伏居留地入りした後も部族を率い、白人文化を受け入れる一方でインディアン文化も守り続けた。 

ブラック・ケトル

 シャイアン族の酋長白人との共存を臨む平和主義者で交渉による戦争回避に生涯を捧げたが、裏切られ続けた。最期はワシタ川の虐殺カスター指揮下の第7騎兵連隊無抵抗女性子供共に虐殺された。ブラックケトルは死の瞬間まで白旗を掲げ、「友達だ!」と叫んだが無視され蜂の巣にされた。

シッティング・ブル1831~90

 ラコタスー族ハンクパパの戦士若いからレッドクラウド戦争,ブラックヒルズ戦争(1876~77インディアン聖地ブラックヒルズを守るための大激戦)などの白人との戦いに従事した。1876年リトルビッグホーンの戦いではシャイアン族、アラパホ族と共にジョージカスター指揮下の第七騎兵連隊250名を全滅させた。スー族はその後降伏するも彼は頑なに居留地入りを拒みカナダ亡命した。71年に帰国し、捕虜となった。暴動扇動したという無実の罪で逮捕されそうになり抵抗したため射殺された。

クレイジーホース1840~77

 ラコタスー族オグララ戦士レッドクラウド戦争ブラックヒルズ戦争などに従事し、その勇猛さをシッティング・ブルと並び称えられた。1876年ローズバッドの戦い、リトルビッグホーンの戦いで米軍を破った。しかし、物量や装備で勝る米軍に敵わず降伏し、捕虜となった後に銃剣で刺殺された。

レイン・イン・ザ・フェイス1835~1905

 ラコタスー族ハンクパパの戦士レッドクラウド戦争ブラックヒルズ戦争従事し、リトル・ビッグホーンの戦いではカスターの心臓を切り取った。1880年降伏した。

タッチ・ザ・クラウド1830後半~1905

 ラコタスー族戦士クレイジーホースの親戚で2m近い大男であった。リトルビッグホーンの戦いに参加した。

・ゴール1840年頃~1894

 ラコタスー族戦士。リトルビッグホーンの戦いでは騎兵連隊を分断し、勝利に貢献した。シッティングブルの盟友だったが、後に仲違いし1881年降伏した。

レッド・エンド1797~1881

 ダコタ・スー族酋長。兄を白人に殺されたことへの報復スピリット湖畔の入植地を襲撃した。リトルビッグホーンの戦いにも参加し、シッティング・ブルと共にカナダ亡命し、現地で亡くなった。

ラメホワイトマン1830年代後半~76

 シャイアン族の酋長。リトル・ビッグホーンの戦いで戦死した。

・ジョゼフ酋長1840~1904

  ネズ・パース族の酋長平和主義者であり、キリスト教改宗するなど白人に対して友好的であったが、1877年居留地への強制移住に反発し、カナダへの亡命を図り、部族を率いて1600km近い大移動を行った。巧みな戦術白人の追撃をかわし続け、赤いナポレオンと称えられたが、最後は捕らえられ、逃避行は失敗に終わった。

・リトル・ウルフ1820~1904

 シャイアン族の酋長レッドクラウド戦争ブラックヒルズ戦争に参加。その後米軍降伏したが、部族を率いて居留地から故郷への脱走を図り、2000km以上の大移動を行った。途中で降伏するもシャイアン族は故郷への期間を認められた。

モーニングスター(鈍いナイフ)1810~1883

 シャイアン族の酋長レッドクラウド戦争ブラックヒルズ戦争に参加。米軍降伏後、リトルウルフと共に大脱出を率いた。

・ヴィクトリオ1825~1880

 アパッチ族酋長1879年居留地から脱走し、アメリカメキシコに対して挑戦した(ヴィクトリオ戦争しかし、翌年メキシコ軍に包囲され戦死した。

・ナナ1810年代~1896

 アパッチ族戦士。ヴィクトリオの姉と結婚し、ヴィクトリオ戦争でも共に戦った。1886年降伏した

ローゼン1840年代~1887

 アパッチ族女性戦士。ヴィクトリオの妹。ヴィクトリオ戦争従軍し、兄が殺されると、ジェロニモと合流して米軍と戦った。1886年降伏し、翌年病死した。

ジェロニモ1829~1909

 アパッチ族戦士1851年メキシコ当局家族を皆殺しにされてしまう。それ以後獰猛戦士としてメキシコ軍とアメリカ軍を苦しめた。1874年連邦政府強制移住抵抗し、何度か捕らえても脱獄を繰り返した。1886年に捕らえられて以降故郷から連れ去られ、見世物とされるなど屈辱を受け、虜囚のまま死去した。

ビッグベア1825~88

 クリー族の戦士飢餓に苦しめられ、1885年ティカナダ先住民白人の混血)のルイ・リエルの北西反乱に加わった。

・ブコナイゲシク1830年代~1916

 オジブワ族の戦士1898年頻繁なインディアン逮捕森林破壊に抗議し、逮捕されるが脱走。シュガーポイントの戦いで追討軍を破った

デニス・バンクス1937~2017

 オジブワ族の人権活動家1968年アメリカインディアン運動AIM設立デモ選挙活動によりインディアンへの人権侵害に激しく抗議し続けた。その中でも有名なのがアルカトラズ占拠事件(1969~71)とウーンデッドニー事件(1973)である。前者は1年半にも及ぶ長期戦でインディアン人権問題国際的に周知させるきっかけとなった。後者州兵FBI戦車ヘリコプターを動員させる大事件となった

ラッセル・ミーンズ1939~2012

 ラコタスー族オグララ人権活動家アルカトラズ占拠事件後にAIMに参加、ラシュモア山占拠事件、BIAビル本部占拠事件、ウーンデッドニー事件に加わった。ラシュモア山ではワシントンの像に放尿した。何度も逮捕殺人未遂などの危機に陥るが恐れることなインディアンのための活動に生涯を捧げた

2022-10-06

白人抵抗したインディアン英雄たち

タスカルーサ~1540

 ミシシッピ先住民首長スペイン人征服者エルナンド・デ・ソトと交戦し、戦死した。ミシシッピ先住民はチョクトー、マスコギー族の祖先である。 

・オペチャンカノウ1544~1646

 ポウハタン族の酋長ポカホンタス叔父1622年と1644年に白人への大襲撃を行った(第二次第三次ポウハタン戦争)が、捕らえられ処刑された。

・ササカス1560~1637

 ピクォート族の酋長。ピクォート族は白人男性を殺害したと濡れ衣を着せられ、襲撃を受ける。1836年から翌年にかけてピクォート戦争を戦うも、敗北、ササカスはモヒガン族に殺された。ピクォート族は数百人が虐殺奴隷化され、一時期は絶滅認定を受けるまでに激減した。ピクォート戦争白人に協力したナラガンセット族も後のフィリップ戦争白人虐殺されることとなる。 

・ポペ1630~1692

 プエブロ族魔術師スペイン宗教弾圧に対し、1680年一斉蜂起を起こす。スペイン人駆逐したプエブロ族独立国家を築くが、ポペの死後内部分裂しスペイン降伏した。

ハンコック酋長

 南部タスカローラ族の酋長白人土地侵奪奴隷狩りに反発し、タスカローラ戦争(1711~15)を起こす。しかし、北部タスカローラに裏切られ、白人に引き渡され処刑された。

グレイロック1670~1740頃

 アベナキ族の酋長フランス人神父セバスチャン・ラルと結託し、マサチューセッツ植民地総督へダマー戦争(1722~1725、ラル神父戦争グレイロック戦争ともいう)を仕掛ける。ラル神父戦死し、和平が成立した後も散発的に植民地への攻撃を続けた

メタカムフィリップ王)1639~76

 ワンパノアグ族の酋長。ピリグリム・ファザーズを助けた心優しきマサソイト酋長の息子。白人貪欲土地略奪に耐えかね、交戦した(フィリップ戦争1765~66)。白人たちは彼がインディアン君主であると決めつけ、フィリップ王と呼んだが、実際は調停役に過ぎなかった。メタカム戦死遺体戦利品としてバラバラにされ、妻子は奴隷として売り飛ばされた。数千人のインディアンが死亡し、白人勝利に終わった。

・オブアンディヤック1720~69

 オタワ族の酋長英名ポンティアック交易制限したイギリス人たちに不満を抱き、オジブワ族、ポタワトミ族などと連合攻撃しかけた(ポンティアック戦争1763~65)。白人を追い出すことには失敗したが、イギリス政府政策変更を余儀なくされ、インディアン保護区を制定した。オブアンディヤックは白人では無く、対立する部族のピオリア族に暗殺された。

コーンストーク1720頃~77

 ショーニー族の酋長。1774年ダンモア卿の戦争白人と戦った。アメリカ独立戦争ではショーニー族の中立に努め、ランドルフ砦のアメリカ人訪問した際に拘束され処刑された。

・ドラッキングカヌー1738~1792

 チェロキー族の戦士アメリカ独立戦争ではイギリスと組んでアメリカと戦った。独立戦争後は他部族同盟を呼びかけながら、アメリカと戦った。チョクトー族、マスコギー族との同盟を祝う最中心臓発作で亡くなった。

 

・リトルタートル(1747~1812)

 マイアミ族の酋長アメリカ独立戦争ではイギリスと組んでアメリカと戦い、オーギュスタン・ド・ラ・バル大佐戦死させた。独立戦争後はワイアンドット、ショーニー、チェロキー等と北西インディアン同盟を結びアメリカと戦った。(北西インディアン戦争1785~1795)。ハーマー作戦勝利したほか、アーサー・セントクレア少将を破り、600名の大損害を与えた。しかし、フォールン・ティバーズの戦いで敗北し降伏した。

ブルージャケット1738~1810

 ショーニー族の戦士アメリカ独立戦争ではイギリスと組んでアメリカと戦った。北西インディアン戦争でも活躍し、ハーマー作戦セントクレアの敗北で活躍したが、フォールン・ティバーズの戦いで敗北した。

・バッコンガヒラス1720~1805

 レナペ族の酋長アメリカ独立戦争、北西インディアン戦争アメリカと戦い、セントクレア将軍を破ったが、フォールン・ティバーズの戦いで敗れた。

・エグシャワ1726~1796

 オタワ族の酋長アメリカ独立戦争、北西インディアン戦争アメリカと戦い、フォールン・ティバーズの戦いで負傷した

・テカムセ1768~1813

 ショーニー族の酋長白人侵略に対し、インディアン全体の団結を広く呼びかけた。ティッペカヌーの戦いで敗れたが、抵抗を諦めず、米英戦争イギリスと組んでアメリカ交戦した。デトロイド包囲戦で米軍を破り、メグス包囲戦でも攻略には失敗したものの損害を与えた。しかし、テムズの戦いで戦死し、彼の壮大な夢は叶うことが無かった。ちなみにテカムセと米英戦争敵対したウィリアム・ハリソンは1841年9代目大統領就任するが、わず31日で病死した。

ウィリアムウェザーフォード1765~1824

 マスコギー族の戦士。1811年の大地震白人と戦えというメッセージ解釈し、交戦レッドスティックスを率いクリーク戦争(1813~14)を戦った後に降伏した。ちなみにクリーク戦争活躍したジャクソン大統領は後に7代目大統領就任インディアンへの弾圧虐殺を行った。

・メナワ1765~40頃

 マスコギー族の戦士レッドスティックスのメンバーとしてクリーク戦争を戦い、戦後土地割譲同意した酋長暗殺するなど強制移住抵抗し続けた。

ピーターマックイーン1780頃~1820頃

 マスコギー族の戦士レッドスティックスのメンバーとしてクリーク戦争活躍バーンコーンの戦いで米軍勝利した。 

レッドバード1788~1828

 ウィネベーゴ族の酋長白人に対して友好的であったが、鉱山労働者の横暴に耐えかね、1827年ウィネベーゴ戦争を起こした。米軍に敗れ、翌年獄死した。

ブラック・ホーク(1767~1838)

 ソーク族の酋長白人土地侵略に対し、1832年フォックス族、ポタワミ族と結託してブラックホーク戦争を起こした。しかし、この戦いはインディアンが数百人殺される悲惨な結果に終わり、ブラックホークは降伏し、捕虜となった。

オセオラ1804~38

 セミノール族の戦士強制移住に反発し、第二次セミノール戦争(1835~42)が勃発した。ゲリラ戦法に苦しめられた米軍は和平交渉を行い、交渉の場に向かったオセオラを捕らえた。彼はその後獄死したが、セミノール族の怒りは収まらず、戦争は続いた。なお、セミノール族の一部は最期までフロリダの奥地に居座り続け、現在に至るまでアメリカ降伏していない

ミカピー1780~1848

 セミノール族の戦士。第二次セミノール戦争活躍し、デイドの戦いで100人米兵戦死させた。

ビリー・ボウレッグス1810頃~1859

 セミノール族の酋長オセオラが獄死した後も第二次セミノール戦争継続し、オキチョビー湖の戦いで勝利するなど活躍した。第三次セミノール戦争でも米軍を苦しめたが、強制移住に従った。

・アビアカ1760~1860

 セミノール族の戦士。第二次セミノール戦争に加わり、オキチョビー湖の戦い、ロクサハッチーの戦いで米軍勝利した。

 

バッファロー・ハンプ1800頃~1867頃

 コマンチ族の戦士。同朋が虐殺された報復1840年の大襲撃を行った。43年テキサス政府と和平を結び、晩年は農夫として暮らした。

・ワルカラ1808~55

 ユート族戦士。その知恵と武勇から砂漠ナポレオン」「史上最大の馬泥棒」と呼ばれた。モルモン教入植者対立し、1853年から翌年にかけてワルカラ戦争と呼ばれる一連の襲撃を行った。

・カミアキン1800~1877

 ヤキマ族の戦士白人探鉱者との対立からヤキマ戦争(1855~58)を闘った。降伏拒否してフラットヘッド族の下に逃れた後に故郷に帰還し、最期まで立ち退きを拒否した。 

レスキ1808~58

 ニスカリー族の酋長白人土地侵奪に反発し、ピージェット戦争(1855~56)を闘ったが、捕らえられ処刑された。

・テカムタム?~1864

 アサバスカ族の酋長鉱山労働者たちの横暴に反発し、ロングリバーウォー(1855~56)を戦い敗れた。

カイルーク

 モハベ族の酋長。当初は白人に対して友好的だったが、モハベ戦争(1858~59)を戦うようになった。降伏し捕らえられるも、脱走を図ったため射殺された

・ヌマガ1830~71

 パイユート族酋長白人との平和を望んでいたが、探鉱者たちがパイユート族の食料を奪ったため、1860パイユート戦争を戦った。敗戦後も白人部族平和のために生涯を捧げた。

マヌエリト1818~93

 ナバホ族戦士1860~66年までアメリカ政府土地収奪強制移住政策抵抗し続けたが、後に降伏し、移住を受け入れた。

アントンガ・ブラックホーク

 ティンパノゴス族の酋長モルモン入植者対立し、1865年ユタパイユート、ナバホと結託しブラックホーク戦争を仕掛けた(ソーク族のブラックホーク戦争とは別)。70年にアントンガは結核で亡くなるが、72年まで闘争は続いた

マンガス・コロラダス1793~1863

 アパッチ族酋長1830年家族や同朋をメキシコ人虐殺されたため、米墨戦争ではアメリカと組んでメキシコと戦った。後に後述のコーチーズと共に米軍と戦った。和平交渉最中に捕らえられ、処刑された。

コーチーズ1805~1874

 アパッチ族酋長マンガスの義理の息子。1861年入植者の息子を誘拐したというあらぬ疑いをかけらたことがきっかけで1872年に和平が成立するまで白人たちと死闘を繰り広げた。 

・リトル・クロウ1810年頃~63

 ダコタ・スー族酋長白人に対して従順であったが、1862年飢餓に耐えかね一斉蜂起を起こし敗れた。翌年逃亡先で農夫に発見され射殺された。

・ドヘサン1790年前後~1866

 カイオワ族の酋長第一アドビ壁の戦いでアメリカ軍に勝利した。

ホワイトベアー(サタンタ)1820頃~78

 カイオワ族の戦士第一アドビ壁の戦いで活躍したほか、ウォレンワゴントレインの襲撃も成功させるなど戦果を挙げた。第二次アビド壁の戦いに関与し、1874年逮捕され、投身自殺した。

シッティングベア(サタンク)1800頃~1871

 カイオワ族の戦士ウォレンワゴントレインの襲撃など軍事基地、幌馬車、入植地への襲撃を多数成功させたが、1870年逮捕され、翌年逃亡を図り殺された。

・ローン・ウルフ1820頃~79

 カイオワ族の酋長交渉によりウォーレンワゴントレイン襲撃で逮捕されたホワイトベアビッグ・ツリーの釈放を実現した。1873年息子と甥が白人に殺されたことがきっかけで闘争を開始。クアナパーカーと組んでレッド・リバー戦争を戦ったが、降伏した。なお、ビッグ・ツリーは他のカイオ戦士と違い、レッド・リバー戦争に参加していない

 

ローマン・ノーズ1830年代~68

 シャイアン族の戦士強制移住に反発し、スー、アラパホと結託してコロラド戦争(1864~65)を戦う、ジュールバーグの戦い、プラット橋の戦いで白人勝利するなど活躍した。和平派が強制移住にしたがった後も白人と戦い続け、1868年ビーチャ島の戦いで戦死した。酋長ではないが、勇猛さとカリスマから白人から酋長であると誤解された。

レッドクラウド1822~1909

 ラコタスー族戦士ララミーからモンタナへの金鉱に向かう道路建設に反発し、シャイアン、アラパホと結託してレッドクラウド戦争を戦った(1866~68)。米軍道路建設を諦め、砦を放棄したため、和解が成立。レッドクラウド居留地に入り晩年キリスト教改宗した。 

ハイバックボーン1820~1870

 ラコタスー族戦士レッドクラウド戦争に参加した。戦後敵対するショショーニ族と交戦し、戦死した。

 

ヤングマン・アフレイド・オブ・ヒズホース(彼のウマを恐れる若者)1836~1893

 ラコタスー族戦士レッドクラウド戦争に参加、ウーンデッドニーの虐殺後はアメリカ政府平和交渉に当たった。

キャプテンジャック1837~1873

 モードック族の酋長居留地への強制移住に反発し、複雑な地形を利用して装備、戦力で勝る米軍を苦戦させた。(モードック戦争1872~1873)戦争の途中の和平交渉が決裂し、エドワードキャンビー少将殺害されたため、インディアン戦争米軍将軍が殺された唯一の戦いとなった。降伏絞首刑に処されたキャプテンジャック遺体見世物とされた。

スカーフェイスチャーリー1830頃~1896

 モードック族の戦士モードック戦争に加わり、サンビュートの戦いで勝利した

・アイアン・ジャケット1790前後~1858

 コマンチ族の酋長スペイン人の鎖帷子を身にまとって戦い、勇名をはせた。しかし、彼の防備はリトルローブクリークの戦いではライフル弾を防げず、戦死した。

・ペタ・ノコナ1820頃~1864

 コマンチ族の酋長。アイアンジャケットの息子。1836年パーカー砦を襲撃し、白人女性シンシアパーカー誘拐、妻とする。1860ピーズ川の戦いで敗れ妻を連れ戻された悲しみと戦傷から亡くなった。

https://anond.hatelabo.jp/20221007130539

2022-06-13

J-POPブルマーはいかに表現されてきたか、そしてブリトラブルマー

皆様お元気ですか。

私は相変わらずです。

調査方法

[歌詞検索サービス 歌ネット]にて「ブルマ」を含んだ歌詞キーワード検索する。

なお「ブルマ」とは関係のない「ブルマン」(ブルーマウンテンコーヒーの略)、「テーブルマナー」や「ゼンカイオブルマジーン」(註:ゼンカイブルーンとゼンカイマジーヌというロボットが合体してこんな名前になるらしい)が引っかかるのでそれは除外した。また、ドラゴンボール登場人物であるブルマも含めていない。

さて、調査の結果、いくつかのパターンに分けられることがわかった。

アニメ&ゲーム

魔法少女プリティサミーイメージソングDOUBLE MIND」(1998/03/25)では

見学ばっかりの

体育じゃ 泣けてくる

いらない ブルマなら

売り飛ばしちゃいたくなる

と、当所のブルセラブームを感じさせる歌詞がある。ウィキペディアによれば、1991年から1992年ブルセラショップの名がついたそうで、宮台真司は当時ブルセラ社会学者と呼ばれたという。なんだそりゃ。

ドージンワークエンディング水橋舞「夢みる乙女」(2007/07/25)では

ソ・ラ・は ピンク色で

ブルマもビュッと飛んで行く

というよくわからない歌詞がある。作者のヒロユキ自画像ブルマーに一本線の手足と顔が付いているというもの。そのため「ブルマくん」と名乗っていたそうだ。しかし、「アホガール」以降はそれがバナナに変わっているとのこと。

らき☆すた」のイメージソングも2つあった。

コスプレ衣装連呼する「ロリィタ帝国ビショージョ大帝」(2007/10/31)では

こなたブルマー」おっさん

ブルマ世代はすでにおっさんである暴露され、

男子リムリ大改造」(2008/03/26)では

着るなら着なさいよ

スク水ブルマーべらんめえ

という歌詞があるが、これもよくわからない。元々オープニングの「もってけ! セーラーふく」もよくわからなかったのでそういうものだろう。

迷い猫オーバーラン!イメージソング、「スキだからスキ」(霧谷希というキャラキャラソン)(2010/06/25)では

イイ子 ワルイ子 どっちでもない

わたしは わたし だから

ブルマ スパッツ えらべない

しりは ひとつ だから

珍妙歌詞で、さすがスパッツの上にブルマーをはく「ブルッツ」という概念を考えたアニメであるな、と納得した。一昔前には「はっぴぃにゅうにゃあ中毒隔離スレ」なってスレッドが2chにあったのだが、覚えているだろうか?

ちょっと変わったのでは聖Smiley学園生徒会「twinkle*2」(2014/03/05)で

「追いかけっこしてたら迷った!」

ブルマ絶対正義です!」

という女声電波ソング(註:電波ソングというカテゴリも、そのうち「電波」という表現がまずいといずれ改称されそうな予感がする)っぽい歌詞なのに、これはニコニコ動画男性歌い手たちが学園生活を送っているという体裁CDなのである

アニメゲームとは違うが、ボーカロイドではデッドボールPの「クリスマスヒトリポッチ」(2014/07/02)があり(註:初音ミクWikiによれば2012年クリスマスソング。前述の日付はおそらくCDになった日)、

ローションドロドロノブルマ

と、ブルマーを使った自慰行為表現されている。このサイトではカタカナ歌詞だが、元の歌詞は㍍などの記号の下半分だけをつなげて読ませるものになっている。

まり

㌔㍓㍇㍎㌔㍀㌔㌨㍔㌏

となる。

アイドル

2009年結成のアイドルグループ、私立恵比寿中学体操」(2013/07/24)には

ブルマ

トレパン

トレシャツ

ハチマキ

腕を胸の前に上げて ケイレンの運動

という歌詞があるが、あまりブルマーはそこまで歌詞の中で重要意味はなさそう。少なくともPVはクオーターパンツ姿である

ブリトラ

驚いたのがブリーフ&トランクスブルマ率の高さである

ブルマン」(2000/05/01)では

ブルマはいたらそのブルマ

へその上まであげている

1組の桜井

体操着とブルマが1:1よ

桜井……桜井にはあだ名がある

ブルマン……

ブルマ姿を描写している。

後続の毛玉があるという表現が生々しい。

また、「となりの柳橋」(1999/09/01)では

となりの柳橋が言いました

伊藤くんに言いたいんです。

スカートの中をのぞかないでください。」

となりの柳橋が言いました。

ブルマはいてるからいいけれど、

掃除時間にのぞかないでください」

などと生々しい小学生実態を歌っている。

そして挙句の果てに「ひとりのうた」(1999/09/01)では、

ひとりきりっていいよね 座布団のにおい かぎまくれるし

ブルマをこっそりかぶってみても いじめられない

という歌詞がある。さすがに僕もかぶることに興味はない。

ブリトラ伊藤多賀之と細根誠、どっちがブルマフェチなのかどうかは知らないが、どちらも1976年まれブルマ世代ではある。生々しいのはそのせいか

その他

オレたちひょうきん族」の「タケちゃんマンの歌」には

赤いホッペに 太まゆげ

ひょうきんブルマあみタイツ

と彼の姿を歌っている。あれは提灯ブルマと呼んでいいのかわからないが、まあいいだろう。歌詞風俗街の名前を織り込む当たり、時代を感じる。

またmiCKun「O-Z-3 feat. Crystal Boy」(2011/01/12)では

レペゼン駄菓子屋世代 おニャン子 あの子ブルマを見て興奮

今や大人になり気になる加齢臭 生きてる限り楽しめよ永久

昭和世代象徴として用いられている。miCKunはmihimaru GT」のメンバーmiyakeで、「mihimaru GT」は「気分上々↑↑」で知られる。

まとめ



それではまた。

2020-07-22

anond:20200722155441

牙一族とシンとユダエロい事してたような気もする。

カイオウもリンを孕ませようとしてた記憶がある。読んだの昔だから覚えてない。

2020-04-28

anond:20200428012144

ビタミン→ヴァイダミン みたいなこと?

それとも

コヨーテカイオウリ みたいなことでもいいの?

2013-04-08

ネタバレしない映画ドラゴンボール感想

見てきました。

まり期待してなかったせいもありますが、かなりしっかり作ってありました。

通常版で見たのでアイマックスはどうなのか分かりませんが、通常版でいいと思いますアニメですし。

全体的に子供向けの下らないギャグもあり、大人向けの懐かしい映像リメイクして折り込み、というのを交互にやっていて、子どもと一緒にみるお父さんは楽しいでしょうね。

きっと映画の後アイスクリームでも食べながら「あそこはお父さんが子供の時こうだった」だとかなんとか言って盛り上がるんでしょうね。

35歳童貞の僕には想像もつきませんが、しいていえば曲はオリジナルがよかったなぁ

戦闘シーンはゲームみたいでしたけど、色使いとスピード感があって楽しめました。

スーパーサイヤ人ゴッドの設定もその後の戦いでなる必要がないって落とし所があるし、パンちゃんが鍵になってたり、ビルスが仲間じゃない設定もチートにならなくて済んでます

カイオウサマの星の所以とか、細かい後付け設定も披露してて楽しめました。

エンドロールの演出も大人は懐かしみ、子どもは一から読んでみようという気にさせるいい販促でした。

流石に鳥山明先生が書いてるだけあります

映画館でみる必要はないかもしれませんが、色んな世代と見る事によって許されるシーンもかなりある映画なので、家でみてるとベジータの踊りでテレビを消したくなるかもしれません。

 
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