はてなキーワード: 電波少年とは
なぜお笑いブームは続くのか?
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かつてのテレビ界には合い言葉がありました。「視聴者を巻き込め」というやつです。企画会議で必ず聞かされた言葉です。視聴者を、ただ受動的に番組を見る存在にしておかず、積極的な関与者にしろ(そう思わせろ)ということです。視聴者参加はその古典的な手法で、「電波少年」系の企画などは、その進化した姿です。送り手と受け手の間にあるテレビ画面という枠をいかに破壊するかということで、これは要するに、双方向性への希求です。テレビマンの腕の見せ所は、本質的に一方通行なテレビというメディアにおいて、それをどこまで擬似的に実現できるかにあり、テレビの進歩のエネルギーは、そこから生まれていたのです。
しかし、ウェブの登場ですべては変わりました。「視聴者を巻き込め」と、知恵の限りを尽くしてテレビが越えようとしていた壁の向こうに、きょとんとした顔でウェブがいる!そして勝手気ままに振る舞っている!この期に及んで壁を越えようとするのは、滑稽なばかりかテレビの存在意義を低下させるばかりです。そこで00年代中期からさかんにこう叫ばれ始めました。「テレビにしかできないこと」を探せ。
テレビ以上のものになろうとするのを止めて、テレビであることそれ自体の中に価値を見つけようというわけです。しかし、テレビにしかできないことは実はそんなにありません。なるほど局にはコンテンツ制作のノウハウはありますが、そこは何もテレビというメディアに縛られる必要はありません。テレビにしかないものを突き詰めれば、結局のところ過去へのノスタルジーと、華やかな芸能界と、大衆動員力に尽きるのです。
なんとなく独り言をつぶやいてみたくなって、なぜ「しんぼる」に僕は感動したかについて書いてみます。ちょっと長いから興味無い人はスルーで。
まあ言うとくと、一作目の「大日本人」も「しんぼる」も、いつも「ガキ使」や「HEY」で見ているような松っちゃんを期待すると肩透かしくらいます。特に「大日本人」はそれが顕著。
まず「大日本人」ですが、「え?これって笑うところなの?」みたいなシーンがいくつも続きます。
スタッフの笑い声みたいなものが一切ないために、つられ笑いもできません。メイキング見て初めて「なぜここで笑わなきゃならんのか」ということがわかる、もうわかるやつだけついてこいという、ものすごい閉鎖的で排他的な映画です。
「ごっつええかんじ」から「ビジュアルバム」へと続く、松本が自著で説いた「演者は客を選べる」という思想に基づいて、観客をふるいにかけているようなコント作品の集大成が「大日本人」。
これらの作品は「わけわからん」と言って切り捨ててしまっていいと思います。「大日本人」を観て爆笑しているような人間には近づかんよーに。
まず間違いなく「オレだけが松本の笑いを理解できるんだ!」病をこじらせてしまっている松本教信者です。中二病と言い換えてもいいかも。肥大した自意識をこういったもので武装してるんですな。
だから僕は「大日本人」を観て、「ああ、松っちゃんはこれから信者引き連れて信者のための映画を作っていくのかなあ・・・」なんて思ったりしました。
で、「しんぼる」ですが・・・
正直言って面白かったです。感動さえしました。
今までずっと閉鎖されたコミュニティに向けて自分の本当の笑いを発信してきたあの松本が、プライドを捨てて一歩を踏み出してくれたのだと思っています。
「突如挟まれるアメコミ調」 「天丼」 「大声や奇声を張り上げる」などといったギャグが「しんぼる」には大量につぎ込まれています。
これって、電波少年の企画で撮った「サスケ」というコントで特に外人ウケがよかったギャグなんですよ。つまり、「しんぼる」の下敷きは「サスケ」です。基本的にこれの延長線にあります。
でもこういうギャグって別に外人に限ったわけじゃないんですよね?我々日本人にとってもわかりやすく、笑いやすいギャグだと思うんです。
つまり、万人に向けての笑いだと。
「しんぼる」って、映画単体で観ると、まあ色々酷評されているように、よくできた映画とは言えないかもしれません。
しかし、僕みたいな元松本教信者からすると、ずっと閉鎖的だった松っちゃんが外に、万人に向けて発信してくれた!ってただただ感激しちゃうんですよねえ。
こういった面から観ると、「しんぼる」は非常に革新的な映画だと思います。「映画」というフォーマットに対してではなく、「松本人志」に対して、ですが。
「制度的な不利」の問題を語るのに、日本だけで完結してるってどうなのよ?
例えば、他の国では外国からやってきて制度的な不利はあるのか? 例えばチュニジアからロシアに行ったとして、ロシアで制度的な不利はあるのか、それは日本でのことと比べてどうなのかってのが基準じゃない?
その場合と遜色なければ、「日本における制度上の不利は常識の範囲内」ってことになるんだろうし。
全てがネイティブと同じ扱いでなければならないってこたあないと思うんだが。
前に、テレビの電波少年で、日本人の青年と香港人の青年が、アフリカを南から北までヒッチハイクで旅をするってのがやってて、国境を渡るときに、ほとんどの国で日本人のパスポートを見せると簡単にビザが降りるんだけど、中国人のパスポートだと審査に何日もかかって足止めを食うってのがあったんだよ。
世界にはそういう面もあるんでさ。全ての人の扱いが統一されたりはしないよ。
ボロアパート1棟。5から10室程度のもの
生きのいいニート数名
当面の運転資金
アパートにニートを住まわせ、その生態をインターネットで公開するサービス
ニートはニートハウスに居る限りにおいて居住と生命の安全を保証されるものとする
原則として各部屋のニートはそれぞれ持ち寄りの企画に基づいた生活を営む
企画としてはできるだけ人目を引くものが望ましい。電波少年や黄金伝説などで採用されるようなものを想定する
生活、活動の様子は人間としての最低ラインを除き、すべてインターネット上で公開する
各部屋それぞれにブログ、twitter、Ust、チャットや掲示板などを設営し、更新を義務付ける
1週間など適当なスパンで閲覧者による投票や各メディアへのアクセス状況などを集計し、成績が悪い入居者はニートハウスを追放される
部屋に空きが出た場合は新たに入居者を募集する。
入居者の募集に際しては、志望者およびそれぞれの持ち寄りの企画でコンペを行う。
生命に危険が差し迫った場合などは入居者と相談の上、企画の中断、退居を実施できるものとする
懸賞ニート:ネットの懸賞に応募し、獲得商品で生活を営むニート
株ニート:企画開始時に融資を受け、株やFXで生き抜くニート。資金ゼロで強制退去
イラストニート:ネット経由のリクエストに答えてイラストを描き続けるニート
通常のアフィリエイトのほか、各部屋の企画に基づいてスポンサーを募る
(株ニートであれば使用している証券会社、料理系のニートであればレシピサイトや使用食材卸、クリエイト系のニートの場合は使用機材メーカなどとのタイアップを図る)
外国で似たような企画があった気がした。もろパクリにならなければ大丈夫だろ
企画がパクリぽい場合は訴えられないようにアレンジすればたぶん大丈夫
ニートハウスポータルサイトTopにアパートのイラストを置いておき、各部屋の部分に入居者の顔写真を貼るなどして一覧性を確保する
炎上すればpv的においしいのでポータルサイトTopのイラストで該当の部屋から火の手をあげたり、ブログの背景を真っ赤に染めるなどして煽る(企画中断時は遺影に)
マンネリ化してきた場合は入居者間でケンカさせたり、ブログでの不謹慎ネタ、犯罪自慢などあらゆる手段を用いて各部屋を同時多発的に炎上させ、最終的にはニートハウス全体が火柱に包まれ爆発。壮絶な最後を遂げる
ゼロアカ道場が面白い。道場の課題の内容などはほとんど理解できないのだけど、それでも面白い。
面白い面白いと言ってまわっているのだけど、あんまり理解してもらえないのでちょっとまとめてみようと思う。
ちなみに、私自身にはゼロアカ道場やそれに参加する人たちに対しては頑張ってほしいと心から思っている。
ゼロアカ道場について書く前に、まずはあの革命的テレビ番組について語らなければならない。
「ガチンコ!」である。番組の概略については以下のリンクを参照してほしい。
「ガチンコ!」が革新的であったところはいくつもあるのだが、それを一言で言うと、
という事に尽きる。
「テレビ番組」がすべからく「やらせ」である事はある意味で当たり前だ。「本当に」タレントが怪我したり、アクシデントが起こってしまったら放送できないのだから。その検閲をくぐりぬけ「お茶の間にお届け」された時点ですでにテレビ番組というのは作為的なものだ((その意味でその限界に挑んだという意味で初期電波少年というのは偉大な番組であった))。
「ガチンコ!」はそういうメディアにおいて「ガチンコ(やらせなし)」を名乗った。
そしてさらに凄いのは確信犯的にガチンコ!は「ガチンコ!はやらせである」とわかるような演出を施しそれを含めて視聴者に提供した事だ。(「ガチンコラーメン道」における「神輿やないねんから」などの超名言はその最たるもの)
つまり、「ガチンコ!」は、
「ネタ(演出手法)としての面白さ」
の二つを楽しめる番組の構造であったと今にしたら思う。そして、その楽しさというのは極めてプロレス的楽しさである(ガチンコ!の神ぶりについてはこちらを参照。http://www.geocities.co.jp/Bookend-Shikibu/8539/d35.html)。
翻ってゼロアカ道場。
「天下にあまねく評論家志望者を募り、関門をくぐり抜けた猛者一人に天下の講談社がデビュー作一万部を保障」
つかみはOKである。そして、人数が絞れてきたところで各人のキャラと名前・顔がはっきり分かるようになってきて俄然面白くなってきた。
そして文学フリマでの同人誌販売。「ネタ」としても面白くなってきた。
くれぐれも断わっておくが、私は「ゼロアカ道場はやらせである」などとは露ほども思っていない。
そもそも、こういった場が設定されることさえ前代未聞の快挙であると私は思うし、大変だろうなと思う。だけど、文学フリマでの同人誌販売という課題を見て「これって『揉めてくれ』って言ってるようなもんじゃね?」と思ったのは事実だ。
というか、「プロジェクト」なんてその重要さが増せば増すほど殺伐としたものになる。
しかも、一緒に同人誌を作るのは友達ではなく、ライバルである。
そもそも、「批評家」に興味のある人(今の世間では希少人種だ)の中のそれなりの数の人たちにとって「批評家」の本なんて読まないのではないか。彼らの「キャラ」を消費している。
「言説それ自体よりも論壇内プロレスの方が売れる」
という事に多くの人たちが気がつきはじめているのではないか。
現に、私自身も「ゼロアカ道場」には興味があるが、「そこでの言論」にはほとんど興味がない。
そういったところを見るにつけ、ゼロアカ道場のプロデュース側はある程度は確信犯なのではないか、と私は思っている。ガチンコ!ほど神の領域には入らないとしても。
って言葉がある。
電波少年の初期のころに、えらい陶芸家の先生の展示会に松村がアポなしで行って、茶碗でご飯を食べてくるって回があって。
当然、先生の周囲の人たちは断ったんだけど、先生は平然として「いいですよ。用の美ですから」といって松村に茶碗を使わせたんだよね。
たしかひとつ、数十万円する茶碗だ。
本来は金持ちの家の床の間にでも飾って、見て楽しむ、純粋な美術品なんだけど、それでも先生は、「用の美」と平然とおっしゃる。
それ以来、何かのデザインについて議論すると、必ず「用の美」が頭に浮かぶんだよね。
本質がたとえ飾り物の美術品でも、使って美しいもの、使いやすいもの、飯よそってうまそうに感じるものじゃないと価値が落ちる。