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2010-03-01

弔い問答 その2

ttp://indai.blog.ocn.ne.jp/osorezan/2010/03/post_82b7.html

南 もっと問題なのは、おそらく『クレヨンしんちゃん』以降には家族マンガはでませんよ。だってここから先、一人しかいないもの。あれは大変な問題なんです。

 家族マンガというのは、およそ三十年間近く『サザエさん』が独壇場だったんですよ。ところがその後、一九九〇年代に『ちびまる子ちゃん』が出たんですよ。この二つの決定的な違いは、じいさんの存在感なんです。波平さんと舟さんは家長としての存在感を持っていますが、『ちびまる子ちゃん』のじいさんは、からかわれる道化みたいな役になっています。でもまだ一応三世代なんです。事実上核家族ですが。

 ところが次の『クレヨンしんちゃん』が団地住まいの三十歳前後夫婦に、五歳の手に負えない息子がいるという完全な核家族。ここから先に家族はいないですよ。

 『サザエさん』には構造的に非常に優れたところがあって、あのマンガは、日本人が必ずどこかに自分を位置づけることが出来る。そのポイントは、マスオさんです。マスオさんは婿ではない、フグ田なんだから。だけど、あたかも婿であるかのように振舞っている。ということは、婿入りした男は全部そこに引っかかっている。『サザエさん』には、じいさん、ばあさん、親子関係、兄弟関係もあるが、実は叔父や姪と甥の関係もある。タラちゃんは弟じゃない。すると日本家族構造として必要な要素が、全部そこで見えるようになっているんです。これはもうないんですよ。そして『クレヨンしんちゃん』の先はない。

 『サザエさん』に対応していたのが、日本仏教伝統的な教団で、おそらく事実上核家族である『ちびまる子ちゃん』と『クレヨンしんちゃん』の世代に対応したのが、たぶん創価学会立正佼成会などの新宗教ですよ。

 その後、家族がなくなったところ、つまり単身者みたいなところに、もろにコミットしてきたのがオウム以降です。オウムの特徴的なのは「出家」と言うでしょう。鎌倉時代以来初めて、日本宗教者が出家ということを真っ向から言った特異な例なんです。

 私はオウム問題を、未だに完全に処理出来ていないんです。とても重要な問題で、日本仏教は逃げまくっていると思いますからね。「オウム仏教じゃない」と言っただけではダメなんです。「仏教じゃない」とは言いがたい側面があるから、ちゃんと処理しないといけない。

 しかも特徴的なのは、「出家」を言った指導者が、出家者じゃないというのが日本的なんです。麻原は在家修行者です。人を出家させても、彼は結婚して、子供をつくっている。非常に日本的なんです。一方、同時に出た「幸福の科学」というのは、全国統一神理学試験というのを教師の選抜にやっていたんです。あれは共通一次テストモデルです。学生みたいな人間信者に想定している。つまり学生とは何か。家族を持たない世帯者ですよ。

2010-02-13

http://anond.hatelabo.jp/20100213121805

戦国とか南北朝は単独支配とはいえないと思うが。

平安や鎌倉時代武家公家で分かれてるし、何を根拠に単独支配が多いといえるのかわからん日本は特殊な国だと思いたいということ?

それに権力に擦り寄るほうが得なのは古今東西変わらないはずでは?

2010-01-18

2とおりの秩序があるということについて考えてみた

世の中の秩序には2つあると思う。

1つは、法律など、表立った秩序。あるいは上から下に向けて作る秩序。

もう1つは、下からの秩序。法律とか政令とかないけど、庶民の間で常識的に通用するきまりみたいなもの。

両者は違うし、対立することも多い。たとえば、駐車禁止の場所にちょっとだけ駐車するとか、速度制限を5キロか10キロほどオーバーとか。自転車の二人乗りとか。大学の歓迎コンパ未成年の新入生が酒飲むとか。みんな違法だけど、現実にはみんな気にせずに行っている。それを悪いという人もあんまりいない。

このように2つの秩序がある。僕は親が固い公務員だったこともあり、杓子定規に、上からの秩序を守るタイプの家庭に育った。親は、そういう意味では後ろめたいことのない人で、俗世間の、法律的にいうとちょっと後ろめたいところのある人たちに対する軽蔑というか無理解を隠さない人だった。

それは、下からの秩序を軽蔑してたんじゃなくて、上からの秩序を守らないことを軽蔑していた。

そういう家庭で育った僕は、家ではそういう感じだし、でも一歩外に出れば、俗世間で暮らす。特に子ども同士なんて上からの秩序意識は薄いけど、それでも一定の秩序がそこにある。下からの、自然にできあがった秩序があるのを感じた。僕の家庭はそういうのとは無縁だったので、そういう下からの秩序に、あこがれみたいなものを持っていて、同時に、そういうところでの振舞い方を知らなかった。

今思うと、僕が大学卒業して、公務員には絶対なりたくない、自分になるべく似合わない職業につきたい、っていうのは、下からの秩序がうずまく世界にどっぷりと漬かりたかったんじゃないかなと思う。

違法世界の秩序で代表的なものは、ヤクザというか極道というのか、そういうヤバい世界。それらの世界は、違法だから、ではアウトローかというと、ある意味、カタギの人よりも厳しい秩序の中で生きている側面もあるという。

それに対して、警察が取り締まるのは、下からの秩序のかわりに上からの秩序を押し付けているとも言えると思う。

でも、下からの秩序なしに上からの秩序は円滑に機能しないだろう。

日本では大昔、奈良時代ぐらいに、大宝律令という憲法を作った。上からの秩序だけど、すぐに有名無実化した。いっぽう鎌倉時代に成立した御成敗式目は、それまでにあった武士たちの間で自然にできていたきまりや慣習などをまとめた、いわゆる下からの秩序を法律化したもので、これが鎌倉幕府が終わったあとでもずっと長い間、参考にされ続け、有効に機能した法律だったという。

今の日本は、政治家法律を作る。政治家個々にはいろんな人がいるとしても、とにかく上から作る秩序であることは間違いない。でも、下からの秩序を積み上げて、それを成文化する、みたいな法律の作り方があってもいいんじゃないかな、と思ったりする。そういう仕組みが全然ないと思うけど、なんかそういう方法ないかなあと思う。

2009-12-15

小沢一郎木曾義仲という妄想

雪斎先生小沢一郎=王莽説を唱えているのでちょっと妄想

イントロ

遠く異朝をとぶらへば、台の水扁、韓の武鉉、露のボリス、米のジョージ、これらは皆、旧主先皇の政にも従はず、楽しみを極め、諫めをも思ひ入れず、天下の乱れんことを悟らずして、民間の愁ふる所を知らざりしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。

近く本朝をうかがふに、天正の光秀、明治の隆盛、大正の奎吾、昭和角栄、これらは猛き心も奢れる事も、皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは前内閣総理大臣麻生太郎と申しし人の有様、伝へ承るこそ、心も言葉も及ばれぬ。

本題

というのはまあ単なる釣りで深い意味はないんだけれども、雪斎先生引用している平家物語で言うなら王莽はちょっと違うんじゃないかと。

むしろ、当初は有能だったのに栄華を極めるにつれて堕落してきたのは自民党の方だと思う。そういう意味自民党平家になぞらえてみたい。そうすると、平家都落ちしてきたときに入京したのは木曾義仲ということになるが、これがむしろかなり当てはまっているのではないかと思える。

木曾義仲は入京当初は熱狂的に迎えられたが、皇室への介入や京市内の秩序回復の失敗、そればかりかむしろ部下の乱暴狼藉によりたちまち民心を失い、放逐されることになる。この、一瞬のカタルシスと、それに次ぐ無能力への急激な幻滅は現在民主党政権とどこか相通ずるものがあるように思えてならない。義仲と行家の関係も、小沢鳩山のそれをどことなく彷彿とさせる。

そこで妄想を敢えて続けさせていただくと、次に政権を取ったのは源氏源氏でも頼朝一門であった。頼朝関東以東を勢力下に入れ、西日本を新たに支配下に治めた朝廷と緊張関係にありながら、鎌倉時代を通じて日本を二分支配していくことになる。

これを現代流に読み替えると、民主党は今後党内クーデターが起こり小沢鳩山らが放逐され、世の半分を支持基盤として確立。一方で、自民党はやがて消滅するも、同じ支持基盤に支えられた保守勢力がやはり世の半分を荷っていくことになる。

即ち、遠からず新生民主党保守系新党による二大政党確立するという予言ができることになるのである。いうまでもなくこじつけに過ぎないが、希望的観測をこめていうと、案外ありそうなシナリオではないだろうか?

2009-07-03

位牌?お位牌?

位牌ってなんだか良く意味が判んなかったですが、こういうことだったんですねー  なるほど

仏教は本来お位牌必要としません。われわれは釈尊弟子であるため、他界では釈尊と一緒になれるはず、特に供養しなくても成仏になれるはずです。仏教起源インドでは、お位牌はほとんど飾られていません。

なぜ、日本はお位牌と仏壇が必要なのか、これは仏教の伝来、日本の文化に深い関係あります。

仏教は紀元後1世紀に 中国に伝わり、538年前後日本に伝わってきました。仏教伝来とともに、中国の文化や風習なども伝わってきました。古代中国儒教では、亡くなった人の名前官位などを板に記する風習あり、これは最初位牌の形です。

日本においでは鎌倉時代禅宗寺院で用いられたが、江戸時代以降一般家庭では用いられた。これは仏教の普及に密接な関係あり。

鎌倉時代に入ると、前時代末期からの動乱で仏教にも変革が起きた。それまでの仏教の主流が「鎮護国家」を標榜した国家貴族のための儀式研究に置かれていたものが、次第に民衆の救済のためのものとなっていったのである。さらに江戸時代徳川家康は、寺院諸法度を制定し、寺社奉行を置き、仏教を取り締まった。また、人々には必ずいずれかの寺院に登録させるようにした(寺請制度)。そのため、今日に至る葬儀を取り仕切る主宰教としての地位を確立した。

仏教普及によって、仏壇仏具は細分化され、お位牌も大量生産の時代が来ました、本来は高価で上流階級しか買えないお位牌は、庶民の間でも簡単に手に入れることが出来ました。

位牌買うならここで買ってあげてください!知り合いのサイトhttp://www.futakiya.com/shopping/

2009-03-25

http://anond.hatelabo.jp/20090322001533

おいおいおいおい、スゲー恣意的に情報抜き出すなよ。

その大奥があった江戸時代不倫は打ち首(後に金で賠償)だぜ? 少なくとも江戸時代には悪いことになってんだよ。もっといえば、鎌倉時代には「嫁取り」っていう習慣ができて間男を取り締まる制度ができ始めている。もちろんこれにはキリスト教関係ない。純粋に治安とか社会情勢のための制度といえる。だいたいお前は/元増田権力者じゃねーだろw

日本における、敗戦後のキリスト教の影響が色濃い文化に帰属した人たちの価値観からすると悪いことなんです。

では?

大奥とか時代物を見ればわかるように、一夫一婦制自体が最近の物だし。権力者が多数の女性を抱えるのは別に今でもそこまではずれた概念じゃない。



配偶者の合意があれば、不倫は悪ではないと言えないこともないので)

さて、配偶者の同意があったら現行法上では法的な責任を問われない、というのは本当だけど。

相手に配偶者がいるとわかっているのに男女の仲になるというのは、

日本の一般的な価値観からすると悪いことなんです。

という発言は、やや、発言者に有利なことだけを集めた発言と言えるので、すこし、是正して欲しい。

どこを是正する必要があるのか、よく分からない。内緒で付き合ってるなら、バレたら法的な責任を問われる可能性があるというのは本当じゃないか。

2009-01-30

8代前って、何百年前のことを指しているんだろう。一般的には800年前?

そういえばTokyoって、江戸時代江戸が中心になる前に、鎌倉時代で中心地の近くになっているんだね…w

だから、江戸時代の前は田舎だったろって意見は、違うかもしれない。。

でも、夜這い文化がなかったのかは疑問。

創作物の中では、土方歳三が確か夜這いしてたよね…?(創作物だからだろwwっていわれたらいい返せない無理)

http://anond.hatelabo.jp/20090130134309

2009-01-14

念仏ドグマ日本人気質の悪しき土壌を作った。

乱暴な一般論化と言われるかもしれないが、念仏者たちを観察してきた経験上から言えば、

長いものには巻かれろとか、石橋を叩いて渡るならまだしも叩き過ぎて壊すとか、迷って迷って自分ではなかなか決められないとか、お上には逆らえねぇとか、どうせ生きてるの無駄だとか、どうせ俺なんてとか、人の幸せの為に自分犠牲にしますとか、生意気なこと言うなとか、こういう権力者に迎合しやすくて女々しいナヨナヨな気質を作ったのは全て念仏思想ドグマだよ。

死んでから極楽逝きますとか言ってるから生きるちからが弱っちくなるんだよ。

釈尊はとんでもないスーパーマンで、凡夫はとうてい仏の足元にも及ばない馬鹿だから易しい教えしか救えないとか、経典の批判を直接しない代わりに、浄土三部教以外の経典を聖道門というレッテル言葉で持ち上げ褒め殺しにし、信仰の道を閉ざして有名無実の無用の長物にしてしまった。そんなのは中国のドンランが作った歪曲教義でしかない。

彼らは一見謙虚そうな態度にみせて、実は理想化された釈尊に押しつぶしされた卑屈根性に過ぎない。それは

オウムのようなカルト奴隷信者となんら変わらないではないか。

そして、その信仰意識すらないものであっても、念仏ドグマの影響に毒された思考のひとをたまにみる。

しかし、

釈尊人間である。

そして、阿弥陀仏西方浄土も、どこか遠い違う世界にあるのではなくて人間の心が生み出した概念に過ぎない。

現実にはありもしない西方浄土阿弥陀仏を追い求めるのは現実逃避オカルトだ。

現実逃避だからそれを信じれば人間がますます弱くなる。

鎌倉時代封建社会のなかで権力者に念仏が重宝がられたのは、民衆を無力化して大人しいく飼い慣らすためだ。

法然仏教を仏に成る宗教から、仏にすがる宗教に変質させたのだ。

だから俺は、織田信長のように念仏嫌いだ。

2008-12-09

日本SUGEE論

最近よく、文化、歴史政治的側面から日本を賞賛するような記事を目にする。

こうした記事に目を通すと、事実と些か異なっていたり誇張されていたりするが、それは別段大きな問題ではない。

というのは、日本がよい国であった、あるいは日本がよい国であるという主張に共感する人が大勢いるという点がこの問題の本質であるのだ。

アメリカ中国といった超大国は多くの国民国家の象徴である国旗国歌に敬意を表している。

イギリスにいたっては、移民に対して女王陛下に忠誠を誓うことを義務づけている。

果たして、日本人の我々は国家に対して、象徴たる君主に対して敬意や感謝の念を抱いたことがあっただろうか?

否、我々は教育の中で徹底的に自虐歴史観自虐正義感を植えつけられてしまっている。

そのために、「日本という国は悪である」という固定概念と都合のいい根拠だけを基に、国家存在意義や価値を判断するようになった。

さらに言えば、国家君主に敬意を表することは服従を容認することでなければ、その歴史を美化することでもないことに気付いていない人が多すぎる。

我々が脈々と受け継いできた文化や歴史を受け入れるということは、それらの中にあった過ち、例えば諸外国への侵略を正当化することでは決して無い。

にもかかわらず、そうした見当違いの思い込みや政治的な思惑で多くの日本人日本に対する誇りや国民たる尊厳を失ってしまった。

この元凶は、戦後の荒廃した日本を目の当たりにした今の教育者層が我々を教育してきたことに由来する。

そうした人達にとって、彼らの戦争絶対悪、国家絶対悪というのは理解できないことも無い。

しかし、歴史を少しでも学べばそうした自虐的な価値観を持つ必要性などどこにも無いのだ。

ただし、我々が少なからず犯した戦争などによる過ちを美化することはしてはならない。

それが客観的な歴史観であり、子供たちに国家への真の敬意を示すことになる。

そういった前提で、「日本はすごい国だ」「こういった事をしてきたんだ」という記事を読むことで、内なる自尊心に気付かされるのは至極自然である。

私たちには誇るべき文化や歴史があり、現在では政治経済的に世界貢献している。

こういう主張をするとすぐに思考停止に陥り、虚無な反論を試みる人がいるが、「我々にとって」日本が素晴らしい国であることには変わりないのだ。

それが嘘だというのであれば、日本SUGEE!コピペを読めばいいだろう。中には誇張もあるが、概ね正しい。

それを読んでも日本が凄い国であると本当に感心できないのであれば、それも個性であろう。

パスポートを持っている人であれば、こうした文言を見たことがあるだろう。

日本国民である本旅券の所持者を通行支障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助関係の諸官に要請する。日本国外務大臣

我々は日本国民であって、その恩恵を存分に受けている。

我々の中には国を憎み、嫌い、怨むような人がいるが、彼らは大きな勘違いをしている。

あなたたちが憎んでいるのは「政府」であり、「国家」ではない。

政府があなたを小中学校に進学させ、政府年金を管理し、政府があなたの生活や安全を保護している。

逆に、政府があなたの生活を圧迫させるような政策を行い、政府があなたの意にそぐわないような政策をとっている。

国家政府関係政治学などで論ぜられるところであるが、重要なのは政府国家を混同している人がいる点なのだ。

もっと言えば、平安時代には政府はなかったがそれと同等の機関が存在したし、鎌倉時代には幕府がその役割を担った。

国家は、名称こそ変われどその間も変わらずに存在した。

日本という国と我々の関係は切っても切り離せない関係にある。

そうであるなら、自分国家を混同しその栄華に浸るのは愚かしく、我々の成長によって社会をよりよくしようとするのが真の愛国であり、国家への敬意の表し方である。

我々が政府搾取され、騙される存在であり続けるのは、何も言わず何もしないからであって、社会構造を変えるのは意志と行動のみである。

そこから脱却することで、我々は初めて、国家に対して誇りを取り戻すことができるのである。

2008-09-25

http://anond.hatelabo.jp/20080925213005

茄子は嫁に食わすなとは、憎らしい嫁には、美味しい茄子を食べさせるのは、もったいないという意味

茄子は体を冷やすから、大事な嫁に食べさせるなという意味

茄子は種が少ないので、子種ができなくなるから食べさせるなという意味などある。

「なす」は東日本の言い方で、西日本では「秋なすびは嫁に食わすな」と言う。

茄子は嫁に食わすなの語源は、意味にも書いてある通り、三種類の説がある。

一般的には「憎らしい嫁にはもったいない」という意味で使われ、同趣旨の諺(ことわざ)に「秋かます嫁に食わすな」「秋鯖(あきさば)嫁に食わすな」「五月蕨(ごがつわらび)は嫁に食わすな」があり、いずれも嫁いびりの句であることから、封建的な家族制度の中で生まれた言葉のようである。

「体を冷やすから」や「子種を心配して」というのは、嫁に対する姑の言い訳から生まれたのかもしれない。

鎌倉時代和歌集『夫木和歌抄』には、「秋なすび わささの粕につきまぜて よめにはくれじ 棚におくとも」とあり、これが秋茄子は嫁に食わすなの語源ともいわれているが、「秋鯖」などの例もあることから説得力に欠ける。

また、「わささ」とは「若酒」と書き「新酒」のことで、「よめ」は「夜目」と書き「ネズミ」を表し、「酒粕に漬けた秋茄子を美味しくなるまで棚に置いておくのは良いが、ネズミに食べられないように注意しろ」という意味で、本来「秋茄子ネズミに食わすな」であるともいわれる。

しかし、この和歌語源とであったとしても、「夜目」は隠語であったことや、新年に忌み詞としてネズミを「嫁が君」と言うが、正月三が日のみ使われるのが一般的で秋には使われないことから、この和歌の「よめ」は「ネズミ」を表した可能性があるだけで、断定できるものではない。

http://gogen-allguide.com/a/akinasuwayomenikuwasuna.html

神様、結局分かりませんでした><

2008-03-04

守護地頭

anond:20080304155134anond:20080304160658 が言うように、日本史かじってれば「地頭(じとう)」の方を連想するよな普通

このフレーズ考えた奴は鎌倉時代に戻って徴税と荘園侵略に励むべし。

2007-10-15

http://anond.hatelabo.jp/20071015182226

どっちかっつーと、3.1が95になったみたいな感じじゃないかなぁ。

そこの認識は話の大筋とは違うんだけどさ。

増田について言うならば、既に起こっていたことを変なタイミングで「革命」とかって言うのは

確かに少し不思議だし変な感じもするんだけど、ターニングポイントをどこに置くかってのは

多分に恣意的な事なわけでさ。鎌倉時代の始まりをどこにおくかとかってのも

わかりやすい、共通認識の得られやすいところに置かれるようなものじゃないかしらんとか。

2007-10-04

http://anond.hatelabo.jp/20071004133540

鎌倉時代だろうが江戸時代だろうが、天皇・公家的には「脳みそ筋肉ゴリラが怖いから政権は渡すけど、本当に偉いのは私たち」じゃなかったのか。

天皇東京に移ってからも、たかだか140年しか経ってないわけだろ。

これまでずっとそんな感じだったんだから、それが染み付いていても仕方がない、って話だ。

それに、「自分の我を押しつけてくる」といっても、(東京で)周囲に「関西弁を話せ」って強制してるわけじゃないだろう。

大阪に来た東北人に「関西弁喋れ」とも強制しないよ。

もちろん、相手に通じやすいように話す心がけもある。

重要な場面では自然敬語標準語になるわけだから、致命的な問題が起きるわけでもない。

そんな神経質になって否定するほどのことじゃないだろ。

2007-09-06

http://anond.hatelabo.jp/20070906001648

土地制度は確かに面白い。

武士の発生と発展に密接に関係しているし。

平安・鎌倉時代の武士が土地をめぐって生々しい逞しさをもっていたのがわかるし、それと対比すると江戸時代の武士が自分の存在意義とか逞しくあることの動機を失って形而上的になっていったのがよく理解できる。

古代から中世の武士が頭を使って抜け目無くしぶとく生きていたことと対比すると、いわゆる武士道的な価値観はいかにも脆弱だ。

2007-06-28

http://anond.hatelabo.jp/20070628224454

政治的実権がどこにあろうと首都首都

鎌倉時代でも江戸時代でも「上京」とか「上洛」といえば京都に行くことだった。

http://anond.hatelabo.jp/20070628221417

確かに京都天皇はいらしたが、

政治的実権は江戸にあったじゃん。

ちなみに、鎌倉時代だってそう(相模国鎌倉だ)。

2007-04-21

ごんたくれ

ごんたくれという言葉を知っていますか。青森方言で「困ったひと」を意味します。

もともとは乱暴者を指して言っていたようで、権田暮という当て字が鎌倉時代の記録にあるそうです。ですからごんだぐれと発音するのが正しいのかもしれませんね。

農村には閉鎖的なイメージもあるかもしれませんが、ある側面から見るとそのような乱暴者を村八分にすることなく共同体の中でなんとかやりくりさせていたところに、困った人でとも一緒にやっていかなければならない生活の厳しさと、人間の優しさの可能性を見ることができるでしょうか。

あなたのまわりのごんたくれにも少しの思いやりをあげてください。

2007-04-13

http://anond.hatelabo.jp/20070413131945

誤った事を堂々と書いてはだめよ。

日本語の「喫茶」とは、もともと鎌倉時代源実朝の時代)に中国から伝わった茶を飲用し効用を嗜む習慣や作法をさす言葉である。

喫茶は本来、喫煙とは関係がない。しかしながら、禁煙の場所が増えてきた今日禁煙の措置を取らないか、喫煙できる場所を設けている喫茶店もあるため、会社員や外回りの営業マンなどの間でコーヒーとともにタバコを一服する場所としても利用されている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%AB%E8%8C%B6%E5%BA%97

ま、俺もコピペだけだけど。

ドトールとかはJTと仲いいのでほぼ喫煙所として機能しているよね。

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