はてなキーワード: 工場労働者とは
数学教育の必要がないという主張は、中学以降で数学を教えるのなんかやめてしまえという意味になるけど、それってつまり大多数の子供に、将来タクシードライバーや工場労働者として一生を過ごすことを、小学校卒業くらいの時点で運命づけてあげるのがいいってことですかね。
2chで大ブームの
みたいな話について自分の理解。
・派遣はモノじゃない
スキルも無くすぐに補充できる労働力であり、しかも工場労働者などの末端派遣は不況時にはそもそも仕事が無い。
不況時に雇用を維持することが社会的責任とするのは厳しすぎる。
好況時に宣伝のために慈善事業をやる、くらいのもんだろ社会的責任って。
このご時世に、無駄に従業員にメシを食わせてやってるボランティア企業があれば尊敬するよ。
たぶんそのうち解雇される。
・内部留保を吐き出せ
内部留保はヘソクリではない。大事な資金。
せいぜい研究開発費に多めにまわすことくらいしかできないんじゃないのか。
派遣法事態は不備が多いのかもしれないし、これすら守ってない企業は言語道断で叩くべき。
でも派遣法が無くなったからって、正社員の雇用が生まれるかっていうとほんのちょっとしか生まれない。
個人的には派遣切りということで企業を叩いているマスコミが嫌いです。
こういうときに対処すべきはもっぱら政府の役目なのではないだろうか。
増税して所得の再分配を進めるということしかないんじゃないでしょうか。
ごく一部の資産家に富が集中して、国全体の数字としては豊かになったのだが、不幸な人間は増える。
この状況はどうやったら打破できるのだろう。
野麦峠にしろ、上野の大火災(工員達が避難を禁止されたために、一酸化炭素中毒死、熱による焼き殺しの目にあって退寮に死亡した)などの、工場労働者の悲惨な環境というのは良く聞きます。
次に、農村は当時、戦後の農地改革によって、土地が小作人に分配されたために、それよりも以前と比べると、楽になった(もちろん絶対的には過酷な状況)という認識しかありません。
もちろん、口減らしによる人売り・人買いがあり、野麦峠にしろ、上野の大火災が起きたことは認識しています。
その2つが前提で、
金の卵というの単語が、優秀な人に付けられた標語であったか、単に単純労働者を騙すための詐称であったか。という使い分けについては
後者であったと思います。農村が苦しく人減らしで売られてきて、過酷な労働に従事する。どうみても、人買いの世界であって、優秀な人に高い給料を支払って才能を育てる。
という世界であったとは思いません。
なので、おっしゃられていることは、金の卵が単純労働者、過酷な労働者を指す言葉であって。儲かるのはそれを取得した、オーナーである。というのを補強こそすれ。反論ではないと思います。
金の卵は、オーナーから見てカネになる卵だ。というのが、当時の上流階級というか、経営層の認識であった。というのは、おかしくないと思いますが。いかがでしょうか?
※そして、それは、現在の一部の転職市場や、一部の日雇い労働市場にも同じような、うわべはいいけど、中身は違う。というケースが存在しているように見えています。
そもそも、金の卵という単語は、
当時の新聞などが付けた単語。
使い方としては、優秀な人材のこと=金(きん)の卵とおだてていたが、
実際は、工場労働者で野麦峠で想像されるような過酷な労働だった。
ガチョウではなく、卵の方。という所から皮肉を感じ取って欲しいのと。
戦後当時の上野に上京してきた、労働者が実際は過酷な労働だったという時代背景を察した上で、
当時の金の卵という単語が、いわゆる誇大広告だった(まさに、人買いのだまし文句だったという暗喩)。という事を感じて欲しいのだが?
確かに、優秀な若者もいただだろうが。大多数は野麦峠ほどではないものの、過酷な労働だったはずだし、いろんな人権問題がおきていたはずだけど?
「機能しない成果主義と高卒技術者の失望」では、学歴主義の壁に苦しむ高卒技術者、島田潔氏(仮名)の現状を紹介した。彼の職場は、学歴にかかわらず高卒、大学院卒者も、実質的に同じ内容の仕事でキャリアを始めるホワイトカラー職場だ。けれども昇進を決めるのは学歴主義に依った評価である。大学院卒の後輩が3年後には彼の上司となる現実がある。
「確かに大学院卒の人には、理論立てて物事を考える力はあるかな、と思う。けれどもそれが直接現場で役立つ場面は少ないし、社会人経験6年間の差に値するとは自分には思えないです」。インタビューで島田氏はこう話していた。
大学や大学院で身につける「物の考え方」は業務遂行の上で役に立つ。それを業績の一つとして評価する考え方が学歴主義だ。多くの日本企業はこの考えに則って人材を採用している。
ただし問題は、人事評価においてつける差の大きさが「妥当」であるかどうか。元財閥系メーカー勤務、K.K.氏が寄せた読者コメントでは、企業内部の非妥当性が生々しく明らかにされている。
「実力で部長職までいった製造部長が、大学を出ていないというただその一点で役員にはなれない。部下の査定の際も、よっぽどばかな大卒でないかぎり高卒と成績を逆転してはならない。製造現場にもかかわらず、高卒によい評価をつけないために、英語の検定試験結果やプレゼン能力を査定に入れたり。管理職をやっている本人が自己嫌悪に陥るような暗黙の了解が多々ありました」。
厳然と残る賃金格差
学歴主義は古くて新しい問題だ。身分や世襲を基にした社会では、親の職業からいやでも離れられなかった。けれども学歴の取得は、制度上はだれにでもチャンスが開かれている。学歴主義が評価されるのは、その民主的な側面に目を向けた場合である。
いっぽう、マクロな視点で戦後の数十年を眺めれば、別の構図が浮上する。学歴の取得には父親の職業が影響するという調査結果(例えば農家の子息より企業の管理職の子息の方が大卒である率が高い)からは、学歴取得は制度上平等でも、社会の現実はそう動いていないと分かる。そして就職後は学歴による明らかな賃金格差が待っている。
社会学者が1955年から10年ごとに調査している「社会階層と社会移動全国調査」のデータを見ると、1995年における50代大卒男性と高卒男性の平均年収の格差は約1.5倍。中卒男性との差は2.1倍だ(「社会階層 豊かさの中の不平等」(原純輔・盛山和夫著、東京大学出版会、1999年刊)。
就く仕事にも格差がある。大きく分ければ大卒男子は企業の総合職、高卒男子は製造現場。登場人物・島田氏のような、高卒男子のホワイトカラー職への就職もなくはない。しかし、現実には極めて少ない。「学校基本調査報告書」(文科省)を見ると、1950年代には30%を超えていたホワイトカラー職(事務職、専門・技術職)における高卒男子の割合は、2004年には7%まで落ちた。
このように、就く仕事や賃金、昇進における学歴格差は、戦後数十年のあいだ存在してきた。しかし格差の問題が、「勝ち組」や「負け組」といった流行語を生むほど一般の関心を集め始めたのは、最近の現象だ。それはなぜなのか。
社会階層研究を専門とする盛山和夫・東大教授によると、企業活動が拡大した1960年代??70年代の高度成長期に、学歴による賃金格差や昇進の格差はそれ以前の時代より縮小した。高卒者や、場合によっては中卒者であっても大組織に入り、相対的に出世ができた。ホワイトカラーとブルーカラーの賃金格差も縮まった。
しかし1990年代の低成長期に入ると企業の人事政策は、より強く市場原理を取り入れたものとなった。「賃金格差は拡大する傾向にあり、今後もその流れは続くだろう」と盛山教授は見る。
さらに別の要因が、高卒者の就職状況を悪化させた。「団塊ジュニア」世代の大学入学に備えた大学・学部増設政策による、大学生の急増だ。かつての高卒職場は大卒者に置き換えられた。そしてすでに就職していた高卒者は企業内で「学歴マイノリティー」と化し、働く意欲や動機を持ちにくくなるという問題が浮上した。
「高卒者にとっての、成功のモデルケースがなくなった」と指摘するのは、豊田義博リクルートワークス研究所主任研究員だ。
かつての成功モデルはこうだった。正社員採用で就職して製造現場で働き、安定した職業人生を歩む。あるいは企業の知名度が低くて大卒者が集まらないサービス業種(居酒屋チェーンなど)で、現場経験を積んだ後に店長になる。
ところが製造現場は海外移転し、国内の工場労働者は正社員よりパートやアルバイト、有期雇用者の採用が増えた。店長コースの方は、大学生の増加で新興チェーンにも大卒者が就職するようになり、「店長は大卒、店員はアルバイトという流れになっている」(豊田氏)。
議論すべき社会の仕組み
では学歴マイノリティーと化した高卒者はどうすればよいのか。島田氏の事例に対する読者のコメントには、学歴主義を気にするより努力で克服してはとのアドバイスが目立った。一つは、「闘う土俵を変えよ」というもの。「高卒で悩んでいる方々はぜひ旧態依然とした企業から、しがらみのない若い会社に移るべき」(前出の元財閥系メーカー勤務、K.K.氏)。
もう一つは、「闘う以上は同じ土俵に乗れ」というもの。「夜間の大学に通い、学位を取得するのも、本当に実力で勝負しようと言うのであれば、一つの選択肢」(竹田雅信氏)。
さらに議論を進めれば、学歴格差の問題はもはや高卒者に限ったことではない。盛山教授は「かつては中卒・高卒・大卒の学歴格差が問題だった。今後はそれが高卒・大卒・大学院卒の学歴格差に移行するだろう」と言う。
大卒・大学院卒者の増加による「学歴インフレーション」(高学歴取得者の職業的地位の下落)や、出身大学の偏差値による大卒者内の格差の進行も、すでに調査で明らかになっている。
ただし、盛山教授は、最近の流行である「勝ち組」や「負け組」といった単純な二極化論や、欧米並みの階層化が日本企業で進行し希望を失う若者が増えて社会問題になる、といった「格差恐怖論」のような見方を否定する。
盛山教授はこう話す。
「みんなが収入や地位を上昇させてきた今の50代以上とは違い、20代、30代の大半の人にとって学歴を問わず、収入や地位を向上させるのが難しい時代になったのは事実です。けれども高度成長期以前には、学歴格差は今よりもっと大きかったことを多くの人は忘れている。勝ち組と負け組について実証的に示したデータなどないが…。若い人が高収入を得るにはどうすればいいか、それを可能にするのはどんな産業かといった具体的な議論が必要なのです」。
そこそこ目先が利いたのと、女性だったので高度な要求も無く、自分
の知識や学歴に関して大きなコンプレックスを持つことも無く、生活
してこれました。ところが家族がトラブルに巻き込まれてしまいした。
動ける人間が私しかいなかった所為で、当事者と私と弁護士が中心に
なって処理することになりました。 この事件を通して、私は日本が
『学歴社会』(もしくは資格社会?)なんだと痛感したのです。普通に
暮らしていれば、自分のレベルにあった生活圏の中にいるので、学歴
や知識のレベルを意識することも、試されることもないです。 その
証拠に近所のオジサン、オバサンは何の根拠も無しに異常に威張って
いるでしょう? いつも『怖いオーラ』を出している人もいるしね
若い女性は『分からなぁ??い』と言った方が可愛がられたりします。
よく仕事の出来る女性を『可愛げがない..』と言うのと同じ感覚です。
男性から見たら、年下で女性なのに自分より知識や才覚があったら気
に入らないのでしょうね。 同性に関しては、その上にコンプレッ
クスが入るから、ますます面倒です。(異性も同じか..)
日本では『受験勉強は暗記でしかない!』、『学歴は学歴、本当の頭
の良さとは違う!』、『頭でっかちでは困る!』等々ということにさ
れていますが、本当はどうなのか? 実社会では歴然と学歴社会です。
でも高学歴者は少ない! その他大勢の人の不満を抑える為に、上記
のような考えが広まっているのでしょう。その方が都合がいい人達も
いますしね。 例えば、転職を考えている人.. 確実に高学歴の人の
方が好条件の転職をしています。それでは学歴の低い人は、『本人が
悪いんだ』と言い切れるのか?と言うと、そうでもない。それは学歴
私の兄は名門と言われる高校に行きました。親の紹介欄は、ずら??っ
と高学歴・高地位で尚且つ一等地が並んでいました。 特に職業欄は
『弁護士』『官僚』『公認会計士』『会社社長・役員』が殆どで他が
ない。それは見事です。社会には普通の職業の方が多いのに、見事な
までに一人もいない。 そのように家庭環境は、高学歴を作る上で大
きな影響力を持っていることは確かです。
そして未婚の女性の本音.. 『高学歴・高収入・高身長』 あれっ、
この3つでしたよね? 興味が無かったので自信が...
だから、本人の所為じゃない要素も大きい訳です。 にも関わらず、
財界や政府は、積極的に勉学の応援をしないどころか反対に、職人の
子供は職人でいい! 工場労働者の子供は工場労働者でいい! とい
うのが本音であるように、私には見える。
一生懸命勉強して一流大学⇒有名企業に勤めても、山一や拓銀のよう
に潰れてしまえば終わりだと思わせる“風潮”がある。 騙されては
いけない。私はそんなことはないと思う。勉強したものや学歴が無駄
http://anond.hatelabo.jp/20070722231000
アメリカにいる低賃金労働者は、実は工場のラインじゃなくてみんなサービス業(ウェイトレスとかタクシードライバーとか)、っていうのがホントのトコらしい。
んで、アメリカのサービス業の場合はチップというものがあるんで、その場合、その分最低賃金も低く抑えられてるそうな。
(ただ、チップを含めた収入がチップのない仕事の最賃以下だと、雇い主はその差額を払う、みたいな話だったような)
で、そーゆー仕事に就いてる人っていうのは、アメリカで言うとヒスパニック系の移民とかが結構多かったりするらしい。
詳しくはこの辺で↓
いや、過去にもいただろうか。
何より文章を読むのはダルい。身体を硬直させて文字をただひたすら眺める。
まるで体中を縛られ自由を奪われているかのようだ。
微かに動く眼球は細く虚ろで、慈愛に満ちているはずの人間の生命はまるで機能していない。
驚くことだが、読書時には実際に脳の機能は停止している。信じられないのなら一度試してみるといい。
読書をしている時に、そいつの名前を呼んでみるんだ。
するとそいつはすぐに反応せずに、数秒、下手したら数十秒たってから顔を上げるだろう。
この反応のない状態を医学用語で「キリの良い所まで読む」と言う。恐ろしい症状だ。
継続的に同じ軌道を描いて動かされる両の手は、工場労働者を思い起こさせるがそれよりも悲惨だ。何故なら読書は無給なのだから。
読書家は二度と手に取られることの無い紙の束を棚に入れる作業をやめようとしない。
漫画家も小説家もお金を貰っているが、同じ単語の最後に家が付く読書家は誰からもお金も貰っていない。
何故そこまでして読書をするのか? 彼らに聞いてみると多くが「知識が得られるから」と答える。
なるほど、つまり読書家はてんで知識を持っていない人間であり、要するに馬鹿なのだ。馬鹿だから読書という行動に時間を費やす。