はてなキーワード: ピクサーとは
http://twitter.com/hosodamamoru/status/16212042862]
見た次の日に、ディズニーが超ひさびさに作った2Dアニメ「The Princess and the Frog(邦題:プリンセスと魔法のキス)」について、ジョン・ラセターが話してるのをPodcastの英語教材で聞いた。
のでちょっと書き起こしに挑戦してみた。
When I was up at PIXER, when the studios down here(LA), all the studios decided that they were not going to do hand-drawn animation any more. It broke my heart. Because never in the history of cinema has a film been entertaining to an audiens because of its technology. It's why you do with the technology.
And I really felt like they were blaming for performance of the movies on that it with hand-drawn as a pose to computer animatnion.
So when a merger(merged) of Disny with PIXER happened, I returned to the Disny studio with a very first dicidion it may was we gonna bring back hand-drawn animation.
けどすいません、ちゃんとヒアリングできてない。いろいろ違ってると思います。。。でも多分最初のところはだいたい合ってる……と思うです。
私がピクサーにいた時、このへんのスタジオがみんなこれ以上手描きのアニメは作らないと決めていたのは悲しかったよ。だって、映画の歴史上、観客をそのテクノロジーによって楽しませた作品は決してなかった。だから(あくまで)テクノロジーは“共に”あるべきなんだ。
目的じゃないんだ、というふうに読みました。
ソースはこちら:
http://www.eslpod.com/website/show_podcast.php?issue_id=8700327]
借りてきてみた。
おもろかった。
三歳の息子は大喜びで何回も繰り返しみている。
子供の興味を引きながら大人も楽しめる作品に仕上がっており、さすがピクサーだと思った。
ただ、これCGアニメじゃ無くてもいいよなと思った。
大人向けのリメイクとして実写版を作ったらどうだろう。
結末がハッピーエンド過ぎるから大胆に変える。
実は家を飛ばした後のストーリーは、こん睡状態に陥ったカールじいさんの見ている最後の夢であり、現実ではじいさんはあのまま老人ホームに連れて行かれ、家は飛んでいない。ラッセル少年も実在しなかった。ラッセル少年はじいさんと妻エリーとの間に生まれてくるはずだった息子であり、現実にはこの世に存在していない。変な鳥のケビンもしゃべる犬のダグも狂気の冒険家ムンツも、現実の人生で冒険できなかったじいさんが生み出した夢の世界の住人であり実在しない。老人ホームに連れて行かれた日を境に、日に日に体調を崩してついに臨終を迎えるじいさんの最後に見た夢がこの映画のストーリーなんだよという話にしたら、大人向けの映画として高い評価を得るんじゃないかと言ったら妻にそんなの嫌だと怒られた。
その感じ方は半分正しいっちゃあ正しい。
なぜかっていうとCGってまだ発展途上で、自由に表現できる域まで来てないわけ。
フルCGアニメ映画のピクサーが、何で「トイ・ストーリー」とか最近だと「ボルト」(犬の話ね)とかばっかり作ってるかっていうと、まだ技術的にもノウハウ的にも「人間が撮れる域に達していない」っていう自覚があるからなんだよね(宇多丸氏の受け売り)。
それが、少しずつではあるけれども人間の周囲を描き出してる。徐々に徐々に近づいていってるんだよ。こういう努力もある。
(軽くネタバレ注意)
ピクサースタジオの新作映画『WALL・E』は、制作者のアメリカエンターテイメント文化に対する愛が色濃く反映されたものだった。
例えばアニメーション技術的な部分では、カートゥーンの伝統的なモーション、テンポ感、デザインを踏襲しつつも
最新の3DCG技術を使って新しい映像表現に挑戦している(これはピクサー作品全般に言えることだが)
それからモティーフに関して言えば、宇宙船のデザインがスター某に出てきそうな感じだったり、劇中に出てくるシネマアーカイブや歌も
アメリカの昔のポピュラーなものを巧みに使っていて、そういう懐古心を喚起させる造りになっていたのが特徴的だった。
さらに『WALL・E』と併映の同スタジオ制作短編『プレスト』は
コンセプト自体が3DCGでカートゥーンおなじみのドタバタアクションギャグをやるというもので、伝統芸に対する愛がよりストレートに表現されていた。
ピクサーの感心するところは、そういう「俺の国の文化SUGEEグッドだろ?」っていうスタンスでありながら、
ただのオナニーにならずに世界中の人が楽しめるような映像作品にちゃんと昇華させているところ
ただの自己陶酔の為の自慢は、傍からみていると滑稽で醜いだけだけれど
『WALL・E』のような作品で愛国心を提示されると、傍から見てても「なんか楽しそうでうらやましいよ、あんたら」
という満更でもない気分になる。
こういう風にヘイ!って陽気に楽しくに愛国心をさらけ出せるのは、国民性の問題もあるかもしれないし
一概にこれが正しい愛国の表現方法だよみたいに言うつもりは無いけれど
「日本の文化SUGEE!」って表現するときの、手本にしたい姿勢だなと思う。一人のプロ3DCGアニメーターを志す者として。
関連
日本SUGEEEEEEEEEEEEEEEE!ってなるコピペくれ
http://vipvipblogblog.blog119.fc2.com/blog-entry-248.html
「日本SUGEE!」を殺すために記す。
自分の中でのアニメオタク(特に萌えオタ)に対する嫌悪感が一体何なのかきちんと考えてみた。
すると恐るべき結論に達してしまった。これから書くことは正直私も断言して良いものかどうか躊躇している。しかし、アニメ文化の発展のためにも、心を鬼にして書かなければいけないことだ。
今までも、そしておそらくこれからもずっとそうだ。これは岡田斗司夫のような豚野郎の言う「オタクは死んだ」でも、東浩紀のような豚野郎の言う「読者の質が悪い」でも、宇野常寛のような豚野郎が言う「萌えオタはクズ」でもない。もっと根幹に関わる重大なことだ。そして恐ろしい事実だ。
まず、オタクがオタク向けに作ったオタクアニメが大きな評価を得てきたことは今まで一度たりともない。
名作を作ったクリエイター側は言うまでもなく、『ガンダム』の富野由悠季は仕方なくアニメの現場に降りてきた人だし、『攻殻機動隊』の押井守は元々映画監督志望でジャン=リュック・ゴダールを敬愛していてたまたまタツノコプロの求人が目に入ってアニメ業界入りした人だ。
「でも、今は世界的にアニメブームが起きているじゃないか」と萌えオタがブヒブヒ言ってきそうだが、それは幻想である。まず90年代後半に盛んに言われた「ジャパニメーションブーム」を取り上げると、これは岡田斗司夫がオタクの地位向上のためにでっち上げたものだ。本人も後にそれを認めており、外からの圧力に弱い日本でオタクが市民権を得るにはそれしかなかったと言っている。この岡田斗司夫の苦肉の策に電通や村上隆が乗っかり、ジャパニメーションブームという虚構ができあがったのだ(元々別称だったジャパニメーションという言葉を良い意味として輸入したのが村上隆である)。
まずは、宮崎駿。アカデミー賞も受賞し、名実ともに日本を代表するアニメーション監督といった地位を得ているが、その作風はアニメ界ではむしろ異端である。スタジオジブリ的なもの、宮崎駿的なアニメは本人にしか作れず、その作風を引き継ぐような後継者は未だ誰一人いない(宮崎駿の後進育成が下手という話ではない。宮崎駿に影響を受けた人間が外で宮崎駿的なアニメを作ったっておかしくないのに、そんな人は日本にはいないのだ。海外ではどうか? そう、モンスターズインクを制作したピクサーが後継にふさわしいだろう。言うまでもなく彼らはアニメオタクではない)。
宮崎駿にはオタク的なるものを避けて避けてやっと今日の地位を築いたという歴史がある。オタク的なものを避けて世界的評価を得た、これは非常に重要なポイントだ。
押井守もその一人だ。『うる星やつら』を制作し、オタク向け監督の一人で終わるかもしれなかった彼は『機動警察パトレイバー2 the movie』や『攻殻機動隊』においてオタク向けアニメ的想像力を捨て去ることで作品の強度を確立した。『ビューティフル・ドリーマー』はどうなんだ、という声があるかもしれない。これには後に押井守がこう語っている。「劇場版第一作『オンリーユー』を作ったとき、原作者やファンが喜ぶことを全部詰め込んだ。上映されると当然原作者やファンは満足したようだが、作品的には酷い代物だった」。この諦観によって『ビューティフルドリーマー』は作られた。オタクから距離を取ることで傑作に仕上がったのだ。
他にも大友克洋の『AKIRA』だって一見すればわかるようにオタク的な想像力から離れたものであり、渡辺信一郎の『カウボーイビバップ』だってそうだ。
オタク監督だと言われるウォシャウスキーやタランティーノだって、ウォシャウスキーはSFの人で決してオタク的想像力に耽溺しているわけではないし、タランティーノは高校中退して一日中映画を見まくっていた怪物だ。
エヴァンゲリオンを無視しているじゃないか、と言われるかもしれない。確かにエヴァはオタクがオタク向けに作ったオタクアニメであり、社会的現象を起こすほど大ヒットしている。だが、これ一本でもってオタク的想像力の勝利にはなりえない。何故ならオタク外にも評価されたオタク監督は庵野ただ一人、例外中の例外なのだ。その庵野ですら、オタクの偏狭さに嫌気がなして反オタクに改宗した。その事実をオタクは裏切った、とこれまた偏狭さを見せて批判している。
このようにオタクがオタク向けに作ったオタクアニメで傑作が生まれたことは、一件の例外を除いて存在しない。オタクが喜ぶ想像力や「萌え」なんてものは全然強度を持ち合わせていない(十年前にオタク的想像力でオタクに受けていたクリエイターの今の地位を思い浮かべて欲しい、それが十年後の山本寛や新房昭之の姿だ)。
むしろ、オタクの好みに少しでも外れると烈火のごとく怒り、作画監督が少しでも個性を出すと作画崩壊と騒ぐその類まれなる偏狭さは害悪だと言ってもいい。
オタクはオタク的な想像力から外れるような、例えば『スーパーミルクチャン』や『TAMALA2010』のようなアート的アプローチから生まれた傑作を評価できない。どちらも発売時にはタワーレコードに平積みされ、オタク的想像力は一瞬で敗れ去った。
それどころか『フリクリ』をオサレだとかラベリングして嘲笑するほど、子供のような舌でもってクレームをつけて回っているのだ(『フリクリ』はガイナックスが作ったオタクアニメじゃないかという屁理屈が聞こえてきそうだ。ガイナックスは今や庵野の反オタクキャンペーンによってオタク的な人間は駆逐されており、鶴巻は反オタクの急先鋒である)。
そして、それは明らかにアニメの進化を阻害している。その理由を書こう。
まず、オタクが大好きな絵柄、要するに萌え絵はアニメーションに不向きなのである。あの頭と目が大きく、等身が低くて身体か華奢という構造は、見た目通り人間的に動かすというのは困難だ。だから、どのアニメにおいてもよく動くと言われるものは萌え絵から距離を取っている。萌え絵を選択すると自動的に紙芝居的な動きが縛られたものしか作れなくなる。ディズニーが萌え絵を選択せず、あのような絵柄なのは動かすことを念頭に考えているからだ。
しかし、アニメオタクは萌え絵以外の絵柄のアニメを「絵が変」と言って嘲笑し、批判する。ここがアニメオタクの一番の問題点であり、私が害悪と言い切る理由だ。
例えば近年稀に見る傑作である『鉄コン筋クリート』を例に出そう。この作品も「オサレ」「絵が変」といって批判されているが、この作品こそアニメーションの快感、動くことの快感を思い出させてくれるものはない。画面の中を縦横無尽に動き回るキャラクター達が見るものの心を掴んで離さない。そして、それはアニメオタクが「変」といって批判するその絵柄が貢献している。もし、この作品が萌え絵だったらここまで動くものになってはいない。現にそんな作品はない。
そして、アニメーションの快感を蘇らせたのがオタク外のマイケル・アリアスだったことは非常に重要だ。アニメオタクはアニメーションのことがわかっていない。だから、スタジオジブリ的なものをピクサーに取られ、アニメーションの快感をマイケル・アリアスに取られてしまうのだ。
もう一度言おう。オタク的想像力は強度を持っていないし、オタクが好むアニメ絵はアニメーションに向いていない。アニメーションに向いているオタク的じゃない絵を排除するその思考はアニメの進化を阻害している。
アニメオタクが本当に現実逃避ではなくアニメのことを愛しているのなら、今すぐアニメを見るのをやめて即刻退場することだ。それが一番の貢献だ。
http://www.imdb.com/title/tt0382932/
感動した。
最初は「The Lion and Lambs」観ようと思って映画館行ったけど
上映開始時間が微妙にこっちの方が早かったので変更。
正直、ピクサーは「ニモ」以降終わった会社だと切り捨ててきてさ
いや、つまらないわけじゃないんだよ。ただ、
マダガスカルとかオープンだの作ってる会社のと混ぜてもあんま変わらないよね、
みたいな評価でさ。あ、俺の中では、ね。まぁ進んで観るようなもんじゃないなっていうね。
そんなわけで見る前ノ期待値ってのは断然低かったのね。
だって響きがもっぱらつまらないと噂の(だから観た事ない)の「ライアンを捜せ」みたいじゃん。
「キャラ名+何か」の3Dアニメってなんか微妙な匂いがするじゃん。
まぁ、でもふさふさしたネズミが毎回クオリティーがやたら高いディズニーミュージックに乗って
歌って踊るのを見れればいいかなって思って金払ったんだよ。
あれから大分経ってるし、かなーり、ふさふさになってんだろうなぁ。
もう毛の間のノミとか視認できるくらいに、すげー、ってカンジで。
んでね、最初はね、うん。最初のーそうだなー40分くらい目まで、かな?
は
「人間主人公の名前がリングィーネだったから舞台イタリアかと思ったらフランスかよ」
とか
「なんだよ導入部クソ長ぇな」
とか
とか
「段々とフランス訛りの演技を放棄してく声優陣(笑)。その方がありがたいけど」
中盤あたりくらいからね
もうそんなことどうでもよくなってさ、
思わず姿勢が前のめりになるくらいにスクリーン凝視しちゃってんの。俺。
んで、観終わった瞬間、気づいたね。
「ああ、俺今回全然あくびしなかったな」
って。
んとね、今まで俺はどの映画見ても上映中、必ず一回はあくびしてたの。
いや、つまらないわけじゃないんだよ。
むしろ、つまらない映画なんて無いって信じてたくらいだから。
だって、大体解るじゃん。予告編やポスターや、今はネットもかな、
それでさ、観る前に最悪「クソっぽい映画」は回避できるじゃん。
大体映画なんて自分が興味あっておもしろそうな匂いがするから観に行くもんじゃん。
少なくとも、俺が見てきた映画はそうだったよ。
んで、映画観終わった後、全部「ああ面白かった。なんとなくだけど」で帰ってたのね。
でも、今回それは言い換えれば
「面白かったし、(最低『つまらなくはなかったし』)まぁ良かったけど、
感動はしないよね」だったってことに気づいたの。
実際俺映画でも本でもドラマでもドキュメンタリーでも「感動して泣く」ってことなかったし
まぁ、今回も泣きはしなかったし、別にそれはどうでもいいんだけど、
そのせいか知らんけど俺は「ネットで映画や本の批評とか感想が書ける人」
ってのを理解できなかった。だって、タダ単に「おもしろいか、つまらないか」の違いだけじゃん。
「つまらん映画にひっかかった!」って延々と怒りながら語る人もいるけど
俺にとってはそもそもそんなん「俺は観る前に映画が自分に合うか合わないかも判断ができんアホでーす!」
って看板ぶら下げて語ってるようなもんだったのね。まぁ、お仕事で観る人は仕方ないんでしょうけ、ど。
そんなわけでみんな役者とか監督とか映画の歴史の話とかして文章引き伸ばしてるだけでしょ?実際。
と信じてたわけ。
違ったね。俺。
間違ってたね。俺。
本当に魅力、というか何かパワーがある映画ってのは人を
「俺こんなん観てきたぜ!お前らも観ろよ!」
って言わせたり、文章にさせるだけの何かを持ってるんだね。
多分、前述の「つまらない、ということを長々語れる映画」ってのはそれだけの
マイナス方向へのパワーを持っているんだろうね。俺はこの先一生出合うことはないんだろうけど。
ストーリーの良し悪しや映像自体の細かな技術は俺には語れない。
種族を越えた友情や(男女・家族)愛、だけじゃなくて人種差別や「批評」そのもの等の要素を織り込んだ脚本。
胸に残るセリフ。
解る。それらは理解できる。けど、「他人に語れるほど細やかに消化して吐き出す」のはできない。
それでもこの映画には、
って思わせられるだけの物があった。SDI。
ラストシーンのあの「Ratatouille」の場面で、密かに拍手をするくらいの、何かがあった。
子供の鑑賞にしか堪えられないメリケンのアニメのどちらでもない
何かが。
いかにもつまらなさプンプンな邦題を墨塗りにして上から原題を貼るべきだよね!
今もやってるかは知らんけど。