2023-09-14

anond:20230913112650

次のようなテーマについてちょっと考えてみよう。

 みなさんは社会をどう考えるだろうか?

 我々は基本的に、問題自分の“経験”をもとにして考える。だれもが、経験からしか物を語れない。だがそのこと自体は、特に問題というわけではない。

 ただし、我々がそうした自分経験を過度に“一般化”して、まるでそれが絶対に正しいことであるかのように主張したとしたら、それは大きな問題だ。にもかかわらず、我々はあまりにしばしば、自分経験を過度に一般化してしまうのだ。

これは、「一般化のワナ」と呼んでいる。

 対話議論において重要なのは、こうした「一般化のワナ」に陥ることなく、お互いの経験や考えを交換し合って、どこまでなら納得し合うことができるのか、その“共通了解”を見出そうとすることだ。

 「社会学は絶対の悪だ」とか、過度の“一般化”をするのじゃなく、たとえば、「どのような社会学をどのように実現すべきなのだろう」といった仕方で、お互いの考えをすり合わせていく必要がある。

 言われてみれば、当たり前のことだ。でも我々は、この「一般化のワナ」に、案外簡単にひっかかってしまものだ。我々は、自分経験あくまでも自分経験にすぎないんだということを、ちゃん自覚しておく必要がある。

 とりわけ教育は、だれもが受けた経験があるから、多くの人が自分の信念を強固に持ってしまやすテーマだ。もちろん、そうした考えを個人意見として主張するのはかまわない。でも我々は、そういった議論をやるにあたっては、それが「一般化のワナ」に陥った意見になってはいいか、たえず振り返る必要がある。そうでなければ、お互いにお互いの経験や信念をただ表明し合うだけになって、物事本質洞察するなんてできないだろう。

 自分の信念を、ただ相手にぶつけるのではない。もしかたらこれがひとりよがりな考えかもしれないということを自覚した上で、相手に投げかける。そうやって、自分の考えの“共通了解可能性”を問う。

 それが、我々が対話議論をする時に、もっと大事ことなのだ。

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