たとえば銀行屋にプロスポーツの技術的な指示をお互いが理解できる日本語で行ったとする。
しかし銀行屋はその指示をほとんど理解できない。これは銀行屋が能力的に劣っているからではない。
逆にプロスポーツの専門家であっても、銀行の技術的な指示を理解できないだろう。
いろいろ理由はあるが、常識を共有できないというのも大きな理由の一つだ。
全ての要素を語り手が伝えることはできず、暗黙的な前提を読み手が理解していなければならない。プロスポーツの専門家と銀行屋は多くの場合専門分野における常識を共有してない。
と、このように極端な例えならば、みんなが腹落ちする。
同じ時間をたくさん過ごしてるし、顔もよく合わせてる。だから常識を共有している、と勘違いしてしまう。
が、その前提が誤っている。
あなたの取引先のA社の担当が甘いものが苦手なのは、あなたにとって常識だ。しかし、そんなことはA社の担当ではない、あなたの同僚の常識ではないのだ。
もしも、あなたが何かを誰かにお願いする立場なら、受け手の常識を想定し、その受け手が理解できるようにお願いするべきである
これは特段難しいことではなく立場が下の人間が、上の人間に行うときは多く常識として語られていることだ。
しかし、何故か上の人間はこの常識を紛失し、伝えるための努力を放棄し、理解できない下々のせいにしていくのである。
それは単純に上になればなるほど忙しくなるのと、権力勾配による忖度が期待できるからだ。
が、多様性を前提し背景が異なる人間が増えてくるとなると、そのドクトリンは機能不全になってきつつある。
実際それで成果があげられなくなった不満として、「無能」「アスペルガー」「常識を知らない」と愚痴って負の感情を発散してるのだろう
自らの指示を理解できない人間に、細かく指示するのはあなたの時間の無駄である。
常識を共有できる人間に取り替えてしまうのが早い。外注ガチャを引くとか、部下ガチャを引くのである。