最近何かと「腹落ち」「共感」が良いことのように言われているが、人が誰かの意見や見解に対して「腹落ち」「共感」するかしないかは結構主観的、感情的なところがある。
従って、腹落ち・共感至上主義が導く世の中はこんな感じとなる。
言うまでもない。
これも当然である。同じことを言っても、ハゲデブメガネのオタクオッサンが言っている場合と、高身長イケメンが言っている場合とでは、「腹落ち」「共感」の部分で天地の差が出る。
同じ事を1人が言うだけの場合と、100人がよってたかって言ってくる場合とでは共感・腹落ち度が異なる。当然ながら後者の方が強い。
これは「組織が強い方が有利」という事象に引きづられて起きる。「おぼっちゃんが言っているんだから」の一言で腹落ち度・共感度はかなり変わってくるからだ。
いじめは、その行動や言動が「共感」出来ない人に対して集団で行われるものだ。腹落ちや共感至上主義の世の中では、相手を共感させられない人は排除すべき存在であり、そのためのいじめやハラスメントは肯定されるものになる。いじめの口実を作り、それを集団に対して共感させた人が、共感の外に居る人をいじめて排除する。それが当たり前かつ糾弾されない(むしろ推奨される)世の中になる。
「モヤモヤする」「腹落ちしない」「共感できない」と事あるごとに文句言ってる人は結構いるが、それを突き詰めることで上記の5点のうちいくつかの懸念につながらないかはたまには考えてみて欲しい。決してロジカルではない「腹落ち」「共感」の行きつく先は、人治社会を通り越して情治社会である。
仮にもマイノリティ標榜しといて空気感に安易に頼ろうっていうのが発想としてすげえと思うわ マイノリティの意味がもはやわからなくなる